◆◇◆チェーホフ——没後100年◆◇◆

読売新聞 2004年7月5日(夕刊)


 『桜の園』『三人姉妹』など、現在でも繰り返し上演される芝居を書いたアントン・チェーホフが四十四歳で死んでから、今年でちょうど百年になる。
 というわけでこれは「没後百年」のエッセイだが、そのエッセイをどうして、チェーホフの研究者でもなければ芝居の演出家でもない、小説家の私が書くのか? 理由は、チェーホフが劇作家以上に、すぐれた短篇小説家だったからだ。チェーホフ自身、「私は劇作家でなく、短篇小説家だ」と言っていたそうだ。
 たった四十四年の人生でチェーホフは膨大な短篇小説を書いた。いま日本ではそのうちのほんのわずかしか読むことができないが(我が国の出版文化のなんという惨状!)、新潮文庫の薄っぺらい短篇集『かわいい女・犬を連れた奥さん』だけでも、分厚い何冊もの小説に匹敵する価値がある。私は一年に一度ぐらいずつこの文庫本を読み返すのだが、そのたびに印象が変わる。
 表題作の「犬を連れた奥さん」は、浮気を繰り返してきた既婚男性が避暑地のヤルタで、犬を連れた若い人妻に手を出す話だ。彼は今度の恋もこれまでと同様の「遊び」だろうと気楽に考えていたのだが、夏が終わり、二人がそれぞれの家に帰っても意外(!)なことに、彼女を忘れられない……。
 それから先は皆さんに読んでいただくとして、恋も人生も高を括って生きる中年男という設定が、同じくらいの年齢になった自分の身につまされる。チェーホフは、厭世的で周囲の人間を小馬鹿にしている男を登場させることが多いが、登場人物たちは他でもない自分自身の厭世観によって躓く。
 偉大な作家というのは年齢を超越している、ということは承知しているけれど、それにしても三十代のうちにこういう短篇を書いたチェーホフは、一度死んでみんなの人生を眺め渡したことがあるんじゃないかと思いたくなる。「犬を連れた奥さん」で二人が海辺で会うシーンではこんなことが書かれている。
 「海はまだヤルタやオレアンダがなかった頃も同じ場所でざわめき、現在もざわめき、私たちがいなくなったあとも同じように無関心にざわめきつづけるだろう。その恒久不変性のなかに、私たち一人一人の生や死にたいするこの全き無関心のなかに、恐らくは私たちの永遠の救いや、地上の生活の絶え間ない移り行きや、絶え間ない向上を保証するものが隠されているに相違ない。」(小笠原豊樹訳)
 風景や世界に対するこういう認識が、チェーホフではすべての短篇に浸透しているから、長篇小説にも匹敵する広がりも持つ。はじめて読む人は、チェーホフの小説が百年を隔てても古びていないことに驚くだろう。しかし驚くにはあたらない。文学というものには人間の思考や感受性の様式を決定づける力があって、これらの小説がその後の百年間の人間の内面を作ったのだ。
 ところで、自分自身の厭世観に躓く人物を描いたチェーホフの生きた時代はロシア革命の前夜にあたる。金持ちたちは農奴性の上で無為な社交に明け暮れていた。その厭世観を克服する道は働くことなのだと、チェーホフは作中の人物たちに繰り返し語らせている。
 しかし、その労働から人間の尊厳がこれほど奪われる社会になるとは、さすがのチェーホフでも想像できなかった。いまや別種の厭世観に冒されつつある私たちに、チェーホフなら何と言うだろうか。
 

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