◆◇◆「羽生善治の軌跡」◆◇◆
「将棋世界」2001年4月号掲載
「羽生善治の軌跡」というタイトルで毎月違う人が書くエッセイのうちの1回

「将棋の神様」という言葉がよく使われるけれど、ここで使われている「神様」というのは漠然とした比喩または気分で、実体はない。これは将棋にかぎらず、「神」という概念が定着していない日本人全体に共通していることなのだけれど(もっとも、「オーマイ、ゴッド」なんて簡単に叫ぶアメリカ人にとってもすでに「神」の実体はないのかもしれないが)、羽生はその「神」に実体を持ち込んだ。つまり、「将棋の神様」とは「将棋の法則」ないし「将棋の原理」のことだったのだ。
 卵がさきかヒヨコがさきか――、みたいな議論になってしまうけれど、神を持たない人間は目の前にいる相手に勝つこと以上のことを考えられない。相手に勝つこと以上のことを考えられない人間は神を知ることができない。
 相手に勝っても負けても、いずれ両者は将棋というゲームの「原理」の中にいるのだ。「とにかくすべての相手、すべての対局に勝ちたい」と、ひたすらそれを思えば、自分が置かれている将棋というものに「原理がある」、ということがわかってくるかと言ったらそんなことはない。自分が置かれている世界に「原理がある」ということを知るのは、勝ちたいという願望とは全然別の次元の洞察力だ。
 しかしおそらく逆は可能だ。つまり、「将棋の原理を知りたい」と思うことによって、実際の対局に強くなる。なぜなら、すべての指し手は将棋の原理の中で起こっていることだからだ。

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 竜王戦第6局の図(90手目□7五歩)(図は省略)から羽生が指した3手、■5三香成〜■7五歩〜■9四歩の手順は、久しぶりにテレビの画面を通して、同時進行の形で羽生の読みの特性を実感した。
 この局面まで、羽生は端攻めをしていた。解説の青野九段も指し手の流れで8・9筋での攻防を予想していたのだが、羽生は5筋に手を移した。それを受けて青野九段が、□5三同馬に■同竜からの手順を中心に読んでいると、羽生は7筋に移って■7五歩。そこでまたまた青野九段が7筋の攻めか、馬を取る■5三竜かと検討していると、羽生は■9四歩。指されてみると■9四歩に対して□4二馬のヒマはない。羽生の竜はいずれ馬と差し違えることにはなるのだけれど、簡単に精算しないために、5・7・9筋が響き合って、読みは幾何級数的に膨らむことになった。
 観戦記というのはあいにく、実戦の指し手=結果からの逆算ばかりが書かれてしまうのものなので、対戦中の解説者の予想と食い違うことによる臨場感や驚きが再現されないのが残念だ。対戦中、解説者は五通りも十通りも読んで大盤の駒を動かして見せるのだけれど、それがことごとく外れてゆく。羽生の指し手に限らないことだけれど、やっぱり羽生が一番顕著だ。それはともかく――。
 寄せとは指し手の選択肢が収束していく状態のことだけれど、寄せ以前の段階ではいったいいつまで指し手の選択肢は広がりうるのだろうか。
 指し手の選択肢の広がりと収束は、非常に大雑把な図を思い描くなら、序盤で少しずつ増えていって〜中盤で最大限に広がって〜終盤に移行するにつれて少しずつ収束していく、という紡錘形のような菱形のような図式を想像するけれど、それは「将棋の原理」ではなくて、「人間の期待」にすぎなかったのかもしれない。
 序盤早々から選択肢はじつは膨大にあって、その状態が寄せの直前までつづいているのかもしれない。しかし本当にそうだとしたら、棋士は読むことができなくなる。棋士は将棋に一本の流れを見つけようとするから(または「局面がある程度整理できると思うから」)読む気になれるのだけれど、読んでも読んでも選択肢が収束しないとしたら「読む」ことなんてできると思うだろうか。
 これは棋士の読みにかぎったことではない。人は解答が得られると思うから考える。解答までは得られないにしても整理ぐらいはつけられるだろうと思うから考える。――考えるということは普通そういうことだと思われている。しかし本当はそれは「考える」ではない。考えるというのは、モグラのトンネル掘りのようなもので、掘ったトンネルの壁面すべてが次に掘る可能性となるために、収束することがない。
「おい、おい」と思うかもしれない。しかし考えるというのは、目標を定めてそこに到達することではなくて、永遠につづけることなのだ。少し話がそれるが、大人にその覚悟がなかったら、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問いかけてくる子どもに、答えることはできない。「なぜ人を殺してはいけないのか」も「生きるとはどういうことか」も、大事な疑問はすべて解答なんか安易に求めずに、まずはひたすら考えつづけようという態度が求められるものなのだ。解答は、「解答」の中にはなくて「態度」の中にある。子どもは大人の言葉(解答)なんか聞かないけれど、態度の方はちゃんと見ている。大人が態度を放棄して安易に解答だけを求めたら、子どもはそれを学習してしまう。
 話を戻すと、指し手の選択肢が、「序盤から中盤に向かって徐々に膨らんで、中盤をピークとして徐々に収束する」というのは、少しでも考えるという作業を少なくしたいという人間共通の願望にすぎなかったのかもしれないということだ。最近の将棋を見ていると、選択肢は序盤の数手目から一気に膨れる。そしてどうやら、選択肢は寄せの直前まで膨らんだ状態を持続させているらしい。
 そのとき「読み」という行為の定義が変わる。「読む」ことは「結論を見つける」ことではなくて、「結論が出ないように最も引き伸ばす(拡散させる)手を探す」ことなのだ。
 つまり、「これでいい」と思ってしまったら、それは人間としてごく自然の、「早く結論を見つけたい」という願望に屈したということだ。「結論を見つけた」という事実を意味するわけでは全然なくて、「結論の見えなさ」に屈した、ということだ。

