「カンバセイション・ピース」(初稿)その7・・317枚目〜363枚目

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 それにしても世界というのはどうしてこうも多くの植物や動物を作り出し、同じ種でもいちいち姿を違える必要があるのかと、私は庭の水を撒くたびに考えてしまうのだったが、【だからといってこの世界の奥に、物理のE=mc2という簡素でその簡素さが美しいとされている式があってそれで終わりとか、遺伝子のATCGのような還元可能なシンプルな要素を発見すればそれで何かがわかるという考え方を期待しているわけでは全然なかった。】(【 】の部分は赤の斜線で消し)それと同じことが人間の心にもあてはまって、綾子と由香里で怖さの感じ方が全然違っているように、妻の理恵も当然違っていて、由香里にはこれが一番不可解に見えていたはずだった。というのも由香里が風呂場の女の人の話を持ち出したりすると、「あんたバカじゃないの」と蹴散らすように否定するくせに、自分では夜中に自動販売機にジュースを買いに行ったら取り出し口からヌッと人の手が突き出ていて「まずい」と思って帰ってきたことがあったとか、夏の夕方五時頃の明るい時間に裏道を歩いていたら五メートルくらいうしろの三階建ての窓くらいの高さに小さな円盤が浮かんでいて、それが五百メートルくらいずっうとついて来たというような話を平気な顔ですることがあって、八月末の日曜日に夕食のあとで焼酎をのみながらのんびりしているときも、何日ぶりかで由香里が風呂場の女の人についての新しい解釈をしゃべりはじめると、妻は「まだそんなこと言ってるの」と言って、由香里の話をさえぎった。
「そんなことちっとも珍しくないのよ。
 あたしが小学校一年のときに隣りのおばあちゃんが死んだんだけどね。告別式の日にあんたのおばあちゃんとかが近くのお寺に行ってて、あたしが建て替える前の古い家の縁側で油粘土っていうので一人で遊んでるときに、ふっと隣りの庭を見たら、そのおばあちゃんが浴衣で花壇のあいだを歩いてたのよ。
 こんな経験はあたしだけじゃなくて幼稚園ぐらいの子どもが砂場で遊んでたらとっくに死んでるおじいちゃんがあらわれて、しばらく孫と話しをして帰っていったとか、その手の話はいくらでもあるんだから」
 この話を聞くのはたしか二度目で、他の自動販売機や円盤の話と同じようにはじめて聞いたときも今回も私は少しも「ゾーッ」としなかった。妻の心霊現象めいた話は少しも怖くないのが特徴で、由香里も私と同じようにまるっきり怖がっていなかったけれど、当然それで納得できるわけがなくて、
「ねえ、なんでそういうこと、おばさんは何とも思わないの?」
 と言った。
「だから、世の中いろんなことがあるってことなのよ」
 妻の素っ気なさすぎる返答に笑っていると、由香里は私を見て、
「内田さんはどう思うんですか」
 と言った。
「どう思うって、理恵の経験したことだから——」
「だって、内田さんはいつも何にでもいろいろ説明つけるでしょ。だからこれについて『どう思うんですか』って、——」
 私は苦笑した。外からは「リー」と「ジー」を重ね合わせたような高圧電線の変圧器から聞こえる音のような虫の声が、途切れなく聞こえていた。クーとココは縁側で寝そべっていて、ココの頭をクーがさかんになめていた。ミケはさっき階上から降りてきて(そのたびに私は階上で何を見たり聞いたりして感じていたんだろうと思う)、テレビの上に乗ったり、隣りの部屋のパソコンの脇に置いてあったボールペンを落としたりして私の注意を引きはじめた。遊びたいという合図なので、
「理恵のことはねえ」
 と、私はミケの相手をするために立ち上がりながら言った。ミケと遊ぶための、鳥の羽を糸で垂らした桿が縁側との境いの鴨居に隠してあるのだ。
「夫婦っていうのは、一緒にいるのが長くなると、由香里みたいにいちいち疑問に思ったりしなくなるものらしいんだよ。
 そんなことより、『今日は機嫌がいいな』って、当面の状況を把握して満足したり、『体調はどうだろう』って気にかけたりって、即物的でかつ、安定した関係が問題とされるようになるんだよ。由香里だってお母さんとはそういうもんだろ?」
「バカね。違うからこうしてうち家に来ちゃったんじゃないの」
「でも、お母さんの心の深いところまで真剣に考えたことなんかないだろ? あくまでも由香里の心に映るお母さんがどうかってことで、純子さんその人じゃないだろ? それは」
「そんなこと言ったら恋愛だって何だって全部そうじゃないの」
「そんなことないよ。恋愛っていうのは、何日も何日も、いちんちじゅーっ、その人のことを考えることだから、親のこと考えるのとわけが違うよ。
 だからおれも恋愛の期間に理恵のことをものすごーくいっぱい考えたから、基本ソフトが完成してて、もういちいち考えなくていいんだよ」
「よく言うよ」と理恵はこっちを見ないで鴨居のあたりに目をやったまま言った。
「ホントの話じゃんか」と私は言ったけれど、本当は「それゆえ考えてもわからないと思うことは考えなくなった」というのをつけ加えなければならない。
「でも恋愛って、何日その人のことを考えようが結局幻想を見てるんだよね」
 理恵の視線の先には桜が満開の道の写真があったけれど、理恵は写真に何が写っているなんてことは今さら考えていなかっただろう。しかしもし額の中の写真が他の写真にすり替わっていたら、「アレ?」と気がくつはずだから、視線による認知というのはおもしろいものだと思った。
