◆◇◆文学都市の水脈 「鎌倉文士、そして今・・・」◆◇◆
神奈川新聞2005年11月23日(水)


鎌倉と私 自然への無条件な信頼

 私は幼稚園に入る前に鎌倉に引っ越してきて、大学を出るまでずうっと鎌倉に住んでいた。だから「鎌倉」イコール「自分」だと思っている。今は東京に住ん でいるけれど、「鎌倉」が「自分」だという気持ちに変わりはない。両親の住んでいる家が鎌倉にあるから、「いずれ鎌倉に帰るのだろう」という気持ちもあ る。鎌倉に帰れば友達もいる。しかし、将来鎌倉に帰らないとしても、鎌倉に友達が一人もいなくなったとしても、「鎌倉」は「自分」なのだという気持ちは一 生変わらないんじゃないかと思う。
 鎌倉にいると、どこにいてもまわりを囲んでいる低い山が見えて、体のどこかで「あっちには海がある」と、つねに感じている。私は「風景を愛でる」なんて こととおよそ縁がない子どもだったけれど、二十歳の頃には、気持ちがネガティブなときには海を見に行って、それだけで立ち直っているような人間になってい た。
 自然というのはすごい力を持っていて、ああでもないこうでもないと難しいことを考えていても、海面にきらきら反射する光を見ると、「結局、俺が知りた かった答えは、この光だったんじゃないか」と、簡単に納得してしまう。だから私にとって自然はもうほとんど無条件な信頼の対象なのだ。
 三浦半島で生まれ育った人から「保坂さんの小説には海辺の人間特有の怠惰さがある」という見事な指摘をされたことがある。自然を信頼している人間は怠け 者だという意味なのだが、怠け者でなければ得られない充実感が外の人にはわからない。働いたら充実感が得られるなんて大間違いで、人生の充実感とは究極的 には、江ノ電の駅のベンチにずうっと座って、海や山や空を眺めているときに得られるようなものなのだ。
 外の人は、そのときの光を崇高で特別なものとイメージするだろうが、あるのはありふれた光だけだ。それで充分なのだ。

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