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 羽生は大山、中原、谷川とつづいてきた将棋界の流れに一線を画するには、ものすごくタイムリーな時期に登場した。コンピュータがただの計算機ではなくて、人間の知能を代行するかもしれないということがリアリティを持って語られはじめた時期だったからだ。頭脳を使う棋士にとってこれほどの大事件はない。
 九三年頃だったか、そろそろ棋界制覇が見えはじめた頃、羽生は「最善手」という言葉を頻繁に口にした。これは拙著『羽生――二十一世紀の将棋』にも書いたことの繰り返しになってしまうけれど、最善手は棋士が考え出すものではなくて、局面に潜んでいるもののことだ。最善手だけで構成されている詰将棋の一手一手が、「考え出す」ものではなくて「見つけ出す」のと同じ理屈だ。将棋は棋士が創造するものではなくて、局面が要請するもっと自然な手を見つけ出すゲームだったのだ。
 羽生以前、こんなことを考えた棋士はいなかったはずだ。この「最善手」理論には将棋界の内部にはない、異質で強引な発想を感じる。それがつまりコンピュータだ。思考というのが、そのつど創作するような、創造的かつ想像的で、予測不可能な、つまりは芸術的なものだとしたら、思考はコンピュータに教えられない。思考するということをコンピュータにプログラムできる理由は、思考の本質が前のものを自然に引き継いで積み重ねていく作業だったからだ。将棋の思考=読みもその例外ではないことを羽生は発見した。棋士は将棋を「指している」のではなくて、「指さされている」ということだ。つまり、「この手を指せ」と局面から語りかけられている。勝手をやったら勝てない。
 こんなことを聞くと、プロ棋士だけでなくてアマチュアもがっかりしてしまうかもしれないけれど、「思考」とはすべてそういうものなのだ。「創造的かつ想像的で、予測不可能な、つまりは芸術的な」と、書いたけれど、本当は芸術でさえも、予測不可能な、そんな行き当たりばったりのものではない。音楽は作曲家の意志を越えた流れを持ち、絵画は画家の意志を越えた構成を持っているものなのだ。それが将棋という枠を越えて「最善手」理論の意味するところだった。

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 ところが、七冠達成後しばらくする頃から、羽生の口から「最善手」という言葉が聞かれなくなった。ただし私も「羽生ウォッチャー」ではないので、どこまで的を射ているかわからないけれど、私がたまに目にするインタビューでは「最善手」は出てきていない。
 その理由はたぶん、「指し手の選択肢の拡散と収束」の問題の中にあるのではないかと思う。「最善手」を口にしていた頃、羽生は将棋の収束のことばかり考えていたのではないだろうか。「終盤は二百六十通りに定跡化できる」という発言も(本当に羽生が言ったのだとしたら)、収束に関係している。
 しかし「将棋の原理」を考えていくと、将棋はもっとずっと奥深かった。「最善手」というのも、人間が理解できる範囲での“暫定的”な判断であって、拡散状態を長引かせるように指せば指すほど、「最善」なのかどうかの判断が不可能になる。
 それには羽生がチェスを本気(?)ではじめたことも関係しているのではないだろうか。チェスは本質的に収束のゲームだ。白黒二十手ずつも指したら指し手の選択肢は減る一方で増えることはない。羽生がかつて将棋を収束という側面から考えていたのも、チェスがモデルとしてあったのかもしれない。しかし将棋はいつまで指していっても駒が減らないから、コンピュータにチェスに教え込むときのような収束の図式を使えない。
 将棋というゲームを考える方策の一つとしてチェスをよく知ろうとしてみたら、最初の期待に反してチェスと将棋の本質的な違いが明白になってしまって、チェスを将棋のモデルや原型として考えることの無理を知るようになった……、というのは穿ちすぎな想像だろうけれど、素人目に傍から見えている最近の将棋は明らかに変わった。
 一時期、「将棋の結論が見えてくるんじゃないか」とか「もうじき必勝法が現われるんじゃないか」と期待させた、性急(?)な将棋観は棋士の中から消えて、「結論や必勝法など遠いさきのことさ」と、構え直した雰囲気が感じられる。少なくとも、「結論」や「必勝法」などという言葉は、この『将棋世界』では見掛けなくなった。
 そういう世論ないし風潮をリードしているのは、やっぱり羽生だ。羽生はいま、「将棋の結論は自分の代では出ない」と思い直しているのではないだろうか。将棋というゲームは――一時期タイトル戦ではまったく指されなくなった振り飛車が復活するように――、奥深く、人間の思考で解明できるほどヤワなものではないということだ。そしてそうだとしたら、人間の思考の生理を最も裏切るような指し手を求めるべきなのではないか。つまり、「これでいい」とか「早く結論を見つけたい」という人間としての自然な願望を抑えることが、「将棋を知る」ことにつながると思い直しているのではないだろうか……。
 

棋譜を再現したい人のために、いちおう駒の配置だけ列挙しておきます。
■先手・羽生善治(挑戦者) □後手・藤井猛竜王
【先手の駒】1七歩・3四桂・3五歩・4二竜・4八銀・5六香・5七銀・5八金・6六歩・6八金・7六歩・7七角・7八玉・8七歩・8九桂
【後手の駒】1四歩・1九竜・2四歩・3二歩・3三金・4六歩・5二歩・5三金・6三馬・6四歩・7三銀・7四銀・7五歩・8二玉・8三歩・9三香・9六桂
持ち駒【先手】桂・歩3【後手】香2・歩2


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