 しかしところで、恋愛が結局相手の幻想しか見ていないなんて月並みなことを言うときは機嫌が悪いときと決まっていて、私は理恵が最初から機嫌が悪かったのか、それとも由香里の質問に対して夫婦という言い逃れみたいな理屈を並べたからなのかと考えてみたけれど、とにかく機嫌が悪いときには触れないのが一番だと思って、私は居間と北側の畳のスペースの境いの敷居をまたぐような位置で、鳥の羽のついた桿を振り回したり、羽を畳の上でチョンチョン跳ねさせたりしてミケを遊ばせはじめたのだけれど、理恵の言い方は由香里にとって教育的でないと思ったので、理恵からの反発を面倒だと思いながらも私は言った。
「わからないことは知っていることに比例して増えるものだから、知っていることが少ないあいだはわからないことも少ない。
 幻想を見ているっていうのはそういう意味なんだけど、相手のことっていうのは知れば知るほど、自分のことがわからないのと同じ意味でわからなくなってくる。
 ていうことは、幻想を見ていた時間が終わるとメッキが剥げて下にあるシンチュウがあらわれるつまりつまらない実像があらわれるっていうような単純なことじゃなくて、幻想が消えるとわからないことが出てくるっていうことで、わかっているイコール幻想、実像イコールわからない、という言い方もできるわけだけど、まあそれも哲学かぶれの若造が染まりやすい詭弁みたいなものだな」
 私はこうしてついしゃべりすぎてしまうのだけれど、理恵は相変わらず鴨居の額に入った写真のあたりに目をやったまま黙っていた。綾子が黙っているのとは全然意味が違うその無言が不穏といえば不穏だったけれど、現実に言葉で反発されるよりも不穏でも無言の方がましというのがまた夫婦らしい関係で、由香里が何かしゃべるのを期待して促すように私が見ると、私のそういう表情を理解したのかそれとももともとしゃべるタイミングを待っていたのか、とにかく、
「でもどうしておばさんは、そういうことを『あたり前』とか『よくある』で終わらせちゃうの」
 と、話を元にもどし、理恵はまたも「ホントにもう」と、舌打ちでもしそうな調子で言ったが、実際に舌打ちしていたら空気はもっと不穏になっただろう。
「この世界は普通の人が作ってるってことが、わかってないのよね。あんたは。
 占い師とか霊能者とかが突然出てきて、それまで積み上げた決定をくつがえすとか、許されないでしょ? 古代の政治だって、神官やシャーマンがいたって言っても、組織はちゃんと普通の人間で構成してたでしょ? 普通じゃない変わったことって、テレビ的におもしろく目を引きやすいけど、そんなものでは何も作ることもできないし、運営することもできないのよ。あんたももう大学生なんだからそれくらいのこと、考えなさいよ。
 こら、クー、やめなさい」
 縁側でさっきまでココを母猫みたいになめていたクーが、なめる気持ちが高じてココの首筋に咬みついてココがおこって、二匹でとっくみあいがはじまったので、私が二匹のあいだに割って入った。クーとココにはよくあることで、かわいがるのと遊ぶのと性衝動が猫の中では混然としているらしく(人間もそうだが)クーはまだやり足りなくて、私をはさんだココに飛びかかる隙をうかがい、ココはやられた気持ちがおさまらずに「ウゥウゥ」うなり声をあげていた。ミケは三匹の中では際立って活発で遊び好きだけれど、クーやココのような突飛な暴力性がまったくないので(チャーちゃんもそうだった)低い姿勢になって、警戒の印の耳をひっぱって、北の畳のスペースから様子をうかがっていた。
 理恵の話を聞いて、理恵の不機嫌の発端が私ではなくて、由香里の風呂場の話だったらしいことがわかって、離れて様子をうかがっているミケのように私は一安心したけれど、由香里は、
「それでおばさんのそういう話は全然怖くないんだ」
 と言った。
「どういうことよ」
「え? だからさあ、霊能者がすごいこと言ったとするでしょ。それを聞いた人がゾーッとなったり、びっくりしたりしたら霊能者のペースにはまっちゃうでしょ。
 だからおばさんはわざと『そんなの全然たいした話じゃない』って言うために、怖くないように話すの」
「そうか。おれは心霊現象っていうのは、ことさら怖くしゃべる人は本当は経験してなくて実際に経験しちゃうと怖くないってことなんだと思ってた」
 クーとココが落ち着いたので私はまたミケを鳥の羽で遊ばせていたけれど、理恵は「そういうことじゃないのよ」と言った。
「そんなのは全部デ・ジャ・ヴュや臨死体験と一緒で、脳の中の処理が間違って起こることなのよ」
 私は妻の理恵までが「脳の中の処理」なんて言葉づかいをするのを聞いて、時代の変化を感じた。二年くらい前はこういう言葉を使うのはもっぱら私で、そのたび妻はうっとうしそうな顔をしたものだった。それはともかく由香里は、理恵おばさんの脳内処理説が聞こえていないみたいに、
「心霊現象ってさあ、なんて言ったらいいかわかんないんだけど」
 と、本当にもどかしそうな顔になって適切な言葉が出てこないことをいまここにいる二人に伝えようとした。由香里が言葉を考えているあいだ、理恵は焼酎のグラスにコン、コンと氷を二つ入れ、私は北の畳のスペースでミケを鳥の羽に向かってとびあがらせていた。
「本当に見ちゃうより、いるかいないかわからない方が怖いと思うんだけど、そういうことじゃなくて、——。
 心って本当はもっとすごく大きなものでしょ。
 内田さんがさっき言ったみたく、すぐにわかったと思うのは心の小さい使い方で、全部を使って知ろうとするとたいていのものがわからなくなるって、あたしも思うのね」
 理恵を見ると、理恵は親のような顔で由香里がさらにつづきを話すのを待っていた。もっとも本当の親子だったらこんな話はしないだろうから、これは二人が親子ではないことの証明でもあった。それならどういう関係だったらこういうしゃべり方と聞き方をするんだろうと思ったけれど、それはたぶん「関係」の問題ではなくて雰囲気か話の流れの問題だった。
