◆◇◆小説をめぐって(十五)◆◇◆
  小説と書き手の関係【後半

「新潮」2005年4月号


小説は机の前にすわった人間が頭の中で情景を組み立てつつそれを文字に置いていくものだ。書いている本人=小説家はその情景の中にいるわけではない。ニュースの映像ではないからあたり前のことなのだが、書いている本人はついついその情景の中に入り込んでしまって文章が現在形になる。しかしその情景はもう一度、自分と切断しなければならない。
小説にはなぜ風景が書かれるのか?というのが、いまだに答えが得られない私の問いで、答えは得られてはいないけれど、風景が書かれている小説の方が私は断然好きなのだが、それと同じように、はっきりした答えはないけれど、小説は一人称にしろ三人称にしろ過去形で書く必要がある。自分で小説を書いたことのある人の半数は思いあたるのではないかと思うが、小説を書くときに過去形を使うのは思いがけず難しいことなのだ。
『小銃』の先駆形が過去形だったか現在形だったかはともかくとして、おそらく作者は最初、一つ目の段落の情景を、ある日のある時(または、あの日のあの時)のこととして書いただろう。しかしそれでは「手術あとのようなくびれた不毛の創口」や「黒子のようにぽっつりふくれた、かげのところのボツ」のなまなましさがじゅうぶんに出てこなかったので——場合によって、それらをはじめて見つけるところから書かなければならなくなってしまったかもしれない——、反復し身に染みついた行為となるように書き直したのだ。
そして二つ目の女の段落が回想でなく、銃に貼りついた記憶のように書かれた。
この二段落がしっかりできてしまえば、あとはいくらでも銃と女を混同できる。というのも言いすぎだけど、この小説で目を見張るところは、何と言ってもこの二段落なのだ。というか、ここで、まだ小説が文芸誌に載ったことのなかった三十七歳の小島信夫はしっかり何かを_んでいる。と、ふつうは言われるのだが、「_んだ」のではなくて「切断した」のだ。

『小銃』が書かれたのは一九五二年(昭和二十七年)だ。このとき小島信夫はカフカを読んでいただろうか。
その問いには意味がない。実際に小島信夫がカフカを読んでいたかいなかったかは、つまるところどうでもいい。カフカがすでに存在したことによって、具体的にカフカの作品が流通するしないにかかわらず、もうカフカは存在している。だから小島信夫はカフカを読んでいなかったとしても、知っていた。あるいは、小島信夫の中にカフカが住みはじめている。
この銃は何なのか?銃と女の関係はどうなっているのか?比喩?象徴?そういう概念の枠組みで分類しても意味がない。
銃と女は単純にイコールではない。銃と女は別々のものだということぐらいわかっている。しかし銃が女と別のものだったら、私は女から遠くなってしまう。私はいつも女と一緒にいたい。だから私は銃を握ったときに女を思い出すことに歯止めをかけようとはしない。銃イコール女になってくれればいっそ私はうれしい。銃は女を思い出すための媒介だったのだが、いまでは媒介が対象そのものになっている。
それが、比喩なのか象徴なのか、あるいは大塚英志がよく書くところのウィニコットの移行対象なのか、そういうことは作者も読者も知る必要はない。比喩も象徴も移行対象も、ここに書かれたことを整理したあとに出てくる。しかし整理はあくまでも整理であって、ここにある深刻でバカバカしい感じの始末におえないなまなましさは消えてしまう。

小説とは小説家の中にあるイメージというか何か言葉にならないものを、人物の動きや情景や出来事の連鎖によって読者の中に作り出そうとする表現行為のことだ。だから小説は言葉によって書かれているものではあるけれど、音楽や絵画と同じように、言葉によっては再現することができない。
読者が小説を読みながら感じていることは、音楽や絵画(その他すべての表現)と同じように言葉によってあらわすことができない。
リアリティというのは「本当らしさ」という風に訳されるのがふつうだろうけれど、表現におけるリアリティとは、「取り換えが不可能であること」とか「抜き差しならなさ」ということだ。
一種の奇書とも呼ばれている、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』という小説がある。アンドレ・ブルトンなどシュルレアリストたちが先駆として絶賛し、先月私が日記を引用した、ミシェル・レリスが(たぶん)最も愛した小説家だ。アフリカの架空の国で、架空の発明品や架空の芸や技が繰り広げられる。どれもまったくありえない物や事ばかりなのだが、それらの中にもリアリティのあるものとそうでもないものがある。荒っぽく言えば、うまくいっている箇所とうまくいっていない箇所がある。その違いが示唆的なのだ。

