◆◇◆作者と読者は“小説”で何を共有するか◆◇◆

「InterCommunication」No.44 (2003年春号)掲載


1.「新しい/古い/本来の」小説

「作者と読者は“小説”で何を共有するか」という問いは、そのまま「小説とは何か」という問いです。最近私が思うのは、芸術とか表現において“進歩”という価値観自体が古くなった、というか無効になったんじゃないかということで、「新しい小説/古い小説」という考え方自体がたぶん古い。「古い小説」は厳然としてあるけれど、その古びたものの反対側にあるのは「新しいもの」「新奇なもの」ではない。新しいかどうかに関わりなく、大事なのは「本来小説というのは何なのか」ということをもう一度考えることしかないのではないかと思う。それは「言語とは何か」という問いと平行していて、構造主義の言語観というのは「言語とは恣意的な差異の体系である」というもので、「新しい/古い」「高い/低い」のように対になっているから、言葉ははじめて意味として成り立つ。だから「美しい」という言葉も、「醜い」という対がなければ「美しい」もない。そこでみんな大きな誤解をしたのは、人間の感情までもが対になってると思ってしまった。つまり人間に先立って言語があるという考え方なんですが、「美しい」ものは「醜い」ものを想定しなくても間違いなくある。個人差はあるけれど、海や山は単純に「美しい」と人は感じている。言語より前に人間や自然が厳然とあるという風にもう一度考え直してみるべきなんじゃないか。

二〇世紀を代表する作家の一人がベケットですが、ベケットの小説の人物達は完全に、対になっている言語の世界の中に生きている。例えば崖っぷちまで歩いて来てしまった時、べケット流にやれば、前に行くのも後ろに下がるのもフラットな選択になってしまう。それは対の言語観を逆手にとった結果だけれど、これはこれで、ある種やむにやまれぬリアリティをそこで作り出していて、ベケットを考えるときには、フラットな言語観のところで止まってはいけなくて、その言語観が人間を浸食している事態ということまで考えなくてはいけない。ベケットの世界では選択はフラットだけれど、実際の人間というものは、まっすぐ行って崖があったら下がるか曲がるかどちらかで、まっすぐ行くということはありえない。つまり、危険を避けて生きる方を選ぶという力だけは絶えず人間の中で働いていて、そういう人間の中に言語より先だって働いている生きるための力、死を回避するための力を探すというのが一番わかりやすいけれど、それによって言葉というものがフラットなものではなくなる。
だから、文学という、言葉を扱う仕事の方向としては、フラットであるかのように思われてしまった言語をもう一度デコボコにするというか、濃淡を取り戻すというか、言語が人間の感覚に密接に結びついたものとして、言語の価値や見取り図を変えていくというようなことがひとつ必要なのではないかと思う。