「前に内田さんが、人間は、臓器移植みたく人間を機械の部品のように説明すると機械のように見えるけど、動物行動学で説明すると動物行動学に全部あてはまるように見えるって言ってたけど——。ねえ、言ってましたよねえ」
 私は鳥の羽を振りまわしながら「言ったよ」と言った。
「人間は、説明する道具で、どんな風にもそれらしく見えちゃうってことだと思うんですけど、じゃあ、何にも道具を使わないで説明したら、人間ってどういうことになるんだと思うんです」
【「風呂場の話がそこまで行くか」
 と私が言うと、由香里が「茶化さないでください」と言い、私も「茶化してないよ」と言った。】(【 】の部分は赤の斜線で消し)
 妻の顔はなんとも言えなく複雑な表情になっていて、脳内処理で強引に片づけようとしたことを軽く後悔しているともとれたけれど、即断は禁物だった。夫婦というのは浮気をしたら激怒され、怠惰にしていたら叱られ、落ちこんでいたら励まされるという実際的な行為の継続で、心の中を恋人のように忖度するものではないのだ。
「だから?」
 と妻の理恵が、喧嘩腰でもなく柔らかくもない、あんまり抑揚のない口調でつづきを訊くと、由香里は、
「え? それだけ」
 と言った。
「風呂場の話がそこまで行くか」
「茶化さないでください」
「茶化してないよ」
「お風呂場の話はどうでもいいから、もうちょっとわかるように言ってくれない?」
 理恵に言われて由香里がまたこっちを見ることになるのだが、私も由香里の言いたいことを理解できていたわけではなかった。それで私は、「おれもわからなかったけど、由香里が言葉で説明できないことを感じていることはよくわかった」と言った。
「そのまんまじゃないの」
「だから、由香里は風呂場の話をきっかけにして、人間とか世界についての何かを抱えはじめたってことだよ」
「だからそのまんまじゃないの。
 あなたって、ホントに曖昧なことを曖昧なままにしておくわよね」
「取り柄と欠点は同じものだからな」
「昔からこうだったの?」
 由香里が訊くと妻は「もう忘れた」と言った。恋愛というのは一日中好きな相手のことを考えつづけてしまうものだけれど、妻の理恵にも私に対してそういう時期があったということがいまとなっては実感が持てなくなっているのが夫婦だなと私は思った。恋愛だけで別れてしまった女の子たちなら、私のことを一日中考えていただろうといまになっても思えるのに、夫婦となるとそういう気持ちを風化させてしまう力が働きはじめる。もっともこれは夫婦にかぎらず人生全般に言えることで、映画だって音楽だって十代や二十代のように面白いとも思わなくなったし興奮もしなくなった。いま私が若い子を好きになって突然恋愛がはじまったとしたら、しばらくは熱中するだろうけれど二十代の頃のようにはのめり込まないだろう。死の床にある病人にカンフル剤を射って一時的に元気にするようなものだという比喩は、極端でわかりやすすぎるために違っているけれど、とにかく夫婦に象徴されるような若い頃の気持ちを風化させてしまう力の方に私はずっと関心がある。というか、そうありたいと思っている。本当にそれしかないじゃないかと思う。
 私は、
「なるべく小さな幸せと
 なるべく小さな不幸せ
 なるべくいっぱいあつめよう」
 と、声に出して歌った。
「誰の歌だっけ」と由香里が言うので「ブルーハーツ」と答えた。
「さだまさしがこんなの歌ったらゲッて思うけど、ブルーハーツが歌ったところがミソだよな」
「どう違うの?」
「せつなさのあるなしだよ」
「どっちがせつなさがあるの?」
「ブルーハーツに決まってんじゃんか」
 クーが縁側で「アーン、アーン」というような声で網戸ごしに外に向かって鳴いた。ココを相手に悪ふざけしたのを止められて、退屈で外に向かって別の遊び相手の猫でも呼んでいるみたいな鳴き方だったが、それもすぐにあきて、テーブルにポンッと乗って、理恵の真正面に座わって顎を撫でさせた。
「『なるべく小さな幸せ』って、こういうこと?」と由香里が言うから、「違う」と私は言った。
「あれは幸せと不幸せの区別なんかどうでもよくなったヤツの歌なんだよ」
「ホント?」という顔で由香里が妻を見ると、妻は、
「この人の勝手な解釈だから、本気にしちゃダメよ」
 と言った。
「ああいうガチャガチャした若い子にすぐに才能の幻想を見て簡単にだまされるんだから、おじさんだよね」
 今夜の妻は「幻想」という言葉が好きらしかった。すでに酔っているので思考は同じパターンのくり返しになるのだ。
「ねえ、でもその歌といままでの話は、どこでどうつながってるんですか」
 由香里が切れ長で黒目がちの目でキリッという感じで私を見つめてきて、私は、
「何にもつながってなんかないよ」
 と言った。もちろんウソで本当は夫婦の話の方とつながっているのだけれど、由香里は、
「なんだ、あたし、人間と世界との何かを抱えはじめた人の歌なのかと思って、ちょっといろいろ考えたのに、損しちゃった」
 と言い、妻は「だからこの人の話をマトモに聞いちゃダメよ」と言っていたけれど、私は階下だけでは遊びの調子の出ないミケを階段に誘って階段の途中で、鳥の羽の糸をいっぱいに伸ばして、上へ下へと振りまわしてミケを何往復も上下に走らせた。こっちに来ると、庭の奥に近づくので虫の鳴く音が居間よりもずっと大きく、二階の窓を通して上からも聞こえてきて、せつなくなった。夏の終わりの虫の声は子どもの頃からの刷り込みで、それを聞くだけでせつなくなってしまう。十代や二十代の頃にせつなくなるような夏があったのかとかそういうことではなくて、夏の終わりはただせつないと思う。

