◆◇◆小説をめぐって(20)◆◇◆
  
 小説を離れてリアルなこと(前半)
「新潮」2005年9月号

六月末にこの連載の第一期をまとめた『小説の自由』が出版されて、その宣伝のための取材を数本受けたりして、取材を受けるというのはしゃべることだから、 どうも気持ちが書く態勢にならない。
私は単行本を出すペースが基本的に年に一冊で、今回は特に二〇〇三年末の『書きあぐねている人のための小説入門』以来になったので宣伝には力を入れた。と いうことは取材を極力たくさん受けることにした。本というのは最低限のセールスを確保していないと、新刊を出しても書店で平積みされなくなってしまうし、 もっとひどい場合には本そのものを出してくれる出版社がなくなってしまう。
出版というのは、くわしいことはわからないが、本の内容やジャンルやイメージによってA、B、C……という配本パターンに分けられて、それによって東京と その周辺の大型書店だけに配本されるものから地方の小さい書店に置かれるものにまで分けられることになるのだが、全体がグロスで配本されてグロスで返本さ れるという前近代的なドンブリ勘定は変えることができない。いや、出版がいまのような配本形態をとるようになったのは第二次大戦後のことだから、それこそ が「近代的システム」なのだが、そんな冗談や皮肉はともかく、日替わりで棚を入れ替えているコンビニエンスストアなんかと比べて、出版の融通の利かなさは 外部の人間から見たら信じがたい(私も半分は「外部の人間」だ)。
町の本屋で本を注文すると、届くまでにだいたい十日から二週間かかると言われる。しかし、同じ町にある同じくらい小さいサイズの日用雑貨の店で店頭にない 浴槽用のスポンジを注文すると、
「二、三日かかりますが、よろしいでしょうか?」
という返事が返ってくる。
先日は幅一八○センチの特大のスダレを注文したのだが、返事は、
「問屋に在庫があれば、明日入ります。」
だった! 結局、問屋に在庫がなくて翌日には入らなかったが、月曜に注文して金曜日には届いた。
スポンジと一八○センチの特大スダレをどういうシステムで運んでいるのか私には見当がつかない。本ではちょっとでも形とサイズが違うものは書店に敬遠され ると言われているが、一方ではスポンジとスダレを同じ店内で扱っている業種がある。
ここで、前回書いたチンパンジーの言語習得の実験と鉄のパイプを組んだビルみたいな空間を軽々と飛びまわるチンパンジーの運動能力の話を思い出してほし い。能力というのはただ言語によって論理的な思考をすることだけでなく、世界と関係するあり方全体のことなのだ。チンパンジーは人間の言語を習得すること ができるから優れていると考えても全然意味がなくて、あの運動能力の全体がチンパンジーなのだ。日用雑貨屋の雑然とした店内と比べて、本屋の店内がいかに 貧弱で整然としていることか。
雑貨屋ではクギやネジや針ガネがそれぞれ十種類ずつぐらいあって、それがスチール棚の脇につけられたパネルみたいなものからL型に出ているフックにいちい ちサイズごとに分けて下げられている。足許にはホースが巻かれていて、その上にはホースの口につないで水の噴き出す形が調整できるノズルが置いてある。そ の上の棚には金鑓、釘抜き、ノコギリ、ペンチなどの工具類が置かれていて、棚の一番上の天井との隙間にはポリバケツが積まれている。反対側にはトイレット ペーバーとティシュペーパーと洗剤があり、洗濯ネットが数種類あり、もう少し奥に行くと、いろいろ形の違うフライパンがぶら下げられていて、棚にはナベが あり、箸や急須があり、三角コーナーでゴミを受け止めて水を切るネットがあり、シャモジがあり、シャッシャッシャッと泡を立てるときに使う何というのか名 前は知らないがΩこういう形をした針ガネを三本か四本放射状というのか束ねたのがあり、……。
これらはもう本当にどれもこれも形も大きさも全然違っている。こういう物を店内に置くということは、「整理する」というよりも「空間を作る」という感じに 近いのだろうと思う。本という整然とした物ばかりを扱っていたために、出版・書店関係者はチンパンジーからつづいてきた空間との関わりが基盤となっている 人間の全体の能力を退化させてしまったのではないか。