長くなるが、『アフリカの印象』(岡谷公二訳 白水社)から、以下二つの箇所を引用する。

(A)ラオは、その広さからして、互いに遠く離れて行なう或る種の音声上の実験に向いている、きわめてひらけた場所につくと、突然長い縦隊を停止させた。
胸郭のつき出た偉丈夫ステファヌ・アルコットが、十五歳から二十五歳までの六人の息子たちを連れて、私たちの列から進み出た。体にはりついた、赤い、飾りのない肉儒絆(じゅばん)を通してうかがわれる、この息子たちの信じがたいほどの痩せ方が、人々の目を奪った。
同様の肉儒絆をつけた父親は、夕日を背にして或る一点に立ち、次いで右手に注意深く八分の一回転し、突然、彫像さながらの不動の姿勢をとった。
六人兄弟の長男は、ステファヌが占めている場所から出、父の視線を正確に辿り、ゆっくりした、大幅な歩みを一歩一歩大声で数えながら、ベユリフリュアンの方角に向かって斜めに歩いた。彼は、自分の歩幅が変わることのないよう、厳密を期した。彼は、百十七歩を数えて立ち止まり、ふりむいて西を向き、父にならって、気取ったポーズをとった。長男についてきた次男も南西に向かって、同種の歩行をなし、機械で測ったような同一の歩幅で七十二歩歩いたのち、東に胸をむけて、マネキン人形のように動かなくなった。その下の四人の兄弟も次々と同じことをしたが、つねに、前の人の達した地点を出発点としてえらび、その短い距離を歩くに際しては、普通測地作業にだけみられる数学的な正確さに注意を払った。
末っ子がその位置についたとき、この七人の父子は、不等間隔をおいて、奇妙な破線の上に並ぶことになった。その気まぐれな五つの角はそれぞれ、合わせた二つのかかとによって形作られていた。この図形の外見上の不統一は、意識的なもので、厳密に定めた歩数を、大股で規則正しく歩いた結果生まれたものだった。六人の歩数は、最小限六十二歩、最大限百四十九歩で、あとはその中間であった。
一旦所定の部署につくや、六人の兄弟はめいめい筋肉を苦心して使い、胸と腹とを思いきり凹ませて、大きなくぼみを作った。さらに両腕を、あとで付け加えたへりのように、まわりに丸くして沿えて、それを一層深いものにした。なんらかの塗料のおかげで、肉襦袢(じゅばん)は、肌にいつもついたままだった。
父親は、両手でメガホンの形をつくり、重々しい、よくひびく声で、長男の方角に向かって、自分の名前を呼んだ。
すぐに、違った間をおいて、Stephane Alcottという四つのシラブルが、各人の唇が少しも動くことなく、大きなジグザグ形の六つの点で、次々に繰り返された。
これは、六人の子供の胸郭が形作るくぼみに、家長の声そのものが反響したのである。子供たちは、おそるべき食養生の結果維持されている、その異常な痩せ具合のおかげで、どんな音も反響させる、固い、骨ばった表面を作り出すことができたのだった。
この最初の試みは、それを行なった人たちにとって満足なものとはいえなかった。彼らは、その位置と姿勢を少し変えた。
調整は数分つづいた。そのあいだ、ステファヌは、しばしば自分の名前を大声で言い、その度ごとに、息子たちの方から返ってくる結果をうかがった。息子たちの方は、音を前よりすばやく受け渡しできるように、両足を少し動かして、或る方向に一センチだけ出てみたり、一層前かがみになったりした。
まるで、調子を合わせるのがむずかしく、調整には何よりも入念で恐耐強い配慮を必要とする、目に見えない楽器を扱っているかのように見えた。
とうとう、試みが上首尾に思われたので、ステファヌは、心ならずもたちまち六つの反響音を生み出してしまった短い言葉で、骨と皮だけの息子たちに、歩哨のように完全な不動の姿勢をとれと命じた。
それからはじまった本番は、まさに見物だった。
ステファヌは、声域や抑揚(イントネーション)を無限に変化させながら、あらゆる種類の固有名詞、間投詞、日常よく使われる言葉を、声を限りに発音した。その度ごとに、水晶のように澄んだひびきをあげて、音は胸から胸へと繰り返されていった。音は最初、声量豊かで力強かったが、しだいしだいに弱くなり、しまいには、眩きに似た片言と化した。
森や、洞窟や、伽藍の中のいかなるこだまも、音響学の奇蹟とも言うべき、この人工的な音の組み合わせには及ばなかったろう。
アルコット一家が、長年の研究と努力の結果到着した、この幾何学的な図形の不規則性は、各人の胸の特殊な形に由来するものだった。胸の解剖学的構造の如何によって、反響力の大小がちがってくるからである。
行列のうちの何人かが、この父子に近づいて、そこに何ひとつトリックのないことをたしかめた。六つの口は堅く閉ざされたままで、最初に口にされた言葉だけが、あとからきこえてくる音すべてのもとだった。
実験をできるだけ大がかりなものにしようとして、ステファヌは、短い文句をすばやく区切って発音したが、それを六つのこだまが、鸚鵡(おうむ)返しにした。次々に暗誦された、五音綴から成る詩句の一行一行が、互いに邪魔し合うことも、まじりあうこともなく、はっきりときこえてきた。さまざまな笑い声——時には重々しい、時には鋭い、時には甲高い笑い声——は、軽佻で鉄面皮な愚弄を思わせて、すばらしい効果をあげた。苦悶や驚きの叫び、すすり泣き、詠嘆の声、ひびき渡る咳の声、滑稽なくしゃみなどが、同じ正確さで、次々にこだまとなって返ってきた。
言葉から歌に移って、ステファヌは、バリトンの声高らかに、声だめしをした。その声は、ジグザグの線のあちこちの屈曲部で、望み通りに反響したが、つづいて、母音で行なう発声練習、顫音(トリル)、歌のひとふしふたふし、民謡の陽気なさわりなどがきかれた。
最後に、独唱者は大きく息をしたのち、声域を一杯に使い、二つの方向に向かって、完全な和声をきりもなくアルペジオで歌ってみせた。するとこだまがまじりあって、豊かで、持続するポリフォニーを生み出し、非の打ちどころのないコーラスの錯覚を与えた。
突然、ステファヌが、息切れして黙ったため、音の出所がなくなって、まがいの声もひとつ、ひとつ沈黙した。六人の兄弟は、いかにも満足げに平常の姿勢にもどり、大きな溜息をつきながら、ゆったりとくつろいだ。
行列がすぐにまた作られ、南に向かって進みはじめた。