 八月の終わりは横浜ベイスターズは甲子園からナゴヤドームと遠征で、横浜に戻ってきたときには九月になっていた。その間、前川は二軍の試合を見に、横須賀スタジアムに行ったり、所沢の西武ドームまで行ったりして、「ガラ空きだった」という西武ドームの二軍の試合を見ながら、キャッチャーの谷繁の近所に住んでいるという高校生ぐらいの女の子と知り合いになって、二時間半の退屈な試合のあいだじゅう(二軍の試合は緊張感がなくて本当に退屈だが前川はそれでもやっぱり行く)、谷繁がその女の子に日頃話しているらしい来シーズンのベイスターズの情報を聞いてきて、それを私は横浜スタジアムのライトスタンドで聞くことになった。横浜の攻撃中はメガホン叩いて選手の歌を歌わなければならないし、かりに自分が歌わなくてもまわりの音がうるさくて聞こえないので、聞くのは当然広島の攻撃のあいだだ。
「権藤は今シーズンかぎりで、森の監督就任は決まりだってさ」
「いいじゃないか」と私は言った。
「大洋ファンは森きらってるよな。【山下大輔待望論が根強くあるじゃんか。おお、大ちゃん頼むぞって」
「あいつなんか大バカだぞ」】(【 】の部分は青の一本線で消し、「p347にある」と書いてある)
 先発は小宮山でランナーを出しながらも一、二回は零点に抑えていた。しかしコーナーぎりぎりに投げると主審がストライクにとらない。そうすると、
「こら、杉永、八百長してんじゃねえぞ。大洋クビになったのがそんなに悔しいか」と野次がとぶ。
 主審の杉永はかつてドラフト一位で大洋ホエールズに指名された投手だった。外野スタンドにいても百メートル以上離れた投球のストライク、ボールはたいていわかる。純粋に視力でわかるのか、バッターの微妙な動きでわかるのか、ピッチャーからキャッチャーまでの軌道全体でわかるのか、それとももっと別の球場全体の何かでわかるのか、とにかくわかる。鳥の編隊がいっせいに方向転換したり、ホタルの群れがいっせいに点滅したりするのと同じ何かが働いているのかもしれない。前川の谷繁情報はさらにつづく。
「谷繁、佐伯、波留の三人が仲良くて、選手会長の石井琢郎とは仲が悪くて、石井と仲がいいのは斎藤隆一人なんだって。わかりやすいよな」
 私は合槌を打った。どうわかりやすいかと言えば、三人が関西人だからで、おととしの優勝のビールかけのときに三人が特に目立っていたのをすぐに思い出すけれど、かりに谷繁と石井と金城が仲がいいと聞いても、前川も私も「わかりやすい」とか「そうだろうな」とか言っているだろう。
 ワンアウトから東出がフォアボールで出て、森笠の三塁ゴロがゲッツーにならずに一塁がセーフ。金城がもっと早くさばいていればゲッツーだった。
「やっぱり金城の守備はもたつく」
 次の金本を私は嫌いではない。横浜の選手になって心から声援を送りたいと思う選手の一人だ。金本が打席に立つとレフトスタンドで応援団がラッパでファンファーレを鳴らす。ヤクルトでは稲葉のときに、ファンファーレを鳴らす。そして横浜では佐伯のときにファンファーレを鳴らす。ファンファーレが鳴りはじめる瞬間が特別バカバカしくてたまらなくいいが、成績以上にファンに好かれる選手がどの球団にもいるものなのだ。だからといって金本に横浜スタジアムで打ってほしくはないが、金本の当たりはライトフェンスに直撃し、一塁から森笠がホームイン。クッションボールを必死に素早く処理して、セカンドに投げる中根の後ろ姿には心打たれる。中根は打つときも思いっきり振り、守っているときも思いっきり球を追う。私と前川は同時に、
「中根はいいな」
 と言った。今年の中根は特別いい。私と前川はもう何度「中根はいいな」と言ったか知れない。レフトスタンドでは広島ファンが「大判小判がざっくざっく、ざっくざく」という『花咲じいさん』を「今日も広島はざっくざっくざっくざく」とかいう歌詞にかえた歌を歌っていた。広島は点を取るとこれを歌う。
「この歌、ゼッタイださいよな」
 谷繁に言わせると、今年の鈴木尚典と川村の不調の原因は、二人を野手キャプテンと投手キャプテンにさせたからで、やっぱり指名した石井琢郎が悪いってことになるんだよな。鈴木尚典と川村は一番キャプテンに向かない性格なのに、石井琢郎が自分一人でチームをまとめるのがつらいからって、野手キャプテンと投手キャプテンなんていうのを作ったんだけど、大失敗だって」
【「そういう話を聞くとやっぱり古田は偉いな」
「古田はプレイイングマネージャーになるっていう噂もあるんだぜ」
「それも谷繁情報か」
「これは別」】(【 】の部分は赤Xで消し)
 五番のロペスはいい当たりだったが上がりすぎてレフトフライでチェンジ。
【「キャッチャーっていうとなんでいつも古田ばっかりなんだって、谷繁はよくおこるんだって」
「あたり前だよ。古田とじゃ格が違う」
「オリンピックでも古田がダメなら谷繁とは誰も言わないもんな。でも】(【 】の部分は赤Xで消し)谷繁は将来自分が監督になると本気で思ってるらしいんだよな」
「無理だよ」
「やっぱり石井琢郎だよな」
「ローズだよ」
 と私が言ったところで、最前列の通路に応援団のリーダーが出てきて、三回裏の応援の三三七拍子がはじまった。シャンシャンシャン「ヘイッ!」シャンシャンシャン「ヘイッ!」シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン「ヘイッ!」。シャンシャンシャン「ヘイッ!」シャンシャンシャン「ヘイッ!」シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン「ヘイッ!」。シャンシャンシャン「ヘイッ!」シャンシャンシャン「ヘイッ!」シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン「ヘイッ!」。