私はいま日用雑貨がいっぱいに置かれた店の中を思い出してそれを書きながら、この連載を書いてきてはじめて小説を書いているときと同じ頭の使い方をしてい ることに気がついた。いままで二回か三回「小説を書いているときと同じ頭の使い方をした」と書いた憶えがあるけれど、これほど同じではなかった。つまり空 間の描写ということなのだが、いざ書いてみると空間を再現しようとすることは圧倒的に難しく、いまみたいに勢いに任せて書いているのでは空間の再現には遠 く及ばずただ羅列したにすぎないが、それでも私の中では小説を書くときに最も近い気分が起こっていた。小説はやっぱり何よりも空間の描写が基盤にならなけ ればいけない。それが人間の中にあるチンパンジーの運動能力を思い出させてくれることになるのではないか。
思えば私は木登りが好きで得意だった。いまではフリークライミングというほとんど手掛りなしの岩を登っていくスポーツがあるけれど、もし「フリー木登り」 とでもいう種目が存在していたら本気でその選手を目指していたかもしれないくらい木登りが好きだった。木に登るということは、木が与えてくれる手掛りを見 つけ出していくことで、「これはダメだ」と思っても角度を変えて見てみれば意外に自然な手掛りがあったりする。つかまった瞬間はものすごくつらい態勢だっ たとしても、力がそこにうまく移動するとふわっとした安心感のようなものが生まれて、体が無理なく上に向かう。
しかし木登りというと、一学年上にマーちゃんという、もう本当に天才としか言えないような木登りの名手がいた。マーちゃんは球技は中の下か下の上ぐらい だったが鉄棒やマット運動が得意だったから、その手の器械体操が嫌いだった私よりもずっと適性があったということか。マーちゃんは私が登れなかった難しい 木を、私の先に立って登って、上から、
「右手をもうちょっと伸ばすとよお、でっぱりがあんべえ。うん、そこ。それをつかめんべえ。
そんでよお、いま右手があったとこまで右足を上げんだよ。上がんべえ、上がるよ。
上がったべえ。そしたらよお、左手がラクんなんじゃん。離してみ、大丈夫だから。そんでその左手で、おれの足の下にあるこの枝がつかめんべえ。」
という風にじつに的確な指示を鎌倉の地の言葉づかいで与えてくれた。私自身の名誉のために言っておくが、マーちゃんに導かれて登った木は、私以外の誰にも 登れなくて、他の友達は下からそれを見ているだけだった。マーちゃんは勉強はできなくて授業中はしょっちゅう廊下に立たされていたが(そんなことをしてい たらできる子もできなくなってしまう!)、木登りの指示は的確だった。
十年ほど前、私は病院のリハビリ室で、体がマヒしてしまった人に、寝ている状態から上体を起こしてすわるところまでを「はい、まず左手を胸の上から右手の 方に持っていって――、それができたら顔を右に向けて――、そうすると重心が右に寄った状態になったでしょう。そうしたら右手の肘で床を強く押して ――、」という風に指導している様子を見たことがあるが、マーちゃんの、木の手掛りを教えていく感じはそれに匹敵したと思う。
木に登って、上の方で枝がうまい具合に広がっているところまで到達すると、何ともいえず安らぐ感じになった。体が枝の形状にはまって、枝に抱かれるような 感じになるのだ。高い木の上の方の枝にゆったりすわっているサルの映像を見ると、人間は「なんてところでくつろいでいる!」と思うけれど、枝に体がうまく はまれば落ちる心配はまったくない。
ロマ、いわゆるジプシーたちのいくつもの集団の生活や彼らが移動していくところを映した『ラッチョ・ドローム』という映画を三、四年前に見たが、その中で 十何人ものロマたちが木の枝にはまって眠っている情景があった。これがなんとも奇妙で唐突で、まるでカフカの小説の一場面のように変なのだが、彼らが上で 眠る木というのはヨーロッパの田舎の街道に沿って生えていて、彼らが眠っている下を車が走っていく。木の大きさは日本のイチョウ並木ぐらいのサイズで、だ から彼らは地面から五メートル以上も上がったところで眠っているわけで、彼らが眠っている枝の下はほとんど枝がない真っ直ぐな幹なので彼らは宙に浮いて 眠っているように見える。そういう木が並木のように一定の間隔で生えていて、その木の一本一本にロマが眠っている。しかも眠っているロマの服装といったら スーツにネクタイなのだ。ヨーロッパの映画によく出てくる、貧しくても(貧しいからこそ?)ちゃんとスーツを着て帽子を被っているタイプの人たちで、スー ツを着たそういうおじさんたちがそれぞれの楽器を抱えて(ロマのほとんどは楽士だから)、地上五メートルくらいのところで木の枝にはまって眠っている…… ZZZ。