(B)彫刻家のフュクシエが、照明に近づき、手をひらいて、私たちの知るところでは、彼の創造したあらゆる種類のイメージがその中に潜在しているという、表面のすべすべした、青い円形のボンボン状のものをいくつか示した。彼はそのうちの一つをとって、今では動きをやめた織機より少し下流の川の中に投げこんだ。
まもなく、アセチレンの光に照らされた川面に、はっきりと渦巻が生まれ、きわめて明確な一つのシルエットを浮かび上がらせた。それが、メドゥーサの首を持つペルセウスであることは、誰にでも分かった。
ただのボンボンが、予測通りに、突然このような水の動きをひきおこし、芸術的なイメージを描き出したのだった。
幻の出現はしばらく続き、それから水は、少しずつ平たくなり、もとの鏡のようななめらかさを取り戻した。二番目のボンボンは、フュクシエの手で巧みに投げられて、流れに沈んだ。落下によって生まれた同心円が消え去るや否や、新しいイメージが、細かい、無数の渦巻となって浮かび上がった。今度は、すっかり用意の整った食卓の上に立つマンティーリャをつけた数人の踊子が、皿や水差しのあいだで、会食者たちの拍手喝采を浴びつつ、カスタネットでリズムをとりながら、心をうばうようなステップを踏んでいた。水に描かれたデッサンはきわめて手がこんでいて、ところどころ、テーブルクロスの上に、パン屑の影を見分けることができるほどだった。
この陽気な光景が消えると、フュクシエは、さらに実験をつづけ、三番目のボンボンを水に沈めた。その効果は、たちまち現われた。水面が突然さざ波立ち、かなり大きな画面に、泉のそばに坐って、ノートに、何か霊感の成果を書きとめている或る夢想家の姿が浮かんだ。そのうしろでは、湧き出たばかりの水が滴り落ちている岩に凭(もた)れて、擬人化された川に似た、長い髭の一人の老人が、肩越しにそのノートを読もうとするかのように身をかがめていた。
《その天才から生まれたすばらしい詩句を、老ヴァルに盗み読みされる詩人のジアパリュ》とフュクシエが説明した。彼はやがて、静かになった水の中に、もう一つボンボンを投げ入れた。
新たな水の泡立ちは、やがて異様な標識をもつ大きな半円形の時計の文字盤の形をとった。水が浮かび上がらせた《MIDI》という文字が、普通なら三時の場所を占めていた。次いでその下には、四分円の上に、一時から十一時までの区分がつけられ、下端には、《VI》という数字のかわりに、直径にそって、《MINUIT》という、略さずに書かれた文字が読まれた。その左の新たな十一の区分は、九時にかわる、もう一つの《MIDI》まで達していた。ただ一本の針の役割を果たす、三角形の小旗に似た長い古布が、完全な円形の文字盤だったら中央となるはずの場所にむすびついていて、風になびいた形で右にのび、その細い、ぴんと張った先端で、午後五時を示していた。しっかりさしこまれた棒の頂に据えられているこの時計は、数人の人々の散歩している野外の風景を飾っていた。水に描き出されたイメージの正確さと迫真性はおどろくべきものだった。
——《コカーニュの国の風時計》とフュクシエは続けて言い、さらに次のような説明を加えた。
この至福の国では、風はつねに規則正しく吹き、住民に時を教える役目を、自ら進んで引き受けていた。ちょうど正午に激しい西風が吹き、夜半にかけて徐々におさまる。夜半は、まったく風の凪いだ詩的なときである。まもなく、東から来る微風が少しずつ立って、頂点となる次の日の正午まで、吹きつのりつづける。そのとき、突然風向きが急変し、烈風が再び四方からはせつけ、前日と同じ経過をたどる。このような常に変わらぬ風の吹き方にあわせて作られ、その画像が私たちの鑑賞に供されているこの注目すべき時計は、並の日時計などよりよくその役目を果たした。日時計は、日のあるうちしか役に立たず、しかもたえず、雲によって妨げられるからである。
コカーニュの国は、すでに水面から消え去っており、再び滑らかになった川は、フュクシエが投じた最後のボンボンを飲みこんだ。水の表面は、仔細に皺を刻みつつ、指に一羽の鳥をとまらせた一人の半裸の男を描き出した。
——《コンティ公と彼のかけす》とフュクシエが、空になった手を一方で示しながら言った。
波がおさまったとき、行列は、ラオが突然消してしまったために、もはや照明燈の光に照らされることのなくなった闇の中を、エジュルヘと戻った。

