◆◇◆小説をめぐって(十七)◆◇◆
  
 外にある世界と自分の内にあること、など(後半
「新潮」2005年6月号


「私たち」は科学者のカントレルに案内されるままに、彼の発明を見てまわる。『アフリカの印象』も同じだが、この二つの小説には「私」という語り手がい る。全体は三人称小説のように語られているのだが、「カントレルの後について広場を横切り終えると、私たちは、緑ゆたかな芝地のさなか、ゆるい坂をなす、 黄色い砂を敷いた真直ぐの遊歩道を下っていった」という風に、時おり「私」「私たち」という人称が出てきて、これが一人称による語りであることが思い出さ れる。しかし「私」がどういう人間であるかはまったく語られない。「私」は純粋に語る(報告する)だけだ。
私=保坂はこれから二つ目のエリアで「私たち」が見た発明がどういう風に語られているか書こうと思う。「私たち」は、幅十メートル、長さ四十メートルに及 ぶ長方形の、巨大な、高い、ガラスの檻のようなものの前に来る。

皆は、今は直ぐ眼の前にあるガラスの面に沿い、全員かその方向を向き、間隔を置いて立並んだ。
私たちの眼には、ガラスから一米足らずの隔たりを置いて、地面にじかに建てられた一種の四角い部屋が飛びこんできた。中をよく見ることができるよう、天井 と四壁の一方が省かれていたが、壁は、もしあれば、その外側をこちらに向けて、私たちの前に立ちはだかることになっただろう。その部屋は、監禁の場所とし て用いられている、崩れかけた礼拝堂かなにかのように見えた。さきのとがった一並びの桟を、かなり間をあけて水平に渡したカーブする二本の横材によって固 定してある窓が一つ、私たちの右手に立つ壁の真中にひらいていた。そして大小二つの粗末な寝台が、低いテーブルと腰掛けとともに、細かく砕けた敷石の上に ばらばらに置かれていた。奥には、壁に沿って祭壇の名残りらしきものが立っており、大きな石の聖母像はこわれて下に落ち、幼児イエズスもその腕からもぎ取 られてしまっていたが、ただしこちらは無傷だった。
大きな檻の中を歩き回っているところを私たちが遠くから見かけ、カントレルが手短かに助手の一人だと説明した、男物の外套を着て、毛の縁なし帽をかぶった 人物が、私たちが近づくと、大きく開いた側から礼拝堂の中に入りこんだが、今はまたそこから出て、右の方へ行った。
ごま塩頭の見知らぬ男が、大きい方の寝台に横になって、考えにふけっているように見えた。やがて男は決心したかのように起き上り、祭壇の方へ歩いて行った が、左足は明かに痛む模様で、地につける時は恐る恐るだった。
その時私たちのそばで、喪のヴェールをかぶった女が鳴咽の声をあげた。彼女は、一人の少年の腕をつかみながら、祭壇の方へ片手を絶望的に差しのばして、 「ジェラール、ジェラール……」と叫んだ。
彼女がこう名を呼んだ男は、祭壇の近くまで来ると、幼児イエズスを拾い上げ、腰掛けに腰を下した後、それを膝の上に横たえた。
彼はポケットから、金属製の丸い容器をつまみ出したが、蓋があくと、その中にばら色の香油らしきものが入っているのが見えた。彼は、彫像の幼い顔に、それ をうすく塗りはじめた。
それを眺めていた黒いヴェールの女は、直ぐに、この奇妙な化粧のことをさしているかのように、少年に向って「お前のためだったんだよ……お前を助けるため だったんだよ」
と言い、こちらは泣きながら肯くのだった。
たえず聞き耳を立て、不意を襲われるのをひどく怖れているように見えるジェラールは、手っとり早く仕事を済ませ、まもなく石像の顔も、首も、両耳も、香油 でばら色に染めた。
左手の壁に沿って置かれた小さな寝台に像を寝かせると、彼は、一寸の間しげしげとそれを見つめ、それから蓋を閉めた香油の容器を再びポケットに入れ、窓の 方へ向った。(岡谷公二訳)

