◆◇◆小説をめぐって(1)——第三の領域◆◇◆

「新潮」2004年1月号掲載
雑誌掲載時のタイトルは、ただ「小説をめぐって(1)」でしたが、
その後連載をつづけるうちにだんだんと形が決まってきたので、
「第三の領域」という副題置くことにしました。

 現代音楽の作曲家のオリヴィエ・メシアンがクロード・サミュエルという音楽評論家を質問者にたてて語った『オリヴィエ・メシアン その音楽的宇宙』という本がある。その中で歌と伴奏(あるいは主旋律と伴奏というのか)の関係を説明しているところがあって、そこでメシアンは歌に対する伴奏は和音だけではない、たとえば日本の三味線の伴奏では和音に基づかない、歌といわば独立した旋律が弾かれるような形態もあり、こういう歌と伴奏の関係は世界的にみても決して珍しいものではない(つまり、和音という考え方もまた、世界の一地域で育ったものなのだ)、ということを言っていたのを読んだ記憶があったので、それをこの連載の冒頭に置こうと思って本をめくったのだがそれがちっとも見つからず、しかし私がたしか九四年にこの本を読んだときにつけた附箋の箇所がおもしろかったので、まずそれを引用することにする。

 ———あなたはしばしば補色について話をなさいますが、この概念について詳しく伺いたいのですが。またどうして音楽家がそういうことに興味を抱かれるのかも御説明願いたいのです。
 O・M 画家たちは補色を使用しています。しかしわれわれの眼は、画家たちより前に補色を生じさせているのです。白地の横に置いた赤地をじっと見つめていて何秒か経ちますと、この二つの色地の境目あたりで赤色が輝いてくるのが見えるでしょう。そしてこの輝きが極限に達すると、この赤色の傍らの白地のほうに、緑色がちらちらと燃え立つように輝くのが見えてきます。この緑はじつに淡い色ですが、非常に美しい色です。この現象はすべての色について生じ、「同時的対比」と呼ばれています。この燃え立つように現れてくる色が実際の色の「補色」なのです。いかなる色もわれわれの眼のなかに、その反対色である補色を自然発生させます。赤の補色は緑であり、緑の補色は赤です。黄色の補色は菫色であり、菫色の補色は黄色です。青の補色は橙色であり、橙色の補色は青です。それ以外のすべての色、またあらゆる混合色にも、それぞれの補色が存在します。
 自然共鳴音の現象もこれに類似しています。しかし眼にではなく、耳に作用するわけです。ピアノの低い「は」音を非常に強く叩き、同時に強音ペダルを踏み込んですべての共鳴音を得るようにすると、叩いたほとんどすぐあとから、つぎつぎと(和音の形でではなく!)、そしてしだいに弱くなりながら、叩いた音の第二オクターヴでのハ音、叩いた音の第三オクターヴでの五度のト音、三度のホ音、叩いた音の第四オクターヴでの七度の変ロ音、九度のニ音、増四度の嬰ヘ音が聞こえてくるでしょう。そのあとの無数の音を耳はもう聞き分けることができません。叩いた音が基音で、ついで聞こえてきた音たちは倍音です。半音階のすべての音は、同じ倍音を移高させたものを発生させます。それらは常に上方に(下部倍音というものは存在しません)、つぎつぎと(和音の形でではなく!)比較的ゆっくりと(中庸のテンポで)、低音域では間隔を置いて、高音域では狭まって、だんだん弱くなりつつ(増四度は五度より弱く)立ち上がってくるのです。
 自然共鳴音の現象と補色現象との間には、片方が耳に他方が眼に作用するとはいえ、一種の類似点があります。音楽を聴くと、私には音の複合体に相応する色彩の複合体が内的に見えるのです。ですから、音に対するのと同時に色彩にたいして私が関心をもったとしても当然のことなのです。

 話はこのあと、ドビュッシー、ワーグナー、モーツァルトの音がいかに色彩的であり、特にドビュッシーでは何千という色彩が見えるということをメシアンが言う。そこを読んでいると、「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青。母音よ、ぼくはいつか君たちの隠れた誕生を語ろう。」と書いたランボーと同じように、メシアンは音を聞くと色が見えてしまう、五感が完全に分化しないままになっている、共感感覚をもっているのではないかと想像してしまうのだが、メシアンがそういう症例(?)かどうかはいまはどうでもいいし、もともと三味線の伴奏法を調べたかった私が引用したかったのは、最終段落以前の補色と自然共鳴音のことだ。
