≪『カンバセイション・ピース』
(初稿)A・Bパターンについて≫

これは発表された『カンバセイション・ピース』の5章に相当する部分で、書いた時期が2002年の夏頃なのですでに記憶があやふやですが、4章のあとの展 開に行き詰まった証拠が、これから順次発表していくA・B2通りの初稿です。すでにこのサイトで発表している『カンバセイション・ピース』(初稿)の (8)までは、決定稿とあんまり変わっていないのですが、その後、AB2回原稿を破棄し、3回目に書いたものが、決定稿となったわけです。


『カンバセイション・ピース』
(初稿)A パターン(その2)

そうしているとドシンドシンと階段をのぼる音を立てて森中がやってきて、これもほとんど定位置になっている南の窓の敷居に腰掛けながら、
「講師のリストできてたら、ください。おれ、メール打っときますから」
 と言った。
「バカ。メールはダメだって、言っただろ」
 浩介がすっとからだを起こして言った。特別語気を荒げたわけではなかったけれど、きつかったことは間違いなくて、森中は「はいぃ……」と答えた。
 もっとも、気をつけするような勢いで「ハイッ」と言わずに、いつもの、何事につけても不満たらたらの調子のまま「はいぃ……」と言ったところがさすがに 森中で、それにつづけて、
「でも、もうみんなメール・アドレス持ってんじゃないですか」
 と言った。
「だから、こういうことはちょっと古臭めがちょうどいいんだ――って、何度言えばわかるんだよ。
 自治体の窓口は一番新しいのを喜ぶ。しかし――?」
「講師はちょっと古臭めがちょうどいい」
「はい、よくできました。
 森中君、キミはメールの文章しか書けないんだから、依頼状は沢井綾子さんに書いてもらう。それで、届いた翌日を見計らって電話をする。ちゃんと覚えて る?
 電話も、森中君じゃなくて、沢井綾子さんがするんだよ。わかってる?」
「じゃあ、おれがすることは何もないじゃないですか」
「あるじゃん。沢井綾子さんの書いた依頼状をポストに出しに行ってていう大事な仕事が」
「いいですよ、もう」
 浩介が茶化しつついたぶっているのを聞いていて、チャーちゃんがヤモリを咥えてふりまわして、爪にひっかけて飛ばして遊んでいたところを思い出した。友 達の実家の猫はある日モグラを咥えて帰ってきて、家の人たちに得意になって見せびらかして、人に見えるところで一週間いたぶりつづけたという。友達の家族 はせっかく喜んでいるところを取り上げるのもかわいそうだと思いつつも、なんて残酷なことをするんだと目をそむけていたそうだが、力関係の上に立って、茶 化しいたぶる浩介は猫の悪い面と同じものを発揮していた。
 森中は私を見て言った。
「みんなどうしておればっかり標的にするんですか。子猫に小屋作ってやるって言うと『無責任』って言われて、メール出しときますって言うと、『バカ』って 言われて――。教えてくださいよ。内田さん小説家なんだからわかるはずじゃないですか」
「もういいよ、その話は」と私は言った。
 茶化したりいたぶったりを二人がかりでやったらコントになってしまう。浩介も最初のひとことでやめておけばいいのに、いろいろしゃべるから結局森中もあ そこで浩介がおこったということをあんまりに真に受けていない。私は、
「マイクロソフトの何とかをどうのこうのするっていう話はどうなったんだ?」
 と訊いた。
「進めてないですよ、そんなもん。あの話をしようとすると、社長が収入が十倍になるとしても三倍働かされるのはヤダとか、わけがわからないことばっかり 言って、ヤな顔するんですから」
「ヒモは一箇所でじゅうぶんなんだよね」
 浩介が私を見て言った。
「ヒモ? 何のことですか、それ」
「労働に支払われる対価の問題だよ」私が言った。
「ヒモと関係ないじゃないですか」
「業種を間違ったよな」
 と言って、浩介はまたごろんと仰向けになり、それを見て森中は立ち上がって、
「講師リストお願いしますよ。ちゃんと沢井綾子さんに依頼状書いてもらって、おれがポストに入れてきますから」