案内されたガラスの檻の中に、崩れかけた礼拝堂のような場所があって、そこにごま塩頭のジェラールという男が監禁されているということらしい。
「私たち」の横に、喪のヴェールを被った女がいて、ジェラールを見て鳴咽した。女は少年と一緒にいる。
ガラスで距てられているだけなのに、中にいるジェラールは「私たち」のことなどまったく眼中になくて、「たえず聞き耳を立て、不意を襲われるのをひどく怖 れている」様子で、幼児イエズスの像に香油を塗っている。
窓から外の様子をうかがうと、ジェラールは次に、隅のゴミの山から梨の食べかすを選び出して、種と果柄から繊維を引き離し、それを根気よく裂いて、沢山の 細い糸を作り、それをつなぎ合わせて長くして、全体が凸形をした赤ん坊の縁なし帽を編み、幼児イエズスの像に被せた。そうすると像は本物の赤ん坊に見え た。
次にジェラールはブレスレットについている金貨を窓の桟の尖端にこすりつけて、相当量の金粉を集め、テーブルの上に置いてあった『冥界辞典』の前にすわ り、ボール紙の表紙だけを左にめくった。すると右側の、白いページがあらわれた。
そのページにジェラールは、花のついていないバラの茎をペンのように持って、棘のついている一端を水差しの水につけて、何かを書きはじめた。数行書くと茎 を置いて、さっき作った金粉をそこに散らしてゆく。そうすると金の文字が出来た。書かれていたのは十二音綴六行の詩節で、ページが埋まるとジェラールは裏 表紙をめくった左側のページにも同じ作業をつづけて、オードの最後を書くと署名した。
それが終わるとジェラールはひたすら物思いに耽っていたが、やがて『始新世』という本を開いて、そこに書かれた項目を一つ一つ数えていき、数え終わると、 オードを書いた金粉を作ったブレスレットの金貨の小さな残りでもう一度金粉を作って、『始新世』の最後のページの中央上段に「独房の日日」と書いて、左段 の上に「貸方」、右段の下に「借方」と書いて、左段の、実際に印刷されている冒頭の言葉を線で消した。そこは索引のページで、ジェラールはいま消した言葉 のあとに記されていた数字に指をあてると、そのページをめくっていった。

――と、こういう光景を「私たち」は見る。
私はだいたい四分の一くらいの長さに縮めて書いたのだが、これ以上に縮めることはできない。もっとも、私はあらすじとか要旨とかを書くのが下手で、高校の ときの国語の試験で「要旨を書け」という問題が出て、元の文章より長くなってしまって書き終わらないうちに時間がきてしまったくらいだから、私より手際よ く書ける人はいくらでもいるかもしれないが、そうするとルーセルの律義で厳密な――文学的というより科学的な――書き方が伝わらないのではないか。
ルーセルの小説は全体としてひとつの意味を醸し出すような書き方ではなくて、書かれている事物のひとつひとつを押さえていくことを読者に要求する書き方 だ。
小説というのはふつう、全体としての意味が背後にあって、それが読者全員に共有されるようになっている、つまり著書によってあらかじめ加工された世界が読 者に受け渡しされるようになっているのだが、ルーセルの場合には作中の「私」「私たち」の視線がそのまま読者の視線となっている。だから読者は、「私」に よって加工された光景を読むのではなくて、「私」と同じ立場で光景に立ち合わなければならない。

さて、ところで、ジェラールがいったいどんな人間で何をしているのか?ということは、この時点では何も説明されない。何も説明されないまま、「私たち」は 科学者カントレルに案内されるまま、八人の男たちを見て回る。
それぞれが奇妙なことを、一心不乱にというか、完全に自分の世界に没入した状態でやっているのだが、ジェラールの場面も含めて、この八人の光景を読んでい くのははっきり言って辛い。全体像が与えられていなくて、ただひたすら細部が精密に描かれている光景は、その精密さを追うという作業によってなおさら辛く なってゆくのだが、すでに一つ目のエリアを読んでその面白さを知っている読者は、この光景の謎が明かされる期待があるから読み進めていくことができる。そ うして八人の光景をひととおり見終わったところで、いよいよカントレルによる説明が行なわれる。
この八人は全員、死者たち、というか死体!だったのだ。
カントレルの発明によって、「死体に働きかけて、生前とそっくりの錯覚」を与えることができ、一時的に生き返った死体は、「記憶の奇妙なよみがえりの結 果、たちまちその人生にあって忘れ難い瞬間に自分のした動作を、どんな些紬なものまでも、そっくりそのまま再現してみせるのだった」。
この発明が知れると、多くの死者の身内から手紙が届き、それに応えるためにカントレルは「死体を腐敗から守る一方、その組織を硬化させる怖れのない冷気を 常時作り出すための、電動の冷凍装置を据えつけた」。
この小説が出版されたのは一九一四年だ。エジソンによって電燈や電話は発明されていた頃だろうが、電気冷蔵庫はまだ発明されていなかっただろう。死体を生 き返らせる装置を考えつく人間が冷凍保存の装置を考えるくらいわけないと思うかもしれないが、小説というものには文脈による発想の縛りのような作用があっ て、例えば「死体の生き返り」ということに考えが向かってしまうと、その途中の「死体の保存」については案外抜け落ちてしまうものだ。
『鉄腕アトム』を見てみるとよくわかるが、都市の建物をいかにも未来にしていながら子どもは学生服を着ていたりする。テレビ電話で自在に会話しているの に、ある場面では車のトランクに潜んで追跡していったウランがアトムたちに連絡を取る方法がない。つまり携帯電話なり超小型通信機なりが発明されていな い。――そういうむらがルーセルにはない。この厳密さは驚くべきことだと思う。
そういうわけで、巨大な冷凍庫の中で死体が動きはじめる。