 余計なことだが、音を聞いて色彩が浮かぶ生理と、補色や自然共鳴音の生理は別のことで、共感覚を持っていない人にも補色現象と自然共鳴音の現象はあらわれる。
 しかし共感覚というのが興味深い現象であることは間違いない。新生児は誰でも共感覚を持っているらしい。もともと生物というのはたった一つの受精卵から身体のすべての部分が分化するわけで、脳もどこかの時点で機能が分化する。ということはどこかの時点までは機能が未分化で、新生児はまだその状態だということらしい。
 共感覚というと、音と色を想像しがちだが、聴覚と視覚だけでなく、視覚と味覚とか、聴覚と触覚とかの共感覚(未分化)もあると考えると、文字による描写を読んでいるときに風景が頭に浮かんでくる理由も文学としての巧拙を離れた別の様相を帯びてくる、というか文字によって表現される小説というものが五感(身体)とのダイナミックな関係に投げ出されるように感じられてくる。

 と、ここまでが、メシアンの引用部の、ピアノの低い「は」音を非常に強く叩くと同時に強音ペダルを踏み込んだ状態のつもりの部分だ(しかし、ここだけどうして「は」がひらがななんだろうか? ひらがなで表記される音域とカタカナで表記される音域に分かれているのだろうか)。
 それでここから話はメシアンとも音楽とも関係なくなって、いったん私自身の小説にまつわる話になるのだが、『この人の閾(いき)』という小説で芥川賞を受賞したときの選評でも、それ以降の批評や直接会った人からの感想でも、「男と女が昼下がりに家の中で二人だけでいて、どうして何も起きないのか?」ということをうんざりするほど言われた。
 「何も起きない」の「何」とは当然セックスのことだが、男と女は平日の午後に家の中にいるとセックスをするのが常識なのだろうか。私にこのことを言う人は「当然セックスするとばかり思って読んでいたら……」という風に「当然」に力をこめて言うことになっているのだが、男と女は、一対一で平日の午後に家の中にいたら当然セックスをするのだろうか。
「それは小説だからですよ」と、相手は答えてくるだろう。そのときその人の“小説観”ないし<小説−現実>観は破綻している。ひかえめに言っても、底が見えてしまう。
 もうひとつ、二十代の恋人同士が同棲しているその同棲の煮詰まった感じをドキュメンタリーのように撮った映画があって、その中で、煮詰まりが限界に達して女が料理していた物を全部流しに叩きつけるシーンがあった。これは私の『<私>という演算』という小説に見えにくい短篇集の「閉じない円環」という文章の中でも書いたことなのだが、この映画がある小さな映画祭で上映されて、その夜の監督本人への質疑応答のときに、
「どうして男はあそこで女を押し倒さないのか」
 という質問というより批判を別の映画監督がした。そのときは作った監督が答えるより先に私が「なんでセックスなのか。だいいちセックスの快感というのはどういうものなのか」と反発したのだが、押し倒させなかった方の監督は押し倒してやっちゃうことが解決にならないことをじゅうぶんにわかっていただろう。現実の中で、彼はきっと、一度か二度は、ああいう状況で女を押し倒して「やった」ことがあり、それでその夜は嵐がおさまったとしても、煮詰まりやわだかまりは先送りされるだけで解決されるわけではないことを経験済みだったのではないかとも思う。
映画祭のあの質疑応答のときに、私は、「セックスがそんなに重要か」ということだけは言ったけれど、押し倒すことが現実の場面で解決にならないという、こんな簡単なことに気づきそびれたままだった。私だけでなく、あの場にいた誰一人として、映画のそのシーンを現実の場面としっかり重ね合わせることをしなかった。会場には当然、女性もいた。
「映画としてどうなのか」という風にしか考えていなかったということだ。映画の中では男は女を押し倒しまくる。押し倒された女の方も最初は「こんなことでごまかさないで」とか言いながらも、そのうちによがり声をもらしはじめて、事が終われば、まったりとしている。