私はその映画を一回見ただけなので細部の記憶違いはあるかもしれないが、大筋としてそういう映像で、それを見て私がうらやましいと思ったり、郷愁を誘われ たりしたことは言うまでもない。木の上というのはそれほど安定していて安心感も与えられるところなのだ。
人間の先祖がはじめて二本足で大地に立ち上がったのはアフリカだと言われている。その瞬間を想像したCG映像では、全身が毛で被われた鼻が低く顎というか 口全体が突き出た“原人”(“猿人”?)のイメージの男が、猫背の姿勢で両手をぶらぶらさせてどこかに歩み去っていくことになっている。しかし男はそんな ことはできなかっただろう。
男だけでなく女もそんなことはできない。そんなことができるのは子どもだけのはずだ。動物は大人になってしまったら、もう体に染みついた運動能力(空間と の関わり)を拡張することはできない。運動能力を広げられるのは子ども時代だけだ。それは家(うち)の猫たちを見ているとわかる。
とっくに十歳をこえた猫二匹が毎日刺激がなくて退屈そうにしているから、キャットタワーという床から天井までの高さがあって、途中に板が張り出していた り、小さなかまくらみたいな中に入ってこもれる場所まであるやつを買ってきて据え付けたのに、大人になってしまった猫はそんなものを見向きもしない。一番 下の、すでに六歳だが気持ちは(自分より下に猫がいないから)まだ子どもの猫だけがかろうじてそれに登ってくれるが基本的には関心がない。あのキャットタ ワーを子猫の頃に買ってやっていたら老猫になってもまだそれに登っていただろう。しかし空間との関わりが固定してしまったあとに買ったから、老猫以前でも 積極的な反応を示さない……。
人間の先祖がはじめて二本足で立ったとき、それはまだ全然子どもの原人だったはずだが、それを見てまわりの大人たちは驚いたり恐怖を感じたりしなかっただ ろう。動物は人間よりずっと鷹揚だからだ。そういう瞬間に感動を見ようとするのは文学趣味だ。立ち上がった原人の方も、子ども時代を経て大人になっても、 直立することによって与えられた自分の目の高さを不安に思うことはなかっただろう。何しろ彼らは木の上の生活に馴れていたのだから、目の高さ(視線・視 界)というのは自分の体格・体形によって規定されるようなものではなくて、空間の全体が目の高さだったのだから。
いったん「整理する」とか「並べる」ということをおぼえてしまった者にとって、日用雑貨の店内のような空間を作ったり、そこに何が置かれているかを記憶し たりするのは大変な苦労になるけれど、もし自然に(?)店内に物を置くようにしていったら、書店の棚のような整然としたものではなくて、雑貨屋のようにな るのではないか。
その試みのひとつがヴィレッジヴァンガードという本とCDと雑貨を一緒に売ってしまう新しい(といっても十年くらいの歴史はすでにあるらしいが)形式の書 店だろう。ヴィレッジヴァンガードの店内に入ると客は「本を探す」ことをあきらめて、店内を興味に引きずられるままに歩き回って、面白そうなものとぶつ かったときにそれを買う。
――だから、ヴィレッジヴァンガードの空間の作り方は私がいま書いてきた雑貨屋のコンセプトともまた違っていて、町の小さな書店であんなことはできない。 本を整理する」「並べる」という発想から離れて書店の空間を作るというアイデアがいま私にあるわけではなくて、こういう連載の原稿を書きながら簡単に思い つくようなことならすでに誰かがやっているだろう。それで成功するかどうかは別として。