先生の許可を得て、この巨大な冷凍庫の中に運びこまれた死者はすべて、脳にレジュレクティーヌの注射を受けた。その物質の注入は、右耳の上にあけられた小 さな口から行われたが、その口からは、そのあと、ヴィタリウムの細いプラグも差しこまれた。
レジュレクティーヌとヴィタリウムとが一たび接触するや、被験者は動きはじめた。その間、かたわらでは、彼の人生の証人が、十分に厚着をして、仕草なり、 言葉なりから、再現された場面――いくつかの別々の挿話が集って構成されていることが多かった――を識別しようと努めた。
このような調査段階の間は、カントレルと助手たちは、よみがえった死体を囲んでごく近くに立ち、時には必要な助け舟を出すため、その一挙手一投足を見守っ ていた。実際、その生前の、なにか重い荷物――その場に無い――を持ちあげるためにした筋肉の努力を再現しようとすれば、バランスを失うことになり、咄嗟 に世話を焼かないと、当人が転倒しかねなかった。その上、前に平たい地面しかないのに、両脚が想像の階段を上がり下りしはじめた場合には、体が前や後に倒 れるのを防ぐ必要もあった。また、両手を急いでのばして、被験者がやって来て凭れようとする存在しない壁の代わりをつとめたり、空中に坐ろうとする彼を、 両腕で抱えてやらねばならぬ場合もあった。
場面の識別が済むと、カントレルは、入念に資料を集め、ガラスの広間の一部に、できるだけ本物を使って、必要な背景を忠実に再現した。言葉を聞く必要があ る場合には、ガラス壁の適当な場所に、円形の薄い紙を糊で貼りつけただけの、ごく小さな丸窓を設けさせた。
死体は、役割にふさわしい服装をさせられ、一人きりにされたけれども、家具や、身を支える場所や、さまざまな抵抗物や、持ち上げる品物がその場にあるの で、倒れることも、見当違いの動作をすることもなかった。ひとわたり所作を終えると、彼は出発点に立戻り、こうして同じ所作を、なに一つ変えずに無限に繰 り返した。不良導体の小さな環の部分をつかんで、ヴィタリウムのプラグを抜き去ってしまうと、彼は死の不動にかえったが、それをまた、髪の毛にかくされて いる穴から頭蓋の中に差しこめば、いつでも、最初からその役割を再び演じはじめるのだった。
場面の上で必要とあれば、カントレルは、なんらかの役割を演じさせるため、金を払ってエキストラを雇った。その役柄のためにつけねばならない衣裳の下に、 厚い毛糸のセーターを着こみ、部厚いかつらで頭を保護しさえすれば、彼らはこの冷凍庫の中にいることができた。(同前)

私はさっきルーセルの小説を「全体としてひとつの意味を醸し出すような書き方ではなくて……」と書いた。それには小説としてのいわゆる叙情性がないという 意味も含めていたつもりだが、死者がこのように蘇る光景には文学的叙情をこえた強い感情が生まれないだろうか?八年以上も前に死んだ猫の死をいまだにきち んと受け止めることができていない人間である私は、こういう場面に心を揺さぶられてしまう。
文学とはふつう、死者を悼み、死者を回想するものだろうけれど、「彼女がいたあの夏は私の人生の中で、うんぬんかんぬん……」というような文章に私は、風 呂場の中でエコーの効いた鼻歌に自分で酔い痴れている類のいい気な姿しか感じることができない。自分の外にある現実と自分の中で起こっている何かをつなげ るという作業を、そんなに簡単に、既存の流儀でやっていたら、文学は形骸化して滅びるし、人間の内面だって滅んでしまう。
ミシェル・レリスがジャコメッティについての文章の中でこう書いている。