 と言って、足音を立てて階段を降りていき、森中の大きな足音は北の廊下に入ってもまだ聞こえてきた。浩介は仰向けに寝ころんだまま、企画書を読むという よりただ見つめていて、私は机の前の椅子にすわって青というよりも藍にちかい濃くて遠くの深いところまで見えているような空を見ていた。
 夏の前あたりから浩介がここにあがってきてただ時間をやりすごすようなことが増えたと思っていたが、労働に支払われる対価が極端に狂っている世界で仕事 をしていることをおもしろくないと感じていることが原因のひとつだったのかもしれなくて、私はこの家に住んでいた伯父のことを考えた。
 伯父は弟子が何人もいる大工の家に生まれたけれど、長男と二十歳、次男とも十いくつ年が離れた七人兄弟の末っ子の三男坊で、小さい頃から甘やかされて 育って、成績もよかったので上の学校に行かせてもらい、そこから早稲田の法科に入ったらしいが途中でやめた。胸が悪かったという話があって、表向きにはそ れが原因だったことになっているが、本当の理由はそういうまともなことではなかったらしいが、よくはわからない。何しろ自分自身の父親の経歴だって詳しい こととなると知らないくらいなのだから、母親の姉さんのダンナさんであるところの伯父の若い頃のことなんて、いろいろ聞いた断片を集めるしかなくて、その 断片の真偽だって定かではない。奈緒子姉や英樹兄に訊いてみたこともあったけれど、「親父の若い頃のことなんか知るわけないじゃないか」としか言わない。
 それでとにかく早稲田を中退して、商社に就職して、伯母と結婚したところで召集されて、しばらく宇都宮(だったと思うが)の駐屯場にいるあいだに幹部候 補生の試験を受けろとさかんに言われるのをのらりくらりと逃げたり引き伸ばしたりしているうちに、上等兵くらいの階級で八丈島だったか三宅島に通信兵とし て行くことになった――この時期の話は死ぬ二、三年前のある晩、ここに泊まりに来たときに、私一人が遅くまで伯父の酒の相手をしているうちに聞くことに なって、戦争をしている下っ端の兵隊とは思えない怠け者ぶりに呆れたというか、当時まだ七十二、三だったのに一日中ごろごろ寝てばかりいた伯父の原型を 知って、つまりこの人は本当は若いうちから一貫して、汗水たらして労働することを避けつづけたんだと思って、血のつながりはないけれど、父親がわりに「祥 造お父ちゃん」と呼びつづけた人にあらためて敬意を抱くようになった。
 それで八丈島だったか三宅島だったか、伯父が行かされた島は硫黄島のような激戦地にもならず、伯父はそこで不動産屋の息子と親しくなり、戦争が終わって いったん山梨に帰って、実家と妻(伯母)の実家の無事を自分の目で確かめ、本当にみんなの無事を確かめる程度の短期間しか山梨にいないで、再び妻を実家に あずけっぱなしにして東京に出てきて、紙の闇屋をはじめて一財産つくって、その金を元手に不動産屋をはじめた。それでその不動産が軌道にのった段階でよう やく伯母と一才になる奈緒子姉を東京に呼んだらしいが、そのあいだ伯母と伯母の実家の人たちはみんな騙されたとか結婚に失敗したとか思っていたらしい。
【北杜夫の『楡家の人びと』に昭和のはじめに畑と田圃しかなかった世田谷の様子が書かれているが、】(【 】の部分は青斜線で消してある)昭和二十二年の 世田谷だってものすごい田舎で、その田舎ぶりには山梨から来た伯母や両親(私の祖父母)さえ驚いたと言う。せっかくの東京なのに何もこんなところに好きこ のんで住まなくてもいいじゃないか――というのが普通の人間の感覚だけれど、伯父には闇屋で成功した実績があり、金もあったので、祖父母たちは面と向かっ て文句を言うこともなく、帰っていき、それからすぐに実家の大工を総動員させて、木材も闇屋だか不動産屋だかのツテを使って集めて、この家を建て、直後に 二人目の英樹兄が生まれた。
 繰り返しになるかもしれないが、伯父が建てたこの家の造りは自分が育った家の造りをひとまわり小さくした感じで、自分の家がそうだったように内弟子のよ うな若い衆が一緒に住む大家族にしたいと思ったので、私の家族が昭和三十四年に住むようになるまでの約十年は、山梨から出てきた、人づてに紹介されただけ の大学生を常時二、三人、金を一銭もとらずに(当然まかないつきで)下宿させていた。
