◆◇◆小説をめぐって(23)◆◇◆
  
 「われわれは生成しつつあるものを表現するための言語を持っていない」(前編)
「新潮」2005年12月号

言葉は認識したり伝達したりするための道具であるが、言葉が現実(世界、事象、実体……etc.)と正しく対応しないことを 人間は知っている。あるいは、知っているのではなくて、不安に感じている。
認識する主体であるところの私を欺く道具によってしか認識することができない、というそれが人間の認識である。
洪水が迫っているような切羽つまった状況で、「ここが一番安全」と思われる場所に避難したときに、私の中で認識がこう言う。
「私の言うことはいままで正しかったことがありません。私の言うことを信じないでください。だからあなたはここにいてはいけません。」

認識してはいけないのだと『ニーチェと悪循環』のクロソウスキーは言う。

強度、刺激、音調。それが思考である。思考が何を語るかはまた別の問題であり、思考が何を語ろうとも同じである。そして思考が何かに適用されれば、また他 の強度、他の刺激、他の音調が生み出される。いまやニーチェは、もはや概念的能力においてではなく、情緒的能力において、思考を実践しようとする。それは 一つの限界点。知が、悟性の平和のためにではもはやなく、〈カオス〉の呼びかけにも似た諸力の意のままに活動する、そのための手段のようなものを手にする 限界点にほかならない。(『ニーチェと悪循環』「トリノの陶酔」兼子正勝訳 ちくま学芸文庫)

強度の諸波動がたえず自分たちの「略号化」を邪魔しようとするのでなかったら、思考はどうして思考たりうるであろうか。われわれは生成しつつあるものを表 現するための言語を持っていない――とニーチェは語る。…… (略) ……そしてニーチェはこう付け加える。「意志」――欺瞞的な物象化、と。そこで彼がいわんとしていることは、「意識」から出発するあらゆる「意志」は、本 来の意味での記号の略号化によって成立した一つの虚構でしかないということである。(同「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」傍点原訳文、以下引用中 の傍点はすべて原訳文)

ある事情があってクロソウスキーの『ディアーナの水浴』という評論とも何