2.リアリティと身体性

彫刻家の若林奮と批評家の前田英樹が対談している『対論・彫刻空間 物質と思考』(書肆山田)という本の中で、画家の描くデッサンがなぜ他人に絵として伝わるか、三次元空間である外界を絵として二次元に変換したときに、なぜそれが見る人に三次元空間だとわかるのか、という話がある。それは「画家が自分の身体とそれによる運動を使って、三次元空間にある対象を二次元の中に強引に押し込んだからだ」という意味のことを、前田さんが言っている。子供はみんな絵を描くけれど、この世界に絵があることを知っているから絵を描けるだけで、何も絵がないところから描いているわけではない。ただ画家だけが、自分の前に絵がなくても絵を立ち上げることができる。子供が絵を見て絵を描くという状態は、じつは絵に限らずに、音楽でも文学でも全部やっている。
二〇世紀に入ったあたりから、小説は本当に居直りをしてしまって、「小説は先行する小説があるから書くんだ」ということになり、小説は一種の言語遊戯のような様相を呈してきてしまった。と同時に、言葉が対であって、本来の世界とか人間の肉体とかに密接に結びついたものでない恣意的な差異の体系であるという言語観によって、言葉は世界を写すのではなくて、言葉の中でいろいろに形を変えるだけのものになっていってしまった。というような状況から「メタフィクション」が生まれてきたんだと思うけれど、やはりそうではなく、小説は極力、世界を書こうとしなければいけないし、それが小説の本来の姿なのではないか。だいたいメタフィクションにしても、本当はただの言語遊戯ということではなくて、作中に作者を登場させたりして、演算を複雑化することで、その複雑さの中からリアリティを立ち上げようということだったはずなんです。
 「世界とは何か?」ですか? 世界とは、政治でも経済でも社会でも風俗でもない、私が一番ぼんやりした気分に私が感じているもので、世界はけっして俯瞰できる対象ではなく、まさに自分が渦中にいるそこのことで、それに対しては明晰だったり分析的だったりする言葉はあんまり効力がない——という、そういうもののことですが、一番大事な言葉の定義はやっぱり一人一人で考えつづけるしかないんじゃないでしょうか。
世界をある通りに書くためには、やはり言葉がフラットではないもの、恣意的な差異の体系でなく、もっと自然や肉体に密着したものであるというような体制を組み直さないけない。というか、世界を書こうと思うことによって言葉もそのようになっていく。書く前に完全に言葉を完成させることはできないわけだし、小説とは書きながら言葉を変更する媒体なんだから。だからそのときに、三次元を二次元に押し込むという、絵でやる作業を今度は、広がる世界を強引に言葉に押し込むためにどうしたらいいのかということで、それがつまりリアリティを立ち上げてくるということなんですが、世界をそのまま書こうとする最初の段階として、まず見えるものをそのまま書くというのがすごい大変なことなんです。書き終わってみるとたった二百字ぐらいしかないものでも、それを見えた印象の通りに書くというのにものすごく時間がかかる。
私がその大変さを痛感しているときに偶然、養老孟司さんが同じことを言っていたんですが、論理というのは線的な構造で、言語も線的な構造だから、論理的な思考というのは難しいと思われがちだけれど本当は人間の脳にとってけっこう簡単なことで、それに対して、「見たまま」というのは一挙的つまり並列だから、それを線的な言語に写しかえるというのは脳にとっての作業の質がまったく違う。

風景を書くというのは、線的でない、ただ並列に並んでいるものをなんとか線的なところに押し込んで、しかも読む人にそれをもう一度並列としてアウトプットしてもらえなければいけない。目では数秒間しか見えないものを、三〇秒間ぐらい読んでもらう以上の時間を使ってしまったら、それはもう、パッと見たものとは別の印象のものになってしまう。そうやってたくさんたくさん描写して、パッと見た数秒間の印象から、言語として独立させて風景を長々と書くという方法は、現代文学の中でずっと使われてきたけれど、それもまた一種の逃げだったと思う。

もともと、数秒間見たものをたった数秒間読む時間の中では再現できないけれど、読むという時間は普通に生きる時間とはまたちょっと違ってるから、パッと見ただけにかかる時間が本当は数秒間だったとしても、読んでいる時間の中では三〇秒間から一分ぐらい使っても、数秒間という印象を壊さないで済むのではないか。その辺は瑣末なことみたいだけれど、でも、数秒間の視覚というのは、「数秒間の視覚」という読者の印象の中でなんとか処理する、というような課題をひとつひとつクリアしていくことが世界を書くことにつながるんだと思う。
しかし、見えているものを書くということは、見えている要素を書くということで、その要素をたくさん書くことが望ましいんだけれど、もともと並列な要素を入れれば入れるほど当然、線的な言語の構造との齟齬が生まれてくる。その齟齬が、いわばひとりひとりの文体ということなのではないかと思う。
齟齬が起きるから、文章読本的な良い文章というのは生まれないはずなんです。小説というのは、普通の人達が日記や手紙に使えるような、お手本となる良い文章を書くのが仕事ではなくて、世界を立ち上げるというのが最終的な仕事なので、その齟齬によって文体が生まれるとしたら、そこには本質的な何かがあるはずなんです。
つまり、齟齬としての文体の中には、画家が三次元を二次元に強引に押し込んだようなものがやっぱり入っているわけで、それは書き手の身体性以外の何物でもないはずなんです。
人間というのはやっぱり肉体を通じてしかコミュニケーションすることはできないのではないか思う。自分の肉体を総動員して、肉体が記憶するものを総動員することによってしか、コミュニケーションすることはできないのではないか。だから、齟齬としての文体というものが書き手の肉体を反映するがゆえに、ただの言葉であるはずのものが、読み手の肉体にも訴えることができるのではないか。こんなこと他の人が言っているのを聞いたことがないから、私が考えている一種の仮説なんだけれど。