これを男の側からの欲望とか都合のいい女性観と、フェミニズムの観点から批判することもできるけれど、問題はもっと難しいところにあるのではないかと思う。
しかしだいぶ話がそれるが、現実の場面でもこの押し倒しが通用する女性がたしかにいる(A)。“好き者”というようなことではなくて、たぶんマゾヒストに分類されるだろう女性たちだ。話の流れで「女性たち」と書いたけれど、もちろん男性にもマゾはいる。マゾヒストには肉体の苦痛による快楽だけでなく、愛の定義の狂い(ないしズレ)が伴なっているだろう。
マゾヒストにとっての肉体的苦痛が純粋な快楽なのか、幻想に支えられた快楽なのか、それすら私にはわかっていない(B)。もし幻想に支えられた快楽だとするなら、医者に治療されたり予防注射を射たれたりする人問は、全員少しはマゾヒストの傾向を持っているということになるのではないか。動物は治療や予防注射という概念(?)を絶対に受け入れないからだ。
私の祖母はいま生きているとしたら百十歳をこえているぐらいだが、生涯文盲で、医者にかかるということも大嫌いというかおそれていた。これも『<私>という演算』の中の「祖母の不信心」という文章にも書いたことだが、私の母が毎朝、箪笥の上に置いてある祖父たちの写真に線香と水をあげて手を合わせているのを見て、祖母は、
「よくそんなことするじゃん」
と言った(「じゃん」は甲州弁の文尾につく言葉で、いま流行っている横浜あたりの「じゃん」とは、響きがかなり違っている)。
本は当然読まなかったが、テレビのドラマにもいっさい感情移入したことがなくて、まわりの人がドラマを見ながら泣いていると、
「テレビじゃんけ」
と、「冷やかに」というのでもなく、ただ素っ気なく言ったものだった。
祖母は私が知るかぎりで、最も文化から遠く動物にちかい人間で、それゆえに幻想がほとんどなく、医者が治療のために刺す注射針と暴力で刺す針との区別がもしかしたら幼児以上についていなかった。
体に針を刺されることがマゾヒストにとってどれだけ純粋な快感なのか、計測するのは他人からだけでなく本人にとっても難しいだろう。その人がその人たりえている(その人をその人たらしめている)幻想の外に出ることは不可能にちかいからだ。“かつてマゾヒストだったがいまはそうではない“という人がいれば、その人から話を聞けるかもしれないけれど、“かつてマゾヒストだった”人は、もしかしたら“いまマゾヒスト”の人よりも普通の言葉が通じないんじゃないかとも思う。
高橋源一郎の『あ・だ・る・と』という小説に、乳首が痛めつけられすぎて取れてしまって、ペニスにも針を刺したりいろいろなことをしすぎて、ペニスが根元(?)の三分の一しか残っていなくて、肛門もいろいろなことをしすぎてカボチャぐらいの巨大な脱肛になっていて、前も後ろも垂れ流し状態でいつもオムツをしているのだが、それでもマゾをやめられない「田中さん」という人が出てきて、この「田中さん」のモデルになった人は実際にいるらしいのだが、こういう人のことを小説で知ったり、インターネットでSMの写真が載っているサイトを見たりすると、もう本当に人問にとっての“肉体的快感”が、肉体なのか幻想によるものなのか、幻想なのだとしても、これほどの痛みを快感ととらえられる幻想がはたして本当にありうるのか、全然わからなくなる。不謹慎な言い方をすれば、「小林多喜二まっ青」だ。
私はこういうとき、人問が“物と化す”ように感じられて、比喩でなく本当に吐き気がしてくる(だからいまも書きながら吐き気がしている)。しかしそれでも書いているのは、はじめの話にもどって、現実とフィクションの関係を考えるときに、マゾヒストのこの、いわゆる「倒錯」が避けて通れないと思うからだ(しかしやっぱり自分でも悪趣味じゃないかと思いつつ、それが中断できないのを不思議に思いつつ書いているのだが)。「倒錯」とは書いたけれど、倒錯でない何かがそこにあるのではないかと思う。「田中さん」ぐらいのものすごいマゾヒストがマゾヒストでなくなる時がくるなんて想像できるだろうか。「田中さん」はもう一生、マゾヒストを生きるしかないとしか私には思えない。

そこに“愛”が作動しているのかというのがもうひとつの問題だ(C)。
