◆◇◆「略歴のかわりのエッセイ」◆◇◆
「文藝」2003年夏号「特集・保坂和志」

 最初に憧れたのは『快傑ハリマオ』だった。昨年末に買ったDVD四巻セットの解説によると、一九六〇(昭和三十五)年四月放送開始となっていて、当時私はまだ山梨の母の実家に、年上の従姉兄(いとこ)三人に囲まれて住んでいた。憧れるという気持ちはきっとみんな知っているだろうが、憧れたことのない人には絶対に説明しようのない、胸が熱くなり血が激(たぎ)る感じで、恋愛の感情がその相手を欲して、相手がいないとどこか心細くなるような、全体として依存する心が刺激されて、ずぶずぶとそこに埋(うず)もれていくものであるのに対して、憧れは勇気が沸いてきて、憧れるその人を仰ぎ見て、一人でその人に向かって突き進んでいこうとするところがある。だから、ハリマオに憧れた私はハリマオになりきって、一人でせっせとハリマオごっこに耽(ふけ)っていた。私の家は、六〇年九月に鎌倉に引っ越し、実写少年ヒーロー物は『ナショナル・キッド』『まぼろし探偵』『少年ジェット』『アラーの使者』……と量産されることになるが、『快傑ハリマオ』の位置は動かしがたかった。しかし『ナショナル・キッド』のDVDが発売されたら、やっぱり私はそれも買ってしまうだろう。が、そんなことよりも、どうも恋愛よりも憧れの方が私にとって重要らし
く、私の憧れの対象は、その後、天秤棒打法という、バットを頭の上に高く掲げる変則打法で有名だった大洋ホエールズの近藤和彦、マラソンで史上初の二時間十分の壁を破ったオーストラリアのクレイトンなどなどを経て、横浜ベイスターズのローズへと至ることになる。ローズは私の生涯で最後の憧れの対象だろうか。なんだかそんなような気がする。就学前の子供というのは現実とフィクションの区別をつけないから、私は本当に心から、快傑ハリマオになりたいと思っていたのかもしれないが、「なりたい」という気持ちそのものが、いわゆる「将来××になりたい」という心の状態とは違っていたのかもしれない。はっきりと「……になりたい」と意識して思うようになったのは小学校二年のときに思った
マンガ家だった。『鉄人28号』と『伊賀の影丸』が好きだったからなのだが、そのときにはすでに、『鉄人28号』と『伊賀の影丸』をいくら好きでも、「ロボットになって悪と戦いたい」とか「忍者になって幕府を守りたい」とは思わずに、「マンガ家になりたい」と思うくらいの分別はついていたということだろう。毎晩毎晩ロボット・マンガや忍者マンガを描く日々はたしか小学五年生ぐらいまで続くことになったと思うが、引き籠もりではなかっので昼間は野球やもっと全然子供の遊びをやっていて、だから野球選手にもなりたかったし、プロレスラーにもなれるものならなりたかった。当時(一九六〇年代後半)はジャイアント馬場の全盛期だったが、私は馬場のタイトルを奪いに外国からやってくる、ボボ・ブラジルとかブルーノ・サンマルチノとかゴリラ・モンスーンなんかの方が好きだった。しかしそれでも本気でプロレスラーになりたいと思わなかったのは、痛そうだからとか体格がないからというような理由ではなくて、両親がプロレスのことを嫌っていたからで、小学生にとってそういう圧力はやっぱり大きいと言わざるをえない。力道山が死んだのは私が小学二年生のときだったが、その前後から「プロレスなんて、あれは八百長だ」と言われるようになっていて、プロレスに熱狂することは同時に「八百長説」をたんに否定することでなく、それとのスタンスを自分の中で確立することでもあり、それにまつわる葛藤が自然と私の思考や感受性の回路を複雑にする結果をもたらすことになった。いや、冗談でなく、これは心底本当のことで、ジャイアント馬場が苦境に立たされながらも最後にはギリギリで勝つという結果がわかっていても(わかっているつもりでも)、そのプロセスたるや凄まじいもので、「最後には勝つというシナリオに安住していたら、こんな戦いを戦いきることはできない」とか何とかいろいろなことを子供心に考えざるをえなかった。それに私は一種の運命論者でもあって、「八百長、八百長とプロレスのことを馬鹿にしても、おまえの人生自体が決まっているもので、そのことにおまえが気づいてないだけなんだ。おれの人生だってすでに決められている。でもどういう風に決められているのかわからないから、
やらなくちゃならない。『決められている』と言われただけで、やる気をなくすなんて甘い。本当の運命というものがわかってないね」というようなことを、小学生なりの稚拙な言葉で考えてもいた。そして実際、ジャイアント馬場はボボ・
ブラジルとの一戦のように負けることもあったのだ。まあ、すぐにリターンマッチが設けられて、ベルトは日本から持ち出されることはなかったのだが、私は「今度こそ馬場を打ちのめすヤツに違いない」と外人レスラーを応援しつつ、馬
場がベルトを死守したことに安堵もするという、とにかくプロレスに対して何重にも屈折した見方を強いられていた。プロレスはたまに休み時間や放課後に砂場でやる程度だったが、一方野球の方はもっとずっと熱心で、夏休みにチームのみんなで集まって、ランニング、ノック、バッティング練習をするようなことまでしたが、どう贔屓目に見ても自分は甲子園で活躍できるようなレベルではなかった。甲子園でダメな選手がどうしてプロ野球に行けるだろうか。さらにもう一
方、毎晩描いていたマンガの方はどうなったのかというと、三年生ぐらいからはもっぱら忍者マンガになっていたのだが、私の描くマンガはもうほとんどすべて『伊賀の影丸』の丸写しで、絵柄・キャラクター・ストーリー、どれをとってもオリジナルなものではなく、いくら描いていもオリジナルなものが出てこないということに気がついたときにやめてしまっていた。そんな日々を送っていたのが六年生になると、突然担任の先生から中学受験をするように言われる。「勧められた」というよりほとんど命令で、子供というのは怖いもので、それまでしたことのなかった勉強も、してみれば一つ一つ問題をクリアしていくゲームかスポーツみたいなもので、毎日いっぱい問題集を解いて、中高六年間の私立に入ることになるのだが、そこに至る小学校六年間で読んだ本は子供向けに書き直された『がんくつ王』と『坊っちゃん』の二冊。「文庫本」というものの存在を知ったのも中学一年の秋のことだった。そういうものの存在を知ることになっても、本なんて自分には関係ないと思っていた。友達が『罪と罰』だったか、分厚い文庫本を持っているのを見て、「こういう本を読んだら面白いんだろうか。でも、自分がこんなものを読む日は来ないだろうな」と感じたことも憶えている。数学の問題だったら二日でも三日でも考えつづけられたけれど本なんか十五分も読んでいられなくて、そのころ私は自分の将来を理科系の研究者になると思って疑っていなかった。それが一変したのは、中学二年の秋にロックと出合ったときだっ
た。(以下省略)

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