3.小説にはなぜ描写があるのか

小説になぜ描写があるのかということを、きちんと考えられている人はめったにいない。それは絵を見て絵を描くのと同じことで、「なぜあなたの小説に描写があるのか」と訊かれれたら、「それは小説には描写があるから」とか、あるいは「人間がいる場所には風景があるから」と答えるはずだ。「演劇で、何も背景のない舞台というのが成立してるのだから、風景なんて書く必要がない」という言い方をしてしまえば描写なんて要らない。
ではなぜ描写があるのかというと、心理テストで、「あなたはいま道を歩いています。その道を思い浮かべてください。道の脇に木が立っています。どんな木か思い浮かべてください。木の枝に動物がいます。どんな動物ですか。あなたが歩いている道はどんな道ですか。今の時刻は何時ぐらいですか。季節はいつですか」という風に細かく訊いていくのがありますが、それに答える側は自分にいちばんしっくしるするものを答える。あるいは、たいていの場合にそれは選択の余地がなくて、「道を歩いています」と言われたら、私であれば「夕暮れの」とか「道はまっすぐで」とか「行く先は暗くて田舎の道で」のように自然に出てくる。描写をするということは、心理テストに答えるというその作業にものすごく近い。
しかし、心理テストと小説が違うところは答は関係ないということで、心理テストには「夕暮れだったらあなたの人生も黄昏です」というような答が必ず付いているけれど、小説はそんなことは問題にしていなくて、自分がいちばんしっくりする、いちばん自然に浮かんでくるイメージを一生懸命書くことによって、読み手のイメージと通じるということなんです。
読み手は読み手で、純粋に心理テストに答えたら、「道」と訊いたら「曲がりくねった道」で、時刻は「早朝」と思うかもしれない。でも、書き手と読み手のそういう表面的な一致や違いは本当のコミュニケーションには関係なくて、完全に自分がそう思うことを提示することによって、読み手とイメージが共有できる。大事なことは、書く方がそれを自分がコントロールしているわけではないということです。
自分が完全にそれを意識的にコントロールしてないということは、いわゆる自我で書いているのではないということで、心理学的に言うと無意識が書いているとかすぐに言いたがる人がいるかもしれないけれど、そういうことではなくて、いま言ってる「道」が小説の導入部ではなくて途中に出てくる「道」だとしたら、小説のそれまでの流れが要請している「道」があるはずなんです。そういうことを積み重ねていくことが描写ということで、一見主題や筋に関係なくてもそういうことに労力を投入することで、読者との回路を開くことができる。もっと広く言えば、読者の中にリアリティを作り出せる。

4.小説にとって「読者」とは何か

コミュニケーションということで言うと、小説は書き終わった自分に向かって書くものなんじゃないかと思う。
書き出したときの自分と書き終わったときの自分が変わっている、というのが小説なんだと思う。書いている最中の自分というのは、一種まだ自分がよく知らない書き終わったときの自分に向って、書き終わったその自分が満足できるような小説を書いている。書く前の自分が青写真を描いてその通りにいったから満足という、書く前の自分のために書いているわけではなくて、小説というもの自体が、ただお話を伝えるものではなく、書く人も読む人も一緒になってその世界のその時間の中で考えるためのメディアなんです。
だから、ちょうど哲学の本を一冊読み終わったら少し変わるのと同じ意味で小説だって変わるし、小説の方が描写を使ってリアリティに訴えかけてくる分だけ、変わる可能性は強い。
書く人が、自分もよく分からない書き終わった自分が満足するために書くということがコミュニケーションの最大のありかたで、「読者」というのは「ファンレターをくれる人」の意味ではなくて、初めてその人の名前を知ってその小説を読んでいちばん深い意味で「面白い」と感じる人が「読者」だから、それは書き終わたときの自分というのと同じ意味なんです。
話がどれもきちん言い尽くせないまま飛躍しつづけてしまいましたが、「文字に書かれたものが読み手の中でひとつの世界としてアウトプットされる」というのは、音楽や絵の直接性と全然違っていて、不思議というか一種の奇跡と考えるべきことなんじゃないかと思う。そういうことに対して、自分なりの答を求めながら書くのが小説なんです。答はたぶん得られないだろうけれど、得られなくても求めなくてはいけない。答が得られる問いなんて、もともとたいした問いではないんですから。(談)

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