一時期、文字によって何かを書くことの男性性というか、その根底にある男性原理のようなことが問題にされていたことがあったけれど、文字によって人間がチ ンパンジーからつづいている能力を忘れて、平板で物質性がなくて視界をさえぎるような物のない空間で読んだり書いたりしていることに何も疑問を感じないこ との方がよっぽど問題なのではないか。

それで本はグロスで配本されてグロスで返本されるシステムの中を移動してゆく。物書きを仕事としている者はその中に自分の本の場所を作らなければならない から、本を出版すると私は新聞や雑誌の取材を受けて著者の露出を増やしてそれをもって宣伝としている。
作品について、「すぐれた作品だったら何も説明を必要としない。作品が単独で人に感動を与えることができる」という作品観を持っている人が多いが、それは あまりに素朴な小説観(芸術観)というもので、そんな作品観は同質の作品の中でしか通用しない。
だからまず、作品を発表したら、「その作品について著者が語ろうとしているか」「語らなくても通用すると思っているか」という違いによって作品の存在の仕 方のようなものが見えてくる。
著者として自作を語ることが必ずしも成功するとはかぎらないけれど、失敗してもやっぱり著者が語ることで作品へのアプローチ(門から玄関までのアプローチ というときのアプローチ)が生まれる。しかしそれはその作品を読むときの正解とか、こういう風に読むのが正しいとかいうことは意味しない。
作者はすでに次の作品のことを考えてしゃべっているのかもしれない。自作について「しゃべりたい」という気持ちだけあっても、案外中身については憶えてい なかったりすることもある。作品の解説や批評を書くときに、凡庸な人ほど「著者は作品についてこう語っていた」などと、著者の発言を作品読解の拠り所にし ようとするけれど、著者が自作について語るときの自作と著者との関係は、なんと表現するのが適当かいまいい言葉が思い浮かばないが、とにかく、真に受けて 報酬が得られるようなものではない。著者は著者の言葉を作品読解の拠り所としている文章に出会うとがっかりする。私だけでなく、たぶん全員がそう感じてい るはずだ。
なんかそこには学生じみたところがある。正解すればいいというその志が低いとでもいえばいいか。学生がレポートを書くときに著者の言葉を読解の拠り所にす るのならかまわない。というか、まあその程度のもの以上のことを誰も期待していないわけだけれど、職業として小説を読んでいる人がそんなことで通用すると 思っていたら……。
それで今回の『小説の自由』では、たいていまず長さについての話題になった。「いま『新潮』でつづけている連載はいつまでつづけるつもりですか?」「この 『小説の自由』は全部で何冊になるんですか?」……具体的な質問はいろいろだが、私は、小説では長さが大事なんだということを一番熱心にしゃべったような 気がする。
三十分もあれば読み終わる短篇と『戦争と平和』や『失われた時を求めて』のような一ヵ月では読み終わらないような長篇では、それだけで厳然とした違いがあ る。ハガキ程度のサイズのデッサンと百号の油絵では全然違うように、芸術というのはまず量からはじまる。E=mc2ですべてが語られているかのように人に 思わせる理論の世界と芸術はまずそこで決定的な違いがある。『戦争と平和』はいまでは文庫本以外で読む人はほとんどいないだろうが(図書館に行けば大判の 世界文学全集に『戦争と平和』は必ず入っているが)、文庫本でも一巻五百ページぐらいはあるから厚さと重さがあり、読みながら読者はほとんどずっと文庫本 の厚さと重さを感じつづけ、これから読み進めていく長い長いぺージも頭の片隅でずうっと感じつづけている。短篇小説を読みながらそういう気持ちにはならな い。
テレビにかつて相撲取りだった小錦(KONISHIKI)と卓球の愛ちゃんのような小柄な女の子が並んで映るとその大きさの違いだけで「すごいなあ」「面 白いなあ」と感動しているというか目が喜んでいるというか、そういうことが起こっているが、芸術の前提となっているのはそういう具体性のインパクトみたい なもので、だから私は「小説はいくらでも考えることがある」「小説について考えはじめたら際限がない」という証拠に、まず長さを提示する必要があった。