長い引用で少し気が引けるけれど、この引用によってレーモン・ルーセルの新しい読者が開拓されるはずなので、二つの挿話を(A)(B)それぞれ丸ごと引用した。ルーセルは一時期絶版状態だったのではないかと思うが、現在は本書の他に、小説の『ロクス・ソルス』(平凡社ライブラリー)と、戯曲を二つ収録した『額の星・無数の太陽』(人文書院)の二冊がちゃんと流通している。日本の出版状況にあって信じがたいことだ。こういう本は、書店で一冊買うことが明確な支持行為になる。被災地への募金やユニセフヘの募金と同じくらいに積極的な行動である、と言っても言いすぎにはならないのではないだろうか。
さて、リアリティの話に戻ると、(A)はすごいリアリティがあるが(B)はそうでもない。
(A)では痩せた胸郭が家長の声を反響させていく仕組みが、こと細かく幾何学的に書かれている。文字は線的な記述なので時系列に展開される出来事を書くのには適していて、読む側も苦労しないのだが、幾何学的・空間的な記述は、文字を目で追うのとは別に、頭の中でいちいち関係を組み立てていかなければならないのでひじょうに負担がかかる。
この箇所では、その幾何学的配置を読者が馬鹿正直に再現しながら読んでいくのが命のようなところがあって、面倒くさいと思うと本当に面倒くさいのだが、しかし、そういう風に馬鹿正直に読んで幾何学的位置関係を再現していくという負担が、この情景のリアリティを作り出していく。
読み進めるのが苦労であることによってリアリティが生まれるということがあるのだ。
それは、人間と世界の関係とか、脳が外界を受容したり理解したりする仕組みで説明がつくのではないか。吊り橋のそれぞれの側から男と女を渡らせて、吊り橋の中間でその男女が出会うと、「吊り橋を渡っている」不安定な気持ちが恋愛の不安定な気持ちに転化して、その二人は恋愛感情を持つ可能性が高い——というような実験を以前テレビで見たことがあるが、リアリティとか恋愛といった内発的で確固としていると思われている感情もまた、それを取り巻くプロセスや環境に依存している。
楽器演奏や絵画がテクニックなしにありえないのと同じように小説もまたテクニックが必要なのだが、そのテクニックは「なよやか」を「たおやか」に直したり、「てにをは」を直したりすることではなくて、情景をいかに提示するかというところに使われてはじめて意味を持つ。
一方(B)では、仕組みが書かれていない。青い円形のボンボンみたいなものを川に投げ込むだけでイメージが出現してしまう。ここでのおもしろさは、ありえないことを出現させる仕組みでなく、そこで展開されるエピソードの方にあるのだが、それではやっぱり弱い。もっともこのボンボンはこのあとも重要な役目を担うことになり、その役目を果たすためには、仕組みが(A)の共鳴のように複雑なものだと手間がかかって仕方ないということにもなるのだが、やっぱり弱い。この小説ではありえない技術や芸がほとんどどれも(A)かそれ以上の言葉数を費して書かれているために、(B)の仕組みの単純さというか仕組みの無さは際立つ。