 三三七拍子がおわるとリーダーが手をY字に開いて声を上げる。リーダーが何を言っているかなんてちゃんと聞いているのなんか一人もいないけれど、この日の席は近くて、打順も下位で盛り上がりに欠けていたので、
「さあ、ここから反撃を期待して、
 かっとばせぇ、こぉまぁだぁ」と言っているのが聞こえた。
 駒田の歌は、
「白い流れ星 大きく舞い上げろ
 さえたホームラン 見せてよ駒田」
 だ。しかし今年の駒田にはもうほとんど誰も期待していない。この歌が歌われている中で本当に大きく弧を描くホームランを打ったような時代が駒田にもかつてはあったのだ。応援のトランペットと太鼓とみんながメガホンを叩く音と声の氾濫の中で、前川が私の耳元に顔を近づけて、何か言った。私が聞き返すとさっきより大きい声で、
「最大の谷繁情報」
 と言った。私は顔をグラウンドに向けたまま、「何だッ」と言って、自分から前川の方に体を傾けた。前川が右手を口にそえて、
「ローズは今シーズンかぎりで引退」
 と言い、私は前川を見て、キスをするくらい顔を近づけて、
「ホントかよ」
 と言った。駒田なんか見ている場合ではなかった。
「谷繁情報のまた聞きだよ。あくまでも。
 引退で、背番号23は欠番」
 去年のシーズン途中の、突然の引退発表を思い出した。こんな大事なことをどうして前川はすぐに言わなかったんだと思った。すべての横浜ファンはローズのファンであり、すべての横浜ファンが去年の途中から、「これがローズを見る最後のシーズンか」と、毎試合万感こみあげる思いでローズの打席と守備を見たものだったが、引退を撤回してくれたことで、今年どころか来年も再来年も、ずうっとローズがいてくれるものだと思っていた。またまた出てきたローズの引退話を否定したいという前川の無意識の願望だったのだろうか。しかし思えば、私のローズへの過剰な思いも去年の突然の引退発表が影響していたのかもしれない。駒田はぼてぼての一塁ゴロだったが、ライトスタンドも特に失望はしなかったというかむしろ予想どおりで、次の谷繁にもみんなあんまり期待はしていなかった。
 とはいえ、ライトスタンドでは谷繁元信の背番号8は鈴木尚典の背番号7と並んでユニホームを着ているファンの数が多くプラカードの数も多い。私は23のローズで、前川は22の佐々木だ。いなくなった選手のユニホームを着つづけるのは前川にかぎらなくて、一着二万五千円のユニホームをそうそう何着も買えないし、いなくなった選手のユニホームはもう販売しないので一種のステイタスでもある。手に入らなくなったユニホームなら着ないで大事にとっておけば価値が出るという考え方は球場に来る人間の価値観ではない。球場に来るファンにとって大事なのは、ユニホームの価値が出るのを待つことではなくて、着て応援することだ。
 三回裏の攻撃はあっさり三人で終わり、まわりの応援の音がなくなると私も前川もローズ引退の話のつづきをするのがはばかられる気持ちになっていて、私が、
「ホントかよ」
 とだけ言うと、
「あくまで谷繁情報だけどな」
 と「谷繁情報」という言葉を前川は何度もくり返した。
 欠番になるという話がついてるところがウソくさいと思った。佐々木の22番でさえも欠番にしない球団がそれをするというのがおかしいと思ったけれど、すべての横浜ファンはローズの欠番を当然と理解するだろう。しかしいまスタンドでああだこうだ言っていても仕方ない。だいたいスタンドにいるとあんまりああだこうだと考えなくて、私は、
「おいおい、またボールかよ、杉永ァ」
 と、ホームベースの向こうに立っている主審に聞こえるはずのない野次を叫んだ。小宮山の外角低めのスライダーはどうしてもストライクにとってもらえず、四回も朝山がライト前ヒット西山フォアボールでランナーが二人出たが、一番の木村拓也でチェンジ、しかし横浜も広島の先発のミンチーを相変わらず打てず、金城が内野安打でやっと出たものの、鈴木尚典、ローズとポーン、ポーンと浅めの外野フライを打ち上げて、前川の言うとおり「完全にミンチーのペース」だった。
 そして五回表に小宮山はついにつかまり、東出ライト前ヒット、森笠はセンターフライだったが、金本が二打席連続のライトオーバーの二塁打で二点目。進軍ラッパにつづいて「大判小判がざっくざっくざっくざく」の替え歌を歌って、それから「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」。野球の応援は球団ごとに少しづつ違えてあるが基本は同じなのだ。(この後【そしてロペスが、、、】から六行を赤の斜線で消してあるが、同じ場面が次のp345Aに書かれているので入力せず)点をとった勢いでつぎのロペスになるとレフトスタンドの「ロペス! ロペス!」の応援の声がさらに大きくなった。「ロペス! ロペス!」と言いながら、半分が立ち、半分がしゃがみ、また半分がしゃがみ、半分が立つ。シュプレヒコールに似ていて、私は広島のこの応援が嫌いじゃない。ワールドカップのときのユーゴの応援を思い出す。「ユーゴ! ユーゴ!」と繰り返す声の、「ユー」が大地から湧き起こる地鳴りか風みたいだった。立ったりしゃがんだりを繰り返すレフトスタンドの中で、点在するただすわっている人間の姿がよくわかる。ということは、立ったりしゃがんだりしている人間も群れだけれど、一人一人もまた見えているということだ。