◆◇◆文庫本をテーマにした短いエッセイ◆◇◆
「週間読書人」だったかに書いたもの(99年の夏に掲載)


村上春樹等いわゆる“全共闘世代”“団塊の世代”の作家たちが作家としてスタートするにあたって、『赤頭巾ちゃん気をつけて』に始まる“薫くんシリーズ”がいかに大きな影を投げ掛けたか――ということを、「文學界」誌上で連載中の『サブカルチャー文学論』の中で大塚英志がものすごく鋭い分析をしていた。で、僕も最近“薫くんシリーズ”を読み直してみた。そしたら薫くんシリーズの傑作ぶりに驚いた。
 僕は文学史に疎いので“薫くんシリーズ”がいったい何をその源流として持っているか、月並みにサリンジャーぐらいしか思い浮かばないが、“薫くんシリーズ”は間違いなく村上春樹に代表されるその後の現代小説の源流となっている。その源流ぶりたるやすごいもので第三作『白昼の歌なんか聞こえない』の薫くんの心の密度が高まったときの書き方なんて、いまでも村上春樹が『白鳥』を目の前に広げてお手本にして書いているのではないかと思うほど似ている。
 僕はどうかというと、やっぱり僕の小説も“薫くんシリーズ”を源流としている――ということを知った。僕は確か中学二年(一九七一年)の春休みに第二作の『さよなら快傑黒頭巾』をとても熱中して読んだ。僕は中学・高校時代に三島も太宰も読まなくて、それゆえ文学的感受性なんてものを育てずに済んだことを誇りに思っていたのだけれど、庄司薫がいたことを完全に忘れていた。薫くんのうだうだぐだぐだした優柔不断なキレの悪い語り口なんて僕の文体そのものだ。
 が、それ以上に、その語りを生み出す薫くんの、「世界のために何かをしたいんだけれど何をしてもいいかわからない」という心のあり方が、小説を越えて中学以来一貫した僕の、世界に対する態度そのものだった。僕が決してうかつに英雄的な行動などせずに何もしない状態に自分でも不思議なくらい誇りのようなものを持っていたその理由は薫くんがいたからだったのではないか。
 しかし呆れたことに、文学少年でなかった僕は『黒頭巾』に感動したくせに『白鳥』も読まなければ、たぶん『赤頭巾』も読まなかった。『黒頭巾』にしたって一度読んだきりだ(最後の『ぼくの大好きな青髭』は数年後の発表になるので今は別扱い)。
 なのにどうして“薫くんシリーズ”をこれほどまでに現代小説の源流であり、僕自身の小説の源流であると断言するのか? “薫くんシリーズ”はきっと、当時“文学の外”つまり現実の社会で始まっていた考え方をそのままの語り口で書き上げたものだったのだ――というか、薫くんによって、あの頃に始まりつつあった現実が形を与えられたのだ。しかし皮肉なことに、三島や太宰と違って薫くんはあまりに現実だったために、その後忘れられた……。
 忘れられはしたけれど、薫くんに導かれたかくも多くの後継者が現われることになったのだから、薫くんはずっと生きている。これはすごいことだ。

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