外界が呈示する未知なるものの巨大な全体を探ることと、人が心のうちに抱く夢幻の世界のきれぎれに形を与えることというこの二つの欲求――それについては 疑いえない――こそは、その名に価するすべての画家、或いは彫刻家のものである。実際絵画と彫刻は、それらが形象化と無縁でないかぎり、以下のような先決 すべき問題を課する。即ち、その構造自体によってゆるぎない現実であると同時に、想起された、或いは考案されたモティーフの忠実な転写でもあり、主観性 の、本来とらえどころのない一瞬の表現でもあるイメージ乃至物体を、どのように組み立てるか、という問題である。讃嘆すべきは、ジャコメッティが、多くの 人々にあって暗黙のものであるこの問題を、公然とみずからに課したことであり、単純だが容赦のないその与件をそっくり引き受けたことであり、ごまかそうな どとは決してせず、きわめて執拗に活動を続け、ほどかなければならないときに結び目を一刀両断してしまうような、ゴーディアン・ノット的なまやかしの解決 を頑固に避けてきたことである。(『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』岡谷公二編訳 人文書院)

ここで、絵画と彫刻について書かれていることは文学にもあてはまらないはずがない。文学はよく出来た完成品を提示する以前に、世界と自分をいかにつなぐか という困難な問題へのアプローチを提示するものであって、「出来の良し悪し」とか「完成の度合い」だけが問題にされるとしたら、読者が作品に対して受け身 ――つまり、ただ享受するだけ――だということを意味している。
さて、『ロクス・ソルス』では、このように死体の生き返り(というよりも「生き直し」か?)の技術的な説明がされたあとで、八人の死体の「人生にあって忘 れ難い時間」がどういうものであったのかということがそれぞれ叙述されてゆく。それが最初に説明なしに描写された情景の三倍くらいの分量になるのだが、死 体が生きたその時間の意味が知らされることによって、ただ投げ出されていたために、記憶の中では断片としてしか残っていないような情景に生命が吹き込まれ るような感動が湧いてくる。
ジェラールとはどういう人間で、繰り返し生きられる「人生にあって忘れ難い時間」とはどういうものだったのか。

喪のヴェールを被った女はジェラールの未亡人で、彼女が連れていた少年は息子だ。
ジェラールは人生の最後の十五年間を、さまざまな国の地方色をあらわした詩を書いて、パリで成功した詩人だった。彼は詩の性格上、たえず旅をしていなけれ ばならず、別居をしなくてもいいように、彼同様ヨーロッパの主な言語に堪能な妻クロチルドと息子のフロランを連れて、世界中をまわっていた。
ある日、カラブリアというイタリア南端の地方の山脈の人跡まれな隘路を馬車で移動していたとき、山賊の襲撃を受け、左腕を短刀で刺されて、当時二歳の息子 フロランと捕えられてしまう。
山賊は妻のクロチルドに、決めた日までに五万フラン持ってこなければ二人を殺すと言い、妻のクロチルドが財産を自由に処分できるようにジェラールに委任状 を書かせた。つまり山賊は、ジェラールのことを趣味で旅行している金持ちの閑人と間違ったわけだった。しかし、妻に用意できる金は一万フランが限度だっ た。
見捨てられた古い砦に付属する旧礼拝堂に息子フロランと一緒に閉じ込められたジェラールは、自分が助かる見込みがないことを知る。しかしジェラールは、熟 考の末、少くとも息子の命だけは救える手段を発見した。牢番の男に妻が集めてくるだろう数千フランをやると約束して、牢番とその愛人の助けを借りて息子を 連れ出させることにしたのだ。
山賊の首領グロッコはたびたび礼拝堂の前を通って、窓からジェラールの様子をうかがっていて、さらに、人質が脱出のために外部と連絡など取れないように、 ペンの所持を禁じていた。ジェラールと約束をした牢番は首領の目を盗んでジェラールにペンを渡して、息子フロランを連れ出す愛人にクロチルドが持ってきた 身代金を全額渡すよう指示する手紙を書かせた。
こうして、翌日の夜明け前に牢番の愛人は、手紙と息子をマントに隠して出発した。クロチルドと出会う場所が遠ければ遠いほど、この土地の険しい地形では追 跡が困難になる。
ところがその日、首領グロッコは身代金を稼ぐのにもってこいの金持ち旅行者が通る知らせを受けて、いつもの牢番を一緒に連れていってしまった。
新しい牢番がつけられた。息子フロランがいないことが発覚したら、まだ山賊たちの追手に追いつかれてしまう。しかし幸い、最初の食事を持ってきたときに は、片隅の薄暗い寝台に息子は眠っていると思って、牢番は去っていった。
しかし二度目には牢番は疑いを持つだろう。ジェラールが牢番を欺く方策を考えていると、礼拝堂の祭壇の残骸の中に、幼児イエズスの像が聖母マリアの腕から もぎ離されて無傷のまま横たわっているのが見つかった。ジェラールはこれを息子の替え玉に仕立てようと考えた。
ジェラールは襲撃されたときに左腕に傷を負い、その痛みをやわらげるために、肌色の軟膏をもらってあった。イエズス像の顔にそれを塗り、あとは石の髪を隠 せればいい。それには白い小さな縁なし帽だけが自然に思われた。礼拝堂にはたった一つの窓から光が入っていた。窓には頑丈な桟がはめられていたが、そこか ら外を見ると、下にさまざまなゴミ、削り屑、バン屑、野菜や果物の芯や剥いた皮が積み上げられていた。その中に何かないか?
ジェラールはゴミの山の頂きにたくさんの梨の皮を見つけ、前日、山賊の一人が、クラサン梨が山盛り入った籠を農夫の荷馬車から盗み、一味全員で食べたこと を思い出した。彼は、夜食にその梨を一つくれた前の牢番から、この話を聞いていた。
――ルーセルは、入れ子細工の箱を次々に開けていっても、ひとつとして手を抜いたところがないように、こういう事情をいちいちきちんと書いていくのだが考 えてもみてほしい。この話は元々何の話だったのか?元々のそのまた元々は、科学者カントレルの発明だったではないか。ルーセルの叙述には、構造はあるのだ が構造に見合った軽重がない。話の幹も枝葉も同じ密度で語られてゆき、読者はいったい何の話を読んでいたのか?自分がどうしてこんなエピソードを読んでい るのか?わからなくなることがよくある。梨の皮が山と積まれたその理由を取り囲んでいるのはジェラールが企てた脱出劇だ。では何故、そんな脱出劇が語られ なければならないのか?つづきに戻ろう。まだ私が要約しているジェラールの「人生にあって忘れ難い時間」は、全体の三分の一にも届いていない。もっとも、 私の要約も細部に捕われすぎていて、ほとんど短縮できていないのだが。