そのロペスに三球目を投げたとき、前川が思わず「あっ」と声を出してしまうくらい甘い球で、低い弾道でレフトスタンドの前から三列目ぐらいに飛びこんだ。ロペスがゆっくりベースを一周しているのを見ながら私はトイレに立った。しょっちゅう来ていればこういう取り柄のない試合にあたることだって当然ある。つづく六回もランナーを出して点をとられて、こっちの投手がベタンコートから阿波野、さらに五十嵐へと交替して、そのたびに時間が延びて気持ちがだらけ、守備のあいだはメガホンを叩いて応援することもないからビールを飲む量が増え、トイレに行けばトイレからの列が長く伸びていて、外野スタンド裏の、トイレと喫煙所と売店が一緒になった狭いスペースは煙草のけむりが気持ちのもやもやがそのまま形になったみたいにたちこめているけれど、外野スタンドに来ている横浜ファンはだいたい球場通いの常連なので、たまにあるこういう試合を受け入れていて、天井から下がっているモニターテレビを見上げながら「五十嵐ぃ、頼むよォ、、、、」と口では言いつつも気持ちはただただだらける一方で、私はスタンドに戻って前川と、
「阿波野、五十嵐じゃなくて、もっと若いのいないのかよ」
「谷口がいるんだけど、権藤が年寄りで頑固だからなかなか上げないし、上げても使わないんだよ。斎藤明夫なんか何もしないしな」
「全然してねえよな」
「でも、シーレックスの遠藤もダメなんだよ」
「森でも誰でもいいから、早く誰かに替えてほしいよ。権藤じゃなきゃ誰でもいいよ」
 と、こんな話をしているのだけれど、【監督が権藤から森になるということは谷繁情報が正しいということでローズがやめることも意味するが、そんなことまでは考えていない。】(【 】の部分は赤の一本線で消し)「大洋ホエールズのOB会が邪魔なんだよ」と前川が言った。
「森就任もそこがネックになって、権藤の前に一度つぶされてるって言うだろ。大洋ファンはバカが多いから相変わらず山下大輔監督待望論だしさ」
「OB会って土井だろ? 九八年の日本シリーズの第六戦の日に、OB会ゴルフコンペに行ってた」
「優勝してちゃんと涙流してたのは秋山だけだったな」
「松原は戻ってこれないしな」
「大洋ファンはなんか世論誘導されてて、山下大輔とは言うけど、松原とは言わないんだよ」
 私と前川は、大洋ホエールズ・ファンだった過去を捨てて、ひたすら横浜ベイスターズ・ファンとして生きることに決めたのだ。森監督就任の話は夏前からぼつぼつ出ていて、そのたびに昔からの大洋ファンは「勝手にやるのが大洋なんだから、森みたいな管理野球はイヤだ」と言う【けれど、前川と私は優勝できるチームを作れる監督を待っている】。(【 】の部分は赤の一本線で消し)九八年に優勝して、あんなにうれしかったのだから、優勝しなくても横浜らしい野球をやってくれればいいなんて話は筋が通らない。こういう風にやられっぱなしの試合がたまにはあることもわかっているけれど、接戦でもなんでも負けると前もってわかっていたらファンは絶対にその日は来ない。六回表を終わって六対0だったけれど、そこで帰らずにファンがスタンドに残っているのも「勝つかもしれない」とどこかで期待しているからだ。テレビを見ていたらもうチャンネルを替えている頃だろうが、スタンドにいればこの程度ではまだあきらめない。球場に来ないでテレビだけ見ているなら「大洋らしく」「横浜らしく」と言っていられるが、球場にしょっちゅう来ていたら、そんな悠長なことを言う気分にはなれない。六回裏にノーアウトから代打の相川がレフト前ヒットを打ち、石井琢郎がライト前ヒットでつないで、ライトスタンドは立ち上がった。シャンシャンシャンヘイッ!シャンシャンシャンヘイッ!シャンシャンシャンシャン、、、、、、ウーゥ、ヘイッ! ヘイッ! ヘイッ! ヘイッ! 今夜はじめてチャンスが来た。バッターは三割七分で首位打者を独走している金城。金城五回コール。キンジョー、キンジョー、キンジョー、キンジョー、キンジョー。それにつづいて金城の歌。
「見せてくれ見せてやれ超スーパープレーを
 ハマの風にのって男の意地を」
 しかし打率は高いが得点圏打率の低い金城はセカンドフライを打ち上げてワンアウト。つづく鈴木尚典が打席に入る手前で二度三度と素振りをしているあいだに応援の太鼓が一度鳴りやみ、その合間をぬって最上段に陣取っているハチマキアンチャンが声を出す。
「タカノリー。タカノリ、タカノリ、タ、カ、ノ、リー」
「打て、尚典!」
 と、前川も叫ぶ。私も「尚典!」と叫んでいる。ライトスタンドからの声はただのざわめきにしか聞こえていないかもしれないが、そのざわめきは声援なのだ。林の中でワンワン鳴り響く蝉の声は一匹の鳴き声とは全然違う。そして鈴木尚典の歌がはじまる。
「かけぬけるダイヤモンド、、、、」
 スタンドの歌は歌詞を知らなければ音程が幅を持った音のかたまりにしか聞こえないが、知っていればちゃんと言葉に聞こえる。だから鈴木尚典にもスタンドの歌は「駆けぬけるダイヤモンド両手を高く上げ」と聞こえている。私たちは一人一人が声を出して、鈴木尚典のために歌い、鈴木尚典はこのスタンドとグラウンドと野球それ自体のために打つ。ピッチャーは打たれないために投げるのだが、それは打たれるために投げるのと同じことなのだ。優勝の年の巨人戦の十三対十二のサヨナラ勝ちの試合では、ピッチャーもバッターも試合全体の大きな流れに飲み込まれた。ワン-ワンからの三球目を鈴木尚典のバットは空を切ったが、鈴木尚典は打つためにスイングをした。ピッチャーが投げるのとバッターがスイングをするのは二人が実現する一連の動作で、私たちが歓声をあげるのもがっくりするのも一連の動作だ。