「長い」ということは、「いいことが書いてある」という評価とか判断とか感想以上に意味がある。「意味がある」という言葉がそもそも「意味」を第一の価値 に置いてしまう価値観の中でそれこそ意味以上の意味をいっぱい持つことになってしまった言葉で、本当は私はここでは「意味がある」よりもっとふさわしい言 葉を探さなければいけないのだが、探してきてそれを使っても読者に通じなくなってしまうだろう。だから私は、小説についてあれこれ言うときに「長さ」を二 の次にしがちな小説観の中で「長さ」ということを一番に置くような考え方を書いている、ということでもある。
明晰さばかりを求める人は、「もっと簡単に小説とは××××である、と言えないのか」と言うだろうが、その考え方がすでに小説を読むときの考え方ではな い。

『裸の王様』という童話がある。「アンデルセンの『裸の王様』」とみんな言うけれど、アンデルセンの原作を読んで『裸の王様』を知っているのではなくて、 たいていは絵本とか幼稚園などに置いてある紙芝居とか幼児番組の中で子ども向けに加工されたもので知っているだけで、私も原作はもう忘れてしまった。問題 はみんなが広く知っている「子どもだけが見たままのことを口にできた」という部分なのだが、そんなことでいいんだろうか。
子どもが見たままのことを口にしてそれが真実であるなんて、そんな単純な世界があるだろうか。
あの仕立て屋が持ってきた布が、本当に「賢い者(正直者だったか)にしか見えない布」である可能性を、何もわかっていない子どもの一言で否定してしまって いいのだろうか。カフカが現代社会を予見したというのなら、『裸の王様』こそが、なんでもかんでも子どもに合わせて子どもが喜ぶようなものでいっぱいに なった現代社会を予見していると評すべきなのではないか。
もちろん『裸の王様』には前半部で、仕立て屋は悪い仕立て屋で、ありもしない布をまるであるかのように手に持って見せたりしているということが書かれてい るけれど、王様のパレードを見ている町の人たちはそんなことは知らないわけで(あたり前だ)、だから、
「王様は裸だ。」
という子どもの一言で、王様のパレードを見ている町のみんなの判断が覆されるという話の展開は、町の大人たちがそのときに持っていた真面目さとか「自分は やっぱり愚か者なんだ」という反省とかから大人たちが解放されるということにしかならない。大人たちが見えない布を「見える」と嘘をつくことも、子どもの たった一言で「見えない」(布なんかない)と意見を変えてしまうことも同じことであって、町の大人たちは何も進歩していない。せめてまだ、ありもしない布 が自分に見えなかったことをいつわって見えたふりをしつづけている方が大人自身の気持ちにとって意味がある。
こう書くと単純な人はすぐに、私=保坂が言いつづけている小説というものが、悪い仕立て屋が持ってきた布のように、本当は中身が空っぽで、「ある」と思い こんでいる人にだけあるものでしかないという解釈をする人がいる。そういう人が、「王様は裸だ」という子どもの一言によって、あるかどうかわからないもの を見ようとする努力から解放されて、ほっとする大人であることは間違いがないけれど、「王様は裸だ」という一言が真理である保証は、現実世界においては ――私はいまはもう、『裸の王様』の話をしているのではなくて、現実世界での人の認識や努力の話をしている――どこにもない。
『裸の王様』という話の中で、もし仮りに、仕立て屋が悪い人間かどうかという判断(真理)が隠されていて、布が本当にあるかどうかという判断(真理)も隠 されていたとしたら、パレードしているときに「王様は裸だ」という子どもの一言で、布が存在しないことにされてしまったとしたら、その話はものすごく暴力 的な話で、人間の探究心や克己心やわからないことを前にしたためらい、そういったことのすべてが踏みにじられると私は言いたいのだ。未知の事態を前にして ためらったりとまどったりすることを怖れている人たちは、みんな、「王様は裸だ」と言ってくれるのを待っているのだ。
たった一言で世界像がひっくり返るような言葉は現実ではありえない。そういう明晰なというよりも単純明快な――一言をほしがる気持ちがだからすでに小説で はない。
E=mc2があるじゃないか?
