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ジャームッシュ以降の作家◆◇◆

柴崎友香『きょうのできごと』文庫解説 2004年3月刊


 二〇〇三年の私の収穫は、柴崎友香という小説家を知ったことだった。
 デビューが一九九九年で、この『きょうのできごと』の出版が二〇〇〇年一月だから、三年か四年、見過ごしていた計算になるが、毎年毎年何十人もデビューするこの世界の新人を、特別評判にでもならないかぎり、いちいち読んでみたりしない。つまり柴崎さんは全然評判になっていなかったわけだけれど、秋に柴崎さん本人と知り合って、半分以上「義理で」読んでみたのだが、これが予想に反してすごく面白い。
 面白いだけでなく、不思議な緻密さによって小説が運動している。
 というより、不思議な緻密さによって小説が運動している、その緻密ぶりが面白い、と言った方が正しいだろう。たとえば、最初の「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」の冒頭、「光で、目が覚めた。」につづく段落。
「右側から白い光が射してて、中沢が窓を開けて少し身を乗り出すのが黒い影で見えた」は、〈純粋な視覚〉ないし〈光学的現象〉だが、それにつづく「白くて強い光だったから、一瞬、朝になったのかと思ってしまった」は、〈その場(現在時)の思考〉だ。次の「たぶん、京都南インター・チェンジの入口で、窓の外では、金属の四角い箱の縁に光が反射していた」で、思考からもう一度〈視覚〉に戻り、この視覚は〈外の視界〉だが、その次の「中沢はその箱の中ほどから小さな紙を取り出し、少しも見ないままそれをズボンのポケットに入れた」で、視界は〈外から車内へと移動する〉。そして〈その移動をそのまま自分まで〉持ってきて、「わたしは座席に深くもたれたまま、その作業を眺めていた」となって、「いつ眠ったのか覚えてないけど、ずっと頭を垂れて寝ていたみたいで、首の左側にシートベルトが食い込んで、ちょっと痛かった」と、ちょっと〈記憶(たぶん一時間以内の記憶)を掠めて、その場(現在時)の自分のからだの感覚〉になる。しかし、このセンテンスでは「わたし」はまだ何も動きを起こしていないのだが、「ちょっと痛かった」という感覚に誘導されて、「触ってみると耳の下から斜めに跡がついていた」と、はじめて「わたし」に〈動きが生まれる〉。そして「その跡を撫でながら」と〈動きがつづきながら〉、「小学校のときから知ってる人が、こうしてお父さんがするような車の運転や高速道路の乗り降りをなんのためらいもなくしてるのを見るのは、妙な感じがするもんやな、と思った」と、〈古い記憶〉を経由して、〈現在時の感想〉がやってくる。
 私のこの説明を読んでも、たぶんほとんどの人は「だからどうしたの?」としか思わないだろう。
「だって、まんまじゃん」とか、「全然ふつうなんじゃないの?」と思った人もいるだろう。しかし、これが全然ふつうではない。だから私はわざわざ太字にして要素を強調したのだが(ウェブ上では、太字部分を〈 〉で括った)、ワンセンテンスごとに見たり感じたりする対象が変わり、自分の気持ちもそれにつられて変わっていく−−という、このとても機敏な動きの連続は、一見日常そのままのようでいて、本当のところ現実の心や知覚の動きよりはるかに活発に構成されている。この書き方ができる人は、ほんのひとにぎりの優れた小説家しかいない。
 つい昨夜も、NHKでかなり力の入ったドラマをやっていたのだが、“大事なことを二人の登場人物がしゃべる”というシーンがどうしても出てきてしまって、二人がまったりと夜景かなんかを眺めながら昔の話なんかをしているそのあいだ、カメラは二人の表情をいったりきたりするだけで、こういう機敏な動きを忘れてしまう。
 小説も映画もテレビのドラマも、ただ筋を語ればいいというものではない。映画やドラマならカメラが何を写すか、小説なら何が書かれているか、というその要素によって、作品独自の運動が生まれて、それが本当の意味での面白さになる。もっといえば、それだけが作品独自の“何か”を語り出す。逆に、この運動がなくて、同じ対象や同じ気分にとどまる作品は、ただ感傷的になることで読者の満足感を演出することしか知らない。
 この機敏な動きは導入部分だけでなく、この小説全体で止まることがない。だからそれに気がついた−−つまり、それを楽しむことのできた−−読者はきっと、一見簡単でするりとした外見(つまり「筋」)にもかかわらず、読むのに案外時間がかかっただろう。気がつかなかった読者は(だいたい感傷的な展開しか期待しないタイプの人たちだから)、「なに、これ」としか思わなかっただろう。不幸なことだが、ふつうの読者だけでなく、仕事で毎日のように小説を読んでいる評論家も、仕事ゆえに注意力が麻痺していて、この小説の運動に気がつかず、「十把ひとからげ」の新人と同じだと思ってしまう。しかし柴崎友香はそうじゃない。ちょっとだけ目新しい書き手は簡単に発見できるけれど、柴崎友香はもっとずっと異質な書き手だからその新しさに気づくのが難しく、読み手自身の力量が問われることになる。

 柴崎友香は、あの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のジム・ジャームッシュがもたらしたショックを正しく、真っ正面から受け止めた小説家だと思う。『ストレンジャー〜』が日本で公開されたのは八六年のことで、もうかれこれ二十年前のことになろうとしているけれど、小説家も映画監督もほとんどみんな、そんな映画がなかったかのようにして、小説を書いたり映画を撮ったりしている。でも『ストレンジャー〜』は、映画でも小説でも、すべてのフィクションを、作ったり見たり読んだりする人たちの心に、深刻なものを投げ込んだ。
 彼は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー〜』によって、はっきりと見せてしまった。未来に希望がないとしたら、「あるのは絶望だけだ」というのは、『ストレンジャー〜』以前の考え方で、私たちは未来に対して希望も持っていないけれど絶望も感じていない。
 つまり、未来はもうかつて信じられていたみたいな“特別な”ものではない。それを私たちはよく知っている。だから、『ストレンジャー〜』を境にして、フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直ぐ進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、ストーリーやテーマの展開にも、両方にあてはまる。未来には希望も絶望もないけれど、今はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。
 作り手として世界に何かひとつのことを投げ込むだけで大変なことで、ジャームッシュ本人は目覚ましい展開がないまま最近ではニール・ヤングのツアーを撮ったりしているが、ジャームッシュ以降の可能性は、確実に、柴崎友香に受け継がれている。

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