インターネットに書かれた文章を読むとマゾヒストはどうも度はずれて柔順らしい。ただしこれはマゾヒスト本人でなくサディストであるところの“調教師”による解釈だから丸々それを信じていいという保証はないけれど、調教師の要求することを次々に受け入れていく(文字どおり「肉体が受け入れていく」のだ)マゾヒストの態度は、“愛”の定義の狂いか激しいズレのように思える。
九七年に、雑誌「現代思想」の対談で、友人であり私が哲学の本を読む道案内になってくれた樫村晴香と、自閉症についての対談をしたときに(このほとんどレクチャーのように九割方樫村がしゃべっている対談は私の『言葉の外へ』というエッセイ集の巻末に収録されている)、樫村が名詞には視覚起源のものとそうでないものがあり、自閉症の人間には、「犬」や「机」など物として目で見ることのできる名詞は理解できるけれど、「愛」というような目で見ることのできない名詞は理解することができないという意味のことを言っていたのだが、「その人をその人たらしめている幻想」もっと言えば「人間を人間たらしめている幻想」ということを考えるときに、この、視覚起源の名詞とそうでない名詞の違いはすごく大きな意味を持ってくる(D)。
精神分析の入門的レクチャーで、名詞とか概念について説明するときに「リンゴ」や「コップ」など手近なもので説明するのが普通だが、そういうときも「愛」を例にあげて説明しないとよくわからない。というか、そうしないと名詞・概念が単純なものになりすぎて、それらを本当に理解するための体制ができそこなう。分析哲学や言語哲学の人は言葉ということで「リンゴ」も「愛」も同列に扱いたがるけれど、名詞(「対象」というべきか)として認知される仕組みが違っているのだから、「リンゴ」と「愛」を同列に扱うことはできない。
「リンゴ」や「コップ」や「犬」のようには目で確かめることのできないのが「愛」で、誰かが「リンゴ」と言って犬を指差したときに、「それはリンゴではない」と指摘するようには簡単に指摘することができないのが愛で、だから愛はその人ごとに「これが愛だ」と信じるしかない。信じるといっても意識してそれに向かうように能動的な心の使い方をして意味を獲得したわけではなくて、愛は人生のある時点でそういうものとして勝手に定着してしまう。犬を「リンゴ」だと思い込んで育った人には、「リンゴとはこういうものだ」と正解(?)を示すことができるけれど、愛ではその人が「愛」と信じている状態にかわる状態を示すことは難しい、というか不可能にちかい。
だいいち、子どもの頃に「リンゴ」と「犬」を間違って覚えていたとしても、成長の過程でそれは修正されるだろう。幼児期に修正を重ねて覚えていくのが言葉というもので、成人になるまで「リンゴ」と「犬」を間違って覚えるような頭を持った人は、言葉を理解することはできないだろう。
愛は実体がないとも言いきれないし、あるとも言いきれない。つまり幻想で、幻想は実体があるとかないとかと、別の範疇に属する。———と、書いてみて、まさに「実体がないもの」のことを幻想と呼ぶというあたり前のことに気がついたのだが、「私はあの人の幻想を見ていたのね」みたいな、簡単に剥げたり、置き換えたりすることができなくて、しっかりと心のプロセスに絡みついていたり、それ自体が心のプロセスになってしまったりしている状態が「幻想」なのだ、ということをいまここで言いたいということはわかってもらえるだろう。
肉体的苦痛とは、キリストが十字架の上で味わったもののことでもある。修道僧たちが自分の体を笞で打ったというのも、キリストが味わった肉体的苦痛を共有するためだ。淫らな感情を一瞬でも抱いた自分を戒める意味もあったのだろうが、それはたいしたことではない。肉体的苦痛それ自体が人間には“何か”であり、もともとそうだったからこそ、キリストの苦痛も人々の心に強く訴えかける結果となった。そうでなければ十字架である必要はなく、ブッダのようにすわって瞑想しているところをシンボルにしていただろう(E)。