とんでもない。アインシュタインはニュートンカ学を踏まえて相対性理論を発見したのであって、相対性理論が忽然と世界に降り立ったわけでは全然ない。そし て相対性理論による世界像がニュートンカ学による世界像を覆したといっても依然として私たちはニュートンカ学の世界に住んでいる。E=mc2が発見された からといってその日を境いに世界が歪みはじめるわけではないし、それにだいたい私たちはE=mc2という式の意味がわかってそれを書いたり言ったりしてい るわけではない。「王様は裸だ」という言葉のように、視覚の明証性をそのまま真理とする考え方とは全然意味が違う。

ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を、
「語りえないものの前では沈黙せよ。」
という命題で締め括っている。
日本語の訳では私が知るかぎりすべての訳文で「沈黙」という言葉を使っているけれど、英訳ではもっと軽い感じの「黙って通りすぎよ」となっているらしい。 どちらにしても同じことで、「語りえないものにはこだわるな」ということだ。「語りえないものは語りえない」と言っているわけではない。
「語りえないものとは沈黙せざるをえないもののことである」と言っているのでもないし、「沈黙せざるをえないものは語りえないものである」と言っているの でもない。
しかし、それならどうして「語りえないもの」だとわかるのか?いま私の心に浮かんだことやいまあなたの頭を去来したことや、私たちの前にある何かが「語り えないもの」であるということがどうしてわかるのか?ここに一見ものすごく切れ味が鋭くて、明晰さの権化のように思われているヴィトゲンシュタイン、とい うか『論理哲学論考』の落とし穴がある。
「語りえないもの」とは、目の前にあるリンゴのように「これだ」と単純に指し示すことができるもののことではない。「語りえないもの」というのは、すでに それについて語ろうとした時間が積み重なっているもののことであって、だからそれは文法上の形式においては名詞だけれど、実体としては、「語ろうとして語 れない……。語ろうとして語れない……。語ろうとして語れない……」という、持続する動作とその状態のことを指していて、その動作は今でもまだ完了してい ない。
「語りえないもの」が真に語りえないものであるということを保証する根拠は、いまだに語ろうとしていて、それでもまだ語りえないという行為の持続の中にし かないのだから、その行為が完了することはない。
すでにこの連載の中で一回か二回、書いたことがあるかもしれないが、「語りえないもの」とリンゴや犬は、文法的には同じ名詞として取り扱い可能かもしれな いけれど、人間がそれを理解するメカニズムはまったく違っている。私のエッセイ集『言葉の外へ』の巻末に収録した樫村晴香との自閉症に関する対談の中で樫 村が指摘していることだけれど、自閉症児はリンゴや犬などの名詞を理解することはできるけれど、「美しい」を理解することはできない(あるいは、「リンゴ を使ったセンテンスは作れるけれど、美しいを使ったセンテンスは作れない」と言ったのかもしれない)。
リンゴや犬は「これだ」と具体的に(視覚として)指し示すことができる物だけれど、「美しい」は指し示すことができない(視覚だけで完結するわけではな い)。この差はとんでもなく大きい。言語哲学や分析哲学は、この二つの違いを無視する、というか彼らのシステムの中ではこの二つの違いを区別することがで きない(ということなのだろう)。
あるいはこうも言える。リンゴや犬は言葉以前に存在しているけれど、「美しい」は言葉がなければ存在しない。
「ここにリンゴがある。」というセンテンスは、他人の目(判断・異論)を気にしないで発話することができるけれど、「この風景は美しい。」と発話するとき には、人間は必ず、たとえわずかとはいえ、他人の目(判断・異論)を気にしてしまう。
「いや、美しいものは断固、美しい!」
と言う人は、こう考えればいい。
「きれいな景色だねえ!」
と、あなたが言ったときに、
「ホント、きれいだ。」
と同感されたらうれしい。なぜ、うれしいのか?同感されて、なぜ喜ぶ必要があるのか?
それに対して、
「リンゴがある。」
と言ったときに、
「ホントだ!リンゴだねえ!」
という同感は求めていない(幼児と大人の間ではこういうやりとりがありうるが)。
人間というのは判断が絡む「美しい」などの場合には、発話だけでなく、心の中に思うだけのときでも他人の同意をどこかで必要としている。つまり、リンゴは 見てその瞬間に判断が完了するが、「美しい」は自分の中だけでなく他人の同意を仮想的に経由することができなければ判断が完了しない。つまりここでもまた 時間が介在している。
では、
「誰が何と言おうと、この作品は素晴らしい。」
という発話はどうか?