ジェラールは桟の隙間から腕を出して、果柄の続きの白い繊維を切り離して太い粗末な紐を集めて、それを入念に裂いて沢山の細い糸を作った。馴れない作業 だったが根をつめて、縁なし帽らしきものが出来上がり、それを被せて首まで布団をかけて壁に向かせると、イエズスの石像は赤ん坊そっくりに見えた。彼はそ の作業でできた残り屑を、元のゴミの山に戻すことを忘れなかった。
新しい牢番が昼食を持ってきたとき、息子は朝から具合が悪くて眠っているので静かにしてくれと頼むと、牢番は簡単にだまされ、夕食の際にもバレなかった。 夜には新しい人質たちが連れてこられて監禁される音が聞こえた。
翌日は元の牢番に替わり、ジェラールはイエズス像のことを彼に話し、牢番の愛人は五日たって戻ってきた。妻のクロチルドは彼女に身代金と、ジェラールにあ てた手紙を渡した。
ある朝、牢番は富裕な女の旅客についての情報蒐集を首領に託される。丸二日かかるこの仕事こそ愛人との逃亡のチャンスと考え、ジェラールは感謝とともに牢 番に別れを言った。そして再びやってきたもう一人の牢番の目を一日目は欺けたが二日目に発覚し、ジェラールを取調べた首領は牢番とその愛人が加担していた ことを見抜いたが、二人を追うのはすでに不可能だった。