野球の最も素晴らしい瞬間がバットが空を切るときかボールを打ち返すときかは誰にもわからないが、ピッチャーもバッターも未知のその瞬間にはまることを夢みつつも怖れ、自分のペースにひきいれようとする。ミンチーはアウトコースに一球外した。ということは次はインコースに速い球か。見送ればボールになるくらいの低めの誘い球か。尚典が一番好きな低めを内角にボールひとつ分外してつまらせる。歌を歌い、「かっとばせ尚典」とメガホンを振り上げていても一球ごとにスタンドにいる私たちまでが考えている。むしろ歌を歌い、メガホンを振り上げる動作で考えが導かれているのかもしれない。習慣化した思考は、テンポの中にいることで止まらずに動きつづける。内角低めの球に尚典のバットは一瞬出かかったが止まった。が、キャッチャーが三塁塁審を指差すと、アウトのポーズ。
「オーイ」
「なんだよ。振ってねえよ」
「権藤! 出て来て抗議しろ!」
 鈴木尚典はバッターボックスで、ここで止まったじゃないかと主審に動きを再現して見せ、三塁コーチの青山も寄っていくが監督の権藤が出てこない。ライトスタンドは騒然となっているが権藤は出てこない。ボールひとつ分外すのもそれに出かかったバットを止めるのもどちらも一連の動作の実現の疎外だけれど、監督が抗議に出ることで形になる。「抗議しても一度決まった判定はくつがえらない。だから抗議しない」という権藤の理屈は浅薄な理屈で、プレーヤーの士気にかかわることがわかってない。監督の出てこない抗議はすぐに終わり、不満そうに帰っていく鈴木尚典の尻を、ローズがポンと叩き、それによって流れが回復された。バッターボックスの中でガシッと足を踏んばり、両手でぐっと一度バットをつき上げ、右手で一度股間にさわり、正中線をやや越えるあたりで止めるゆっくりした粘っこい素振りを三回して、四十五度の角度にバットをカチッと立ててかまえる。ピッチャーの投げる球を打ち返すという同じ動作をこうも一人一人が違うプロセスで作り出す。与えられた同じ一つの課題を違うプロセスで実行する。右中間にぐんぐん伸びてくるのがローズの弾道で、それこそがローズの個性だが個性が問題なんじゃない。野球はすべてのプロセスが得点に還元され、勝ち負けだけが残る。伝説の名勝負や名選手なんていうのはテレビで野球を見ている非当事者の言い逃れで、毎日の試合には勝ちか負けしかない。ピッチャーが投げてバッターが打ち返す一連の動作の中にはそれぞれが練習した過去はあっても、伝説も名勝負も歴史性もそんな未来から偽装された過去なんかありっこない。だからゆっくりした粘っこい素振りをするローズに、ライトスタンドは「ローズ」と声をかけ、「カモン、ローズ、ビクトリー ハッスル、ボビー、ゴ、ゴー、ゴー」と歌う。ミンチーが一塁にケン制球を投げ、ローズはバッターボックスから右足を外し、鎧を着たような胸に一度大きく息を吸い込み、両手でバットを前に突き上げ、股間に手をやってサポーターを直し、三度粘っこい素振りをして、四十五度にバットをカチッとかまえる。唇の両端をギッとひいて左右の頬に大きな筋ができているのが見えるようだ。ミンチーの外角低めのスライダーにローズのバットは遅れ気味に振り出され、キャッチャーミットに入る寸前でとらえ、ボールをとらえたバットは派手に振り抜かれず左足の爪先のあたりで止められたが、ボールは右中間にぐんぐん伸びてきた。やっぱりこの瞬間がたまらない。九人の野手も塁上のランナーも打ったローズ自身も、ベンチもスタンドも、ここにいるすべての人が右中間に伸びるボールに導かれて動き、叫ぶのだ。

 ローズの右中間三塁打につづいて、いま一番胸を熱くさせる中根がレフト線をライナーで抜ける二塁打を打って、六回裏に三点返し、七回表にまた一点取られて七対三になったが、その裏に代打多村のツーランホームランで七対五。しかしまたまた八回表に二点取られ、九対五になったが、九回裏に三点返して、なおもツーアウト二塁で中根だったが見送ればボールという球を空振りして試合が終わった。時刻は十時四十五分で、もしこれが逆転勝ちだったら終電の時間も考えずに祝杯をあげていたかもしれないけれど、六回表までの六点差をぐんぐん追い上げてついに一歩届かなかったという展開は、三対一ぐらいで勝つ試合よりも興奮の度合いは強いし、ローズの打席を五回も見ることができて、そのうち三回がヒットで、と豪華なものだけれど負けは負けだからうれしくはなくて、桜木町までの十分ちょっとの道の途中まで一緒の前川と歩きながらビールのロング缶を自動販売機で買い、東横線の各停にすわってビールを飲んでいると、最後の最後に狂喜できなかった気持ちがいつまでもくすぶっていて、くすぶっているその音が聞こえてくるようだった。
 九対0で負けるのも今夜のように一点差まで追い上げて両チーム総動員でもう本当にたった一球が別の軌道を描いていたらどうなっていたかわからないくらいの試合でも一敗は一敗としてカウントされるのが野球で、九対0と九対八を別々にカウントするルールがあったとしたら、試合の内実を反映するかもしれないけれど、反対に今夜のような盛り上がりは起こらないかもしれない。内実を無視して無粋にただ勝ちか負けかだけをカウントするシステムだからこそこういう試合が実現して、球技はファインプレーもミスもすべてプロセスにかかわりなく点数に還元され、さらに点数の合計が勝ちか負けかに一元化される。この一試合にかぎってみれば、もしかしたらミンチーが七回裏に多村にツーランを打たれたことが勝因で、もしもミンチーが七回の攻撃を0点に抑えていたら、広島の八回表の二点もなくて、八回裏もミンチーが投げていて八回裏に横浜が連打していたかもしれない。