この発話者は世間的な言い方では、自分一人で立っているようなポーズをとっているけれど、すでに一番はじめに「誰が何と言おうと」と、仮想的に他人を設定 してしまっている。
もちろん美しい風景や美しい物は人間の言葉より先にこの世界に存在している。人間が「美しい」と感じる花などはおそらく動物として木の実や果実を得ていた ときの目印として機能していたような対象だったのだろう。それが人間の中で「美しい」という心理的な状態に形を変えたのであって、つまり人間は動物として の進化の系を時間軸として、その上に言語という共時的な体系を重ね合わせたということで、言語は自然と完全に切り離された、自然にいっさい根拠を持たない 恣意的な体系だとは私は思わない。だから、「美しい」と「醜い」が単純な対になるとは私は思わない。「美しい」ものも「醜い」ものも、人間がそう感じるも のは人間の外にある世界に具体的にそういうものがあり、そうであるかぎり、それら「美しい」ものや「醜い」ものは言語の体系におさまりきらない力というか 不穏さというか、とにかくそういうものを持つ。
しかしそれでも人間が「美しい」と感じるのは世界にあるそれらのものがただ美しいからではなくて、人間が言語を持っているから完成される。だから自閉症児 は「美しい」という言葉を理解できない(あるいは、発話できない)。

私の説明はくどくどと長く、まわりくどく曲がりくねって、ヴィトゲンシュタインと対極の不明晰きわまりないものになっているが、人間と世界と言語というこ の三者の関係はヴィトゲンシュタインのような明晰さで語ることはできないのだ。
ヴィトゲンシュタインは、
「世界の意義は世界の外になければならない。」(六・四一)
「時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の、外にある。」(六・四三一二)(野矢茂樹訳 岩波文庫 傍点原訳文)
と言う。
「外」という言葉は空間的だ。他の訳文では「こえて」とか「かなた」という言葉も使われているが、いずれにしてもここでヴィトゲンシュタインは"世界"や "時間と空間"について、空間として存在可能な模型のようなイメージを持っているに違いない。
宇宙というとき私たちは、宇宙の中にふわふわ浮かんでいるボールのようなものをイメージしているだろう。しかし宇宙というのはそんなものではない。ではど ういうものが宇宙のイメージか?宇宙は私たちが地球儀みたいに視覚像を持てるようなものではない。視覚像とはそれに似たものによって代用することであっ て、宇宙は他の何とも似ていないのだから、宇宙をイメージできる像はない。つまり、宇宙について考えるということは、視覚像が拒絶されるということを経験 することでもある。
人間は視覚によって把えることができるけれど、人間の一生は視覚によって把えることも視覚によって代用可能なイメージを作ることもできない。しかし私たち は人間の一生をイメージできる視覚像を持っていないことに関して、何も不思議に思わないしもどかしさも感じない。そしてそのとき、私たちは「人間の一生の 外」という言葉を使おうと思わない。
宇宙も世界も存在している仕方は人間の一生とは全然違っているけれど、それを代用する視覚像がないということだけは人間の一生も宇宙も世界も同じであっ て、だからそれに対して「外」という言葉は使えるはずがない。
ヴィトゲンシュタインにとっての世界が空間的なものではなくて集合のようなものであるとしても、「語りうるもの」と「語りえないもの」がAと非-Aという 住み分けの関係になっている単純さは空間的なイメージと大同小異で、ヴィトゲンシュタイン(の明晰さ)にとって少なくとも『論理哲学論考』の中では――時 間というのが考慮の係数として含まれていない。

なぜ私は突然ヴィトゲンシュタインのことなんか言い出したのか?
彼の明晰さが根本のところですべてを空間的に図式化しているという点で、視覚の明証性を真理の根拠においた、
「王様は裸だ。」
という言葉を思い出したからだと思う。あるいは、「王様は裸だ」という単純でインパクトを持った言葉が、
「語りえないものの前では沈黙せよ。」
という言葉を思い出させたのかもしれない。
しかし私がヴィトゲンシュタインを持ってきた本当の理由は、小島信夫について書こうとしているからだ。七月十二日、私は『小説の自由』の出版記念のイベン トとして、青山ブックセンターの本店で小島信夫さんと公開対談をした。しかしその対談では『小説の自由』についての話はほとんどせずに――だって対談のタ イトルに「『小説の自由』出版記念イベント」とあればもうそれだけで宣伝としてはじゅうぶんなのだ――小島信夫の小説についての話をしようと思った。それ に、小島信夫の小説についての話をすることは、公開の場で『小説の自由』つまりこの連載の「小説をめぐって」を実地に書くのと同じ行為になるだろう。
ヴィトゲンシュタインの、空間的な図式化を基盤とする明晰さと最も対極にいるのが小島信夫だ。ヴィトゲンシュタインのIQが高いのだとしたら、小島信夫の IQは強い、ないし太い。つまり、小島信夫は視覚像という代用品によって何かを理解することと最も遠いところにいる。そんなことで人間なり世界なりが理解 できるとは彼は微塵も思っていない。

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