息子を逃がし身代金もこなくなったのでジェラールの死は避けられなくなった。ジェラールは物を書く手段を探した。
あの悲劇の日、村を出た馬車が、摘みたての花々を握った手をあらそって差し出す貧しい子供たちとともに坂を上っていったとき、ジェラールは妻のために花を 買った。彼女は、すぐにバラを一本抜いて、彼の襟に差して喜んだ。彼はもはや再会できる望みのない女性の愛の形見として、それを大事に取っておいた。
ジェラールはそのバラのトゲを一つだけ残して茎でペンを作った。彼は荷物の中の数冊の本の使用を願い出、その中の一冊、大部の古い辞書の最初と最後につい ている白紙の裏表四ページに、大作の詩を書くことにした。
トゲを刺して血を出せばインク代わりになるが、うっかり服に血がついたら計画が見抜かれる。それで、たとえば金属のような長持ちのする物質を粉にして、水 で書いた文字の上に振りかければ、乾いたあとも消えないのではないかと考えた。ジェラールは装身具も貨幣も取られていたが、一枚の古い金貨だけが気づかれ ずに残っていた。それには感動的な由来があった。
妻のクロチルドがまだ子供だったときの一夏、城の廃墟の近くでよく遊び、ある日彼女は土の中から一枚の金貨を掘り出した。調べてもらうと十六世紀のフィ リップ六世の金貨で、自分が婚約指輸を受けとったときには、相手の手首にブレスレットにしたその金貨を巻いてもらおうと考え、それをジェラールに贈ったの だった。山賊たちが彼を捕えて身体検査をしたとき、金貨は袖に隠れていたために気づかれず残った。それを彼は窓の桟で削って、金粉を作ることにした。
愛する二人にとって貴重な金貨は台無しになってしまうけれど、それが詩人の白鳥の歌に使われ、それと一体化するなら、未亡人となったクロチルドの眼に、金 貨の特別な価値はさらに増すだろう。クロチルドは必ずや彼の遺品を山賊から買い戻し、それらをひとつひとつ入念に調べるに違いなかった。
――ここまで要約というにはあまりに書き写しにちかい要約を書いてきたのだが、以下の部分は私にはほとんど一語も省略することができない。私は自分の要約 の能力のなさをよく知っているけれど、この小説では要約や省略がまったく不可能なのではないか?筋としてだけ書いたら面白さはたぶん全然伝わらない。結 局、以下は訳文をそのまま引用することにした。

