◆◇◆人生の岐路◆◇◆
(2006年夏発行の某同窓会新聞にその同窓会の一員である友人から依頼されて書いたエッセイ)



 最近テレビで立て続けに児童労働の現状をレポートした番組を見た。
 アフリカや南米のコーヒー園や農場だったり、インドの工場だったり、意外なところではアラブの駱駝レースの旗手だったり。駱駝レースというのは砂漠の長い距離を駱駝が走る競走で、駱駝に負担をかけないように子どもを旗手に仕立て上げる。旗手になった子どもに重くなられては困るから、子どもは食事を満足に与えられなかったり、あれやこれやの手段でとにかく成長が抑えられる。そういえば昭和二十五年生まれの人が言っていたが、昔は縁日の見世物に子どもとカンガルーのボクシングというのがあって、小学校低学年くらいの男の子がカンガルーにぼこぼこに殴られていたそうだ(これを読んでいる皆さんもかつて見たことがあるかもしれませんが)。
 児童労働というのは子どもを遊ばせずに働かせるわけだから、経済的な観点から見たら「生産性が上がる」と、うっかりしたら考えてしまうのだが、これが大きな間違いで、児童労働は社会全体から見たときに経済的な損失になるのだという。何故か? 働かせられる子どもは当然のことながら教育が受けられない。教育が受けられなければ、その子が本来持っている能力がわからない。一生農園の下層労働で終わってしまう人の中に、数学の天才がいるかもしれないのに、教育の機会が奪われたらその可能性は種子のまま萎んで腐ってしまう。
 ファラデーの話は有名だ。ファラデーは貧しい鍛冶職人の子どもとして生まれ、小学校を出ると製本職人の見習いに出された。そこで彼は絵を教わり、科学の実験道具をスケッチしているうちに、そのスケッチの見事さに感心した人から子供向けの科学講演の券をもらい、その講演を記録したファラデーのノートがまた素晴らしかったために、その講演をした科学者に見出だされた、というか、その人の助手として雇われることになり、そしてファラデーの法則などのその後の大発見へといたる。
 ファラデーの科学者への道は製本職人の見習い時代に絵を教わることからはじまった。もしそれがなかったらファラデーの人生はどうなっていたんだろうと思う。ファラデーを生んだくらいだから、ファラデーの父親か母親のどちらかも相当頭が良かったんじゃないかと思うけれど、ただ職人として生きてしまった……。
 もうひとつ、こんな話もある。私が敬愛する小説家の小島信夫さんが書いている話だ。小島さんは美濃の仏壇職人の家に生まれた。酒ばっかり飲んで怠け者の職人で金がない。しかし子どもは多く、一番上の姉さんは小学校に通っているうちから、医者に働きにやらされた。小学生だから「看護婦」ということはないだろう。何というのだろうか? 一九一五年(大正四年)生まれの小島信夫が末っ子で、その一番上の姉さんというんだから明治の終わりか大正のことだが、それにしてもその頃は医者には小間使みたいなことをしている子どもがいたんだろうか? いや、その時代はどんな仕事でも子どもが下働きをしていたのかもしれない。
 とにかく、その姉さんは物覚えが大変よく、あれこれ手伝っているうちに医者で出す薬と病気の関係を全部覚えてしまった。「この子は優秀だから、ぜひ上の学校にやりなさい」と医者は言うのだが、怠け者の仏壇職人の父親は「学校なんかやっていたら金にならない」と言って、小学校が終わると働きに出してしまった。その姉さんは弟と妹のために働く運命にあったらしく、ついに最後には吉原の女郎になってしまう……。
 いや、女郎がその人の人生の「最後」でなく、足抜きをしてくれた人がいて、金持ちというわけではなかったらしいが、その人と結婚するにいたったのだが、ちゃんと学校にやっていたら医者になっていたかもしれない。親が十年我慢すれば……と言ってみたところで、そんな親が十年なんて我慢できるはずがないのだが……。
 しかし思えば、それだけ物覚えのいい女の子や小島信夫という偉大な小説家を生んだ(小島信夫は本当に偉大なんですよ。その偉大さは簡単には説明できないんだけど)のだから、やっぱり父親か母親もまた相当頭が良かったのだろうに、教育がないというのは怖いことで、たった十年の我慢ができない。そして、怠け者の酒飲みの職人として貧乏な一生を終えてしまう。世界中に、もう数えきれないほどいるはずの、そういう人のことを考えると、私の気持ちは複雑になりすぎて、言葉が出てこなくなる。

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