もっとも、現在の出版状況では(A)のような書き方は歓迎されない。ほとんどの読者にとっては(B)でもじゅうぶんに複雑すぎて、単純極まりない恋愛とか死による別れの話しか求められないわけだけれど、そんな人たちに阿(おもね)って何になるだろう。
だいたい、単純極まりない話を書いている人たちは阿って=ねらってそうしているわけではなくて、意を尽くしてもそういうものしか書けないのだ。イメージというのは逆説的なもので、小さなイメージしか持てない人は小さな達成で満足してしまうけれど、大きなイメージを持っている人は達成しても達成しても満足できない。「少欲知足」。人は欲を少なく持って、ささやかな幸福に満足することを知らなければならない?それはここで言う話ではない。小さなイメージしか持てない人はどれだけお金が入っても、人生において不幸なのだ。
今回、私は小説家になろうとしている人を念頭に置いて書き出して、基本的にはいまもその前提は変わっていないけれど、小説家になろうとしている人もすでに小説家になっている人も、イメージと達成の関係は変わらない。小説家になろうとして、身振りばっかり小説家を真似る人がいるけれど、もちろんそんなことは全然意味がなくて、小説についてすでに小説家になっている人と同じように考えることができている人だけが小説家になれる。

小説家になろうと思っている人がいまこれを読んでいるとして、その人たちの中には、
「小島信夫とかレーモン・ルーセルじゃなくて、村上春樹の小説についてもっと書いてくれなくちゃ意味ないじゃん」
と考えている人がいるかもしれない。
三人の小説のレベルがどうのという話でなく、その考えはいろいろな点から間違っているのだが、その中で一番大事なことは、みんながそういう風に書きたいと思っている人のことを一所懸命真似ても意味がない。戦略としても間違っている。「広き門には人が殺到する」なのだ。聖書の「広き門」「狭き門」の意味は日本では誤解されていて、みんなが殺到するから狭い(入りにくい)門になるという風に思われているのだが、聖書では、「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(「マタイの福音書」日本聖書刊行会)
と書かれている。
「そんなこといいから、早く小島信夫やレーモン・ルーセルである理由を書けよ」
と、いま思った人も間違っている。小説とは「時間との闘い」なのだから、回り道をいくらでも受け入れなければ小説というものはわからない。回り道=補助的な知識なしに伝わるようなものだったら、十代のうちに小説家になれる。
「戦略」の話に戻ると、みんなと同じものを読んで同じように書いていて小説家になれるわけがない。そんなこと誰だってわかるはずなのだがけっこう誰もわかっていない。
それにもしあなたが村上春樹の熱狂的ファンだとしても、村上春樹っぽい小説が本当にあなたの、思考形態、感受性、記憶、経験、身体性に適合した小説だとも限らない。人にはそれぞれしゃべり方のテンポとか、話の切り出し方の癖とか、「誰が−いつ−どこで−何を−どうした」という要素の並べ方の癖があって、そういう、人それぞれの標準的センテンスからのズレは文章を書くときにも反映しないはずがない。だから自分の適性に合った小説を見つけるためにも、いろいろな文章によって書かれたいろいろな小説を読む必要がある。
デビューが早い人はだいたいいい文章を書くものだがそれは標準的センテンスからのズレが小さい、つまり身体性が反映している度合が小さいことを意味しているのではないか。