性行為がそのまま肉体的苦痛であるわけがないが(特にオノ・ヨーコのようなタイブは肉体的苦痛がともなわれるような性行為が愛だなどとは断じて認めないだろう)、性行為とは肉体的苦痛なしにはありえないと理解している人(特に女性)がいることもまた間違いない。「別れた彼とのセックスが一度として肉体的苦痛をともなわなかったことはない」とテレビで証言している女性を見たこともある。彼女にとっては男性は彼ひとりだったから、セックスとはそういうものなんだろうと彼女は理解していたのだ。「彼が求めたから」「それで彼が喜んでくれたから」ということだ。ウーマンリブの闘士が激怒しそうな言葉だが、運命の女に翻弄されて、すべてを失い、ボロボロになって投げ出される男だって同じようなものだと言えないだろうか(F)。
文学の中で「運命の女」が繰り返し描かれているのに対して、「運命の男」の方は(たぶん)ほとんど描かれていないことが、ここでの女性の性行為というか夫婦生活をロマンチックなものでなく、“そのまま”としてこちら側に理解させるひとつの要因になっていると思う。男の言いなりになりつづける女性を見ると、「(男が特別なわけではなく)原因は女性の方にある」と思うのに、女にふりまわされる男ということになると「運命の女」をつい期待してしまう。
性行為にともなう肉体的苦痛ということを抜きで考えてみれば、そこにある男女関係は同じなのではないか。『失われた時を求めて』の主人公は女にふりまわされることが恋愛だと思っているから、アルベルチーヌの浮気や裏切りを想像しつづけ、完全に囚われの身にすることができたと思うと気持ちが醒めてしまうのだが、そこには愛する女を「運命の女」と思い込みたい願望があふれかえっている。アルベルチーヌが「運命の女」だったわけではない。あるいは、プルーストはあれだけのぺ-ジをアルベルチーヌひとりに割くことによって、「運命の女」なんか存在しないことを書こうとしたのかもしれない。
とはいえ、性行為にともなう女性の側の肉体的苦痛や肉体的快感の大きさを抜きにして男女関係を考えるのはやっぱり不十分だ(ついでに話を戻すと、アルベルチーヌのモデルはプルーストの同性愛の相手つまり男性だったというのだから、この話はこの話で例としての単純な枠には全然おさまらないのだが)。と、女でない私は考える。そこには非対称なこと、男の側からは推測でしか言えないことがある(G)。

書けば書くほど、話は“解”に向かわずに、考えるための要素が増えてしまっている。もともと私はスパッときれいに言い切るつもりはなかったけれど、いたずらに要素を増やし、話を横へ横へとずらしていくつもりもなかったのに、原稿としてはそうなってしまっている。
いま私はここまで書いた原稿をざっと読み直しながら(A)(B)……(G)という記号を書き込んでいったのだが、これらのことはどれも、文字に書かずにただ頭の中で考えるときには、すでに内容をよく知っているぺージをぱらぱらめくるようにチェックしていくだけで済むから、書かれた原稿としていまこうして読むように時問がかかるわけではない。そして(A)〜(G)のことをざざっと思い浮かべながら、はじめの<小説—現実>観に対する解に接近する、というかうまい解が浮かぶのを期待して待つわけだけれど、こうやって結局三日か四日かけて書いてもその解が出てくるわけではなかった。(A)〜(G)を書く方
に注意がいってしまっていたからだ。
「そんなのは押し倒してやっちゃえばいい」とか、
「どうしてあそこで男に女を押し倒させないのか」
という考え方が、映画(フィクション)の枠内のもので、そう発言した映画監督は、現実でなく映画の中でしか思考しなかった——と言うのは簡単だけれど、あの場でそういう風に明快に(私だけでなくみんなが)考えられなかったところにフィクションの厄介さがある。
そしてそこに“愛”という要素を入れてしまうと、解が見えてくる・こないは別にして、フィクションの厄介さの厄介ぶりがもっと見えてくる。単純に“フィクション”“現実”で分けられない、第三の領域があるという風に考える必要がある。
わかっている人にはあたり前すぎるような話に見えるかもしれないが、わかっていると思っている人でも本当のところどれだけわかっているだろうか。小説を書いたり読んだりする行為はこの第三の領域で起こることなのだ。これからいつまでつづくか、いまのところ考えていないこの連載は、この第三の領域で何が起こっているのかを考えるために、いろいろなところをまわる文章になる(のだろう)。

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