高価で、その数ページの余白を利用するだけでは勿体ないこの本の値打ちを損わないようにするため、彼は、本文と密接に結びついた詩を作ろうと考えた。本に 無関係な詩を書けば、全体を台無しにしてしまうだろうが、主題が共通ならば、かえって引立てることになるはずだった。それに、内容の親近は、問題の二枚の 白紙を破って切り離さないための保証の役割を果し、かりそめの文字に、装幀の永遠の保護をもたらして、手書きの詩に永代まで残る機会を与えることにもなろ う。その上、詩人はこうすれば、自分の作品に花を添えることにもなる。Erebi Glossarium a Ludovico Toljanoと題されたこの本は、受刑者の最後の嘆きに素材を与え、それを流露させるのにうってつけだったからである。
神話学についての深い、特殊な研究に一生をささげた後、十六世紀の著名な碩学ルイ・トロジャンは、三十年にわたるその刻苦勉励のあいだにたえず集めた資料 を、Olympi Glossarium(『オリュンポス辞典』)と、Erebi Glossarium (『冥界辞典』)という二冊の注目すべき辞書にはっきりと分けて集めた。
そこでは、オリュンポスとエレボスという二つの超自然界に関する神々、動物、場所、物がアルファベット順に分類され、それぞれの名前のあとには、適切な文 献、挿話、引用、細目を盛沢山に詰めこんだ解説文がついている。
一方ではオリュンポスについて、他方ではエレボスについて無関係な言葉は、一切項目から除外されている。
ラテン語で印刷され、今日でもなお貴重な文献とみなされているこの二冊の著作は、稀覯(きこう)本で、もはや若干の有名な公共図書館にしか残っていない。 しかし父祖代々作家だったローウェリィ家(ジェラールの姓)では、昔から第二巻の方が一部伝えられてきた。汚れも傷みもない一本で、ジェラールは毎日ひも といては感嘆したものだった。ここでは、エレボスという語は、もっとも広い意味に解され、冥府全体を指すものとして用いられている。
ところで、いまわのきわに最後の叫びをあげるに当って、死者たちの唯一の居場所が素材となっているこの泉を措いて、他に水を汲むべき場所があろうか?
ジェラールは、オードの計画を練った。その詩の中では、異教徒となって、死後の生を与えられた彼の魂は、エレボスにやってきて、さまざまな幻を見るのだっ た。ただしこれらの幻がすべて、望み通り一つに融け合うためには、本のどこかのくだりから着想を得たものでなければならなかった。
創作するに際し、彼は、きちんと規則正しく仕事をするのは嫌いで、仕上るまで、寝食を忘れて一気呵成にやってしまうのが常だった。そのあとでは、怖ろしい 虚脱感に襲われて、長いこと、なにか創り出そうとする気などいささかも起きなかった。確実無比の記憶力の持主だったので、ペンを取る前に、心の中ですべて を仕上げた。
ジェラールは、一刻も休まず、六十時間ぶっつづけに、己れに課した規則に従ってオードを作り、夜が明けそめる頃に完成した。
それから、金貨を鉄の桟のとがった尖端で長いことこすり、一定量の金粉を、注意深く集めた。
次いで、水差しの水の中に浸したトゲで以て、定められた余白にオードを書きはじめ、一詩節終わるごとに、まだ乾かぬすべての文字の上に金粉をまき散らし た。
ジェラールが、辞書の本当の第一ページを下まで少しずつ文字で埋めつくし、乾いたあとで、水にくっつかなかった金粉を、物惜しみして、二度たくみに滑らせ て回収するや、金色の詩が、はっきりと姿をあらわした。
巻頭の白紙の裏ページと、巻末の二ページとを同じようにして埋めると、詩人はオードを仕上げ、署名を入れた。
(原文一行アキ)
再び襲いかかってきたつらい思いを、なにか他の没頭できる仕事で忘れたいと願うジェラールは、こんな途方もない努力をした後では、創作方面の仕事はすべて 当分できなくなっていたので、単調な記憶作業で我慢することに決めた。
冥界辞典には、記憶するには恰好の、多くの感動的な物語が記されていたが、それらは、ジェラールの酷使された頭脳には危険だった。彼は、怖ろしい創作熱に 駆られたあとではいつも、想像力にみちた本にふれるのを一切自分に禁じるほどだったのである。
むしろ、素気ない、科学的な文章が読みたくなって、彼は、手持ちの著作の中から『始新世』という本を選び出した。これは、表題の示す通り、地質学上の或る 一時期だけを扱った研究書だった。彼は詩人として、地球の過去の深みへと心を運び去って、めくるめく酔い心地を味わせてくれる一連の着色図版のために、こ の著作をよく好んでひもといたものであった。彼は、図版は見ないようにして、その中の光彩を欠く段落を覚えれば、死の強迫観念から逃れるための危険のない 気晴らしになるだろうと考えた。
しかしジェラールは、このような難儀な仕事をやりおおせるには、最後の日まで、容赦のない日日の労苦に無理矢理自分をしばりつけておくための、一定のきび しい規則が必要だと感じた。
巻末には二段組みで、扱われている主題――動物、植物、鉱物――をこまかい項目にしてアルファベット順に並べ、各項目のあとに、それについて触れている ページ数を記した索引が長々と続いていた。
死ぬと決まった日まで、今から数えて五十日あるので、ジェラールは、引用されている語の数がちょうど同数の索引のページがないかどうか探した。そして希望 を満たしてくれた第十五ページの上に、例の手慣れた方法で、「独房の日日」と書いた。独房という語は、彼が受けた監禁のきびしさからして、正当なものだっ た。
表題として、「貸方」と「借方」という二つの新しい語が、一方は第一段の上に正しい方向に、他方は、第二段の下に方向を逆にして書き込まれた。今後禁固最 後の五十日をあらわすことになる五十の項目を、ページの冒頭から毎日一つずつ、とげと水と金粉をいつも使って消してゆくならば、ジェラールは、終わった日 数から成る貸方が増えると同時に、残っている日数に相当する借方が減るのを、見て取ることができるわけだった。
彼は、一つ抹消するごとに、索引が指定しているページの中の、消した項目を扱っている部分をすべて、起床から就床までのあいだに暗記するという仕事を自分 に課すことにした。
かくして、必要なきびしい義務を、明瞭な形で掌中にした彼は、即座に始め、迷うことなく行動方針に従い、味気ない記憶作業の中に、望み通りの忘却を見出す ことができた。
運命の日の三週間前、彼は、狂喜して身代金を野営地に持ってきたクロチルドを腕に抱いて、夢を見ているのではないかと思った。かつて修道院で彼女ときわめ て親しかった、庶民の出のエヴリーヌ・ブレジェという女が、その美貌のおかげで、すばらしい結婚をしていた。クロチルドは、彼女の運命の変化を知らず、そ の姿を見失ってしまっていたが、エヴリーヌの方は、雑誌をめくっていて、ジェラールとその妻――その旧姓が記されていた――の略歴を付した馬車襲撃事件の 詳細を読んだ。旧友の苦境に心動かされた彼女は、気前よく、要求されている身代金の金額を送ってよこしたのである。
直ちに釈放された詩人は、気前のいいところをみせたグロッコから、捕囚の悲痛な日日の思い出として、奇妙な縁なし帽をかぶった幼児キリストの石像と、金文 字で飾られた二冊の本と、トゲが一つだけついている茎とを持ち去る許しを得た。金貨の方は、相変わらず気づかれず、彼はそれを元通り手首にさげた。
(原文一行アキ)
ところで、死んだジェラール・ローウェリィが、レジュレクティーヌとヴィタリウムの影響の下に再び生きて演じているのは、その生涯において忘れ難い、この 監禁事件のあいだの主な挿話だった。
必要な舞台装置が冷凍室の中に作られたが、それは、腎臓疾患がもとで死ぬ日まで、詩人が大事に保存していた思い出の小道具類によって、完全なものとなっ た。崩れた祭壇も、腕のポーズがそっくりそのままの、壊れて横たわるマリア像も、忘れずに配置された。
故人に行動の自由を与えるため、幼児キリストから、長い間塗られたままになっていた軟膏を拭き取り、縁なし帽をぬがせ、二冊の本から金文字を消さねばなら なかった。
それ以来、死体は、涙に暮れているクロチルドの前で、時々生き返った。すでに青年となったフロランは、母の側らで、束の間ながら悲しむ二人の心をなごませ る、この蘇生の光景に立会った。
一通り場面が終われば、万像の頭からはばら色の塗り薬と被り物とが、二冊の本からは金文字の詩が、もう一度取り去られるのだった。(岡谷公二訳)