小説を書くということはいろいろ面倒くさいことで、窮屈な感じを持たずに小説を書いたことのない人はいないだろう。複数の人間が出てきて、その人たちがそれぞれ違う性格を持っていることも面倒くさいし、情景を作り出すことも面倒くさい。私は小説を書きながら次の場面に移る前に、おおよその情景を思い描きながら、しょっちゅう、
「それ全部、おれ一人でやるのかよ」
と思う。映画だったら、部屋の家具の配置などは美術がやってくれるし、カメラの位置はカメラマンが決めてくれるのに……。もっとも監督はその全体を統括しなければならないわけだし、小説より映画の方がだいたいにおいて大変だとは思っているけれど、それでもやっぱり、「映画だったら分担できるからいいよな」と、つい思ってしまうくらい面倒くさい。
文字に書くというのは、書きつつイメージが文字に引っ張られていくことでもあるから、単純に「頭の中にあることを文字に書いていく」という風には言えないけれど、簡略化して、そういう図式を作ったとして、頭の中にある情景を文字だけで表現していくのは本当に面倒くさい。レーモン・ルーセルは胸郭で声を反響させる幾何学的配置を書くのにどれだけ手間がかかったろうと思う。小島信夫が『小銃』の、標準的センテンスと比べようとしたときに、もう、うまいとか下手とか関係ない次元の文章に行き着くために、どれだけいろいろに文章を書いてみただろうと思う。
デビューが早い人にはそういう苦労を知らないと思える文章を書く人が多いのだが、それは、センテンスをひとつひとつ書いていって小説という形あるものにおさめるという行為において、センテンスの規範や小説というイメージからはみ出しているものがもともと少ないということを意味している。
子どもを天衣無縫と見る考えがあるが、それは一部の子どもだけで、そういう子どもはたぶん本なんか読まない。文字を目で追うという作業は“天衣無縫”な子どもにはゆっくりしすぎているし窮屈すぎるだろう。“天衣無縫”ではないふつうの子どもは、規範とか標準型をひな型にしながら、自己の内面を作っていく。だから早い時期に小説を書きはじめる人は、小説を仕上げるための困難がむしろ少ない。
小説というのは、形があるようなないようなもので、「どう書いてもいい」ものでもあるはずなのだが、やっぱりそれぞれの人の中に厳然として打ち破りがたい形がある。それは理性的な根拠というよりも、駅の通路を人ごみにぶつかりながら歩くことを避けて流れに合わせて歩いたり、椅子を見たらすわるか踏み台にするか並べてベッドを作るか……それらいくつかの決まりきった用途しか思いつかないようになっている、人間としての発想の枠組みというか社会性みたいなところからくる“形”の幻想なのではないかと思うが、理性的でないがゆえにかえって打ち破ることが難しい。
小説にはとにかくそういう“形”があって、自分の中にあるものをそれに合わせることに苦労するのだが、その苦労がなければ小説はただの見馴れた小説でしかなく、自分の中にあるものを小説の“形”に合わせるのにとにかく時間がかかる。それが小説を書くということなのだ。

では、その「自分の中にあるもの」とは、自分のことなのか?とりあえず結論だけ先に言っておくと、それは自分のことではない。それは文字に書かれることによって成長するというか広がるというか、そういう風になることを待っている何かのことであって、それはとりもなおさず“切断”の結果なのだ。

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