そういう仮定を並べ出したらキリがなくて、広島の勝因は一回表の先頭打者の木村拓也が小宮山の三球目のボール気味の球を空振りしたところにあって、あそこで木村拓也がボール気味の球を空振りしていなかったら今夜の小宮山がその後、ボールと判定されつづける同じコースに投げなかったかもしれないなどといくらでもさかのぼってしまうことができるけれど、そういう仮定は意味がない。だからといってすべてが強固にガシッと組み合わされた運命で、いっさいの仮定には意味がなくて、エラーもタイムリーヒットもすべてが広島がこの試合を勝つためのプロセスなのだとするのも同じだけ空疎な理屈で、勝因も敗因も必ずはっきりしたものがいくつかあって、たとえばリリーフして打たれた阿波野や五十嵐をまた使ったらまた負ける。もしこの試合が地球で最後の野球だったら、ファンも選手もつまらないプレーを含めたすべてのプレーを文字どおりかけがえのない記憶として抱きしめるだろうが、現実はそうではなくて明日も試合があり、その試合もまた勝ちか負けかがカウントされる。三十六歳の阿波野なんかは間違いなく今シーズンかぎりで引退で、もしかしたら今夜のいいところがひとつもなかった登板が現役最後のマウンドということになるのかもしれないけれど、由香里の好きなというかおかされている「これが十代最後の友達との旅行だからみんなで思いっきり青春しよう」式の、未来の追憶を先取りするような思考なんか、勝ちか負けかの中では入り込む余地がなくて、今シーズンが終わって「ああ、あの日が最後の登板だったのか」と知らされたとしても、やっぱりただ腹立たしいだけだろう。
 野球の試合ひとつひとつ、プレーのひとつひとつにいつか回想しなければならないような意味を見ようとしていたら、球場は博物館みたいに辛気くさい顔と、もっともらしい言葉で淀んだ場所になってしまうだろう。自分のチームの勝ち負けしか眼中にない無理解なファンに囲まれた中で、【と目の前にいる敵に絶対に負けたくないと思う選手で戦うのが野球で、明らかなミスジャッジとわかっても自分に有利なら黙っているような、】(【 】の部分は赤の斜線で消し)王に世界記録の○○○号ホームランを打たれたことでだけ歴史に名前が残り、それがなかったら他に何の記録も残らない選手でもやっぱりそれを屈辱と感じるくらい、とにかく目の前の敵に絶対に負けたくないと感じることのできる選手がやるのが野球なのだ。ホームに滑り込んだ選手の手が本当はボームベースに触れていなくても審判が「セーフ」と言ってしまえば、相手がどれだけ抗議をしても「触わった」と、自分に有利なことを言い通すのが選手というもので、そういう勝ち負けに対する圧倒的な執着がなくなったらいいプレーができなくなるようなタイプの人間が野球やサッカーの選手で、相手のファインプレーに拍手じゃなくて怒声を浴びせるような人間でなければ球場なんかに行かないし、相手側のファンの怒声を拍手と同じものと感じて喜々とするような人間だけが選手をつづけることができる。つまり負けた試合の後はどんな試合でもおもしろくない。
 野球は大リーグ式の真っ向勝負が讃えられがちだけれど、そういう一元化した価値観が通用するのもアメリカだけが突出しているからで、サッカーのように世界中に広がると、反則ギリギリのプレーやおもしろ味のない戦術もルールの中ですべて許されることになって、勝ち負けという結果だけにこだわる気持ちがむしろ内実を多様にさせる。つまり負けた試合の後はどんな試合でもおもしろくない。勝ち負けだけだったらジャンケンでもいい、大事なのはひとつひとつのプレーだという考えはむしろ衰退の道で、最後に勝ち負けしか残らないと思うから本気になる。最後に勝ち負けしか残らないからこそ試合ごとに違う中身が実現する。つまり負けた試合の後はどんな試合でもおもしろくない。こういう滅多にないくらい惜しい試合に居合わせてしまうと、悔しくて気持ちのやり場がなくて、横浜ファンとして球場に来た自分にまた来るための根拠を与えるためなのか(そんなものなくてもまた来るが)、テレビの前で「いい試合だった」と大人の感想を口走る人間への反発なのか、とにかく私はビールのロング缶を飲み終わっても、空の缶を少しずつ握りつぶしてペコペコ音をさせながら考えつづけていた。「長嶋茂雄という時代のヒーローに国民は夢を託した」式の、つまらない社会生活の代償行為として野球に熱中するという通俗な考えにも当然私は東横線の中で一人で反発した。そういう考えも球場に行かない人間が思いついたもので、ファンは夢を託すなんて抽象的なことではなくて、ファンとして試合に勝つために球場に行って試合に参加するのだ。この悔しさはだから明日勝って晴らすしかない。試合に負けた悔しさは球場の外で晴らすことなんかできない。球場に行くのは社会生活の代償行為ではなくて私の生活の一部で、生活の代償行為だったらこの負けを他の何かで埋め合わせることもできるかもしれないが、生活の一部だから球場でしか晴らせない。
 ひとつひとつの試合はすべて違う内実を持っているのに、ただただ勝ちか負けかにカウントされる。すべて違う内実を持っているといっても、ひとつひとつのプレーには、右中間二塁打とかショートゴロとか外角低めのスライダーとか名前がついていて、名付けようのないプレーが飛び出すわけではない。しかしローズの右中間二塁打と鈴木尚典の右中間二塁打は軌道が違う。ローズの打球はゆっくりと高く上がり、鈴木尚典の打球は低く鋭く飛んでゆく。しかしどちらもピッチャーの投げた球を打ち返すという目的の産物であることに変わりない。


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