ジェラールのエピソードはここで終わる。
前半では脱出劇だった話が、後半になると死を覚悟した詩人の最後の詩作の日々とでも言うものに変わっていて、自分がどうしてこういう話を読んでいるのか、 不意にわからなくなる。そこから救い出してくれるのは、入れ子になっているこの小説の構造という意識よりも、前に巨大なガラスの檻の中の情景として説明な しに書かれていたために何のことだかさっぱりわからなかった物や事との符合というか、その情景が解き明かされていく快感のようなものではないかと思う。 ――だから後半部分を漫然と読んでしまった人は、ぜひもう一度、二五七ページ三行目からの情景と照らし合わせるなどしながら読んでほしい。この小説を読む にはかなりな注意力やイメージの構築力が必要なのだ。
入れ子の構造を作ることは簡単だけれど、その構造を使って小説の流れというか、小説を読む時間そのものに活力を吹き込むのはただごとではない。入れ子状の 小説とかメタフィクションとか、形式が前面に出ている小説を指して、その形式の面白さばかりを言う人がいるけれど、形式はただ形式として面白いわけではな くて、この小説のように、一時的に形式を忘れさせるほど中身が面白くて、その中身が形式によって居場所を与えられて精彩を放つという、中身と形式が強固な 連関を持つ小説があるから、形式というものが機能を果しうる。
低次元の話をすると、世間には小説の形式などまるっきり関心がなくて、ただただ中身だけを読む人がいる。そういう読み方のときに使っている頭と形式に着目 する読み方のときに使う頭とは別だから、ちょっと違った形式の小説を読むとその違う部分の頭が刺激されているのが感じられて、形式のことばかり言いたい人 が出てくるのだが、その人の次元が低いという意味では中身だけを読む人と変わるところがない。小説では中身と無縁の形式はないのだから、大ざっぱな言い方 をしてしまえば、中身も形式も、すべてが中身の面白さになる。それゆえ小説がどれだけ特殊な形式をしていても、形式のことばかり言うよりは中身を言う方が 読者のレベルとしてマシということになる。

ボルヘスはひとつひとつが独立している短篇を書いたけれど、この『ロクス・ソルス』のように、全体を束ねる構造があれば、ボルヘスのような話をいくつも くっつけた長篇にすることができる。もっとも、無理して長篇を書く必要はないけれど。
すでにデビューしているけれどなかなか状況が思うに任せない人たちにもうひとつだけ。
その時期の、一定の読者を持たない小説には、書き手のよるべなさみたいなものが独特の緊張感として小説の基底音として鳴っていると感じられることがある。
それはよるべなさだけが得ることのできる大きな報酬で、その時期を過ぎて、結果として一定の読者を持ってしまうと――そうしなければ小説家としてつづけら れないのだが――、読んでいるときに、たとえ一瞬であっても書き手の頭を読者の姿がよぎるのが感じられるというか、小説を書く手つきあるいは呼吸法が一定 してしまうというか、成功から学んでしまった匂いがするというか……とにかくそういうところが必ず小説に出てしまうもので、そうならなければ書けない小説 や書けない緊張感があるにしても、やっぱり書き手自身の状況が小説に投影される緊張感とは別のもので、それが書けるのは小説家として一定の読者を持たな い、よるべない時期しかない。
それを感じるのは読む側の仕事であって、『灯台へ』や『アフリカの印象』が時機を得ないと読めなかったように、――評論するのでも批評するのでもなく―― 純粋にただ読むことは、書くのと同等の難しさを持っていることなのだと思う。

もどる