 というのが、私が知っている断片のほとんどすべてだけれど、伯父が金もとらずに大学生を下宿させたりしたのは、実家と同じ大家族をここで再現したかった からという理由も(それが伯母や子どもたちや親戚のあいだでの公式見解だ)確かにあるのだろうけれど、労働に見合わない収入を得ていることのおもしろくな さをいくらかでも解消したいと思ったからなのではないかと、私は仰向けに寝ころんでいる浩介を見ながら考えた。
 伯父の実家は大工から工務店に変わり、戦後も順調にやっていたのだとみんな思っていたそうだが、八十年代のバブルを前に多額の借金があったことがわか り、伯父はだいぶ資金援助をしたらしいが、町の不動産屋では高が知れていて、伯父の実家は結局土地を手離すことになった(らしい)。伯父はみんなからいつ も気難しい仏頂面をしていると言われていて、実家のこともまた気の晴れない種のひとつだっただろうが、東京オリンピックから万博にいたる上昇曲線の中で頑 として商売を拡張しようとしなかったことが傍から見ればだいたいにしておかしくて、戦後十年でツキを使い果たしたとか、時代を読み間違ったとか母たちは 言っていたけれど、幹部候補生の試験を逃げつづけたように、怠け者であることの方がむしろ常態で、闇屋で儲けたり、不動産を熱心にやったのは、伯父にとっ て特殊な時期だったのだろうと思う。そして戦後十年に満たないような特殊な熱意の時期の財産で(ツテとか権利を含めた「財産」という意味だ)、その後、普 段以上の暮らしができてしまっていることがまたおもしろくなくて、あんな顔をしていたのではないか。
 しかしそれだったら浩介に言われる一人でいるときの私の愛想のない顔に何か理由があるかと言われたら、そんなものはない。ただこういう顔になってしまっ ただけで、内面にウツウツとしたものがたまっていたりするわけでもなければ、世界に向かっておもしろくないと主張しているわけでもない。私がそうだったら 浩介もやっぱりそうだと想像する方が理屈にかなっている。いままだ一才半のミケは何にでも反応がよくて、ミケにとっての世界はいきいきしているけれど、十 三歳と十一歳のクーとココにとっては世界はもうミケほどにはおもしろかったり珍しかったりするわけではなくて、穏やかな顔をして眠っていたり、窓にいても 視界を横切る鳥の影やら何やらにいちいち首を動かしたりしないでただじっとしている。猫ではそれが穏やかな表情に見えるが人間では無愛想とか仏頂面と言わ れる顔になってしまうだけの違いなのかもしれない。
 年をとった猫がただじっとしているときにそれまでの時間を反芻しているとは考えにくいが(しかしそれなら猫の内面はいったいどうなっているというのだろ うか)、人間には過去と自分を取り巻いている現在の二つがあって、まあたいていはそのどちらかを考えている。それは十九才のゆかりが思うような、五年前十 年前二十年前のおもしろくなかったり無為にすごしていると感じてあせったりしている自分を思い返して、「あれでよかった」とか「あれはあれで楽しかった」 という風に評価したり印象を再構成したりする遡行とは別のただ漠然とした気分でしかないようなものだ。このあいだの夜に妻の理恵が、伯母はせめて押し花絵 を残していったが伯父は本当に何も残さなかったと言っていたけれど、伯母の心に浮かんでは消えていったことだって、伯父の心にあったことと同じように残っ ていない。もっとも、妻の言いたかったことは、押し花絵が残されたことで、伯母の心に浮かんでは消えていったことにまで想像のいかり錨を伸ばさずに済むと いうようなことで、男女の性差があるとしたら、女はあとの人たちがそれを見て気が済む物を残しておこうとするけれど、男は気が済んでしまうような物を残そ うとしないということなのかもしれない。伯父は自分がはじめて一時はかなり手広くやっていた不動産屋さえも、息子に継がせようとは最初から考えていなかっ たようで、七十になったというのを理由にして、バブルの真っ最中に閉じてしまった。


(以上、424頁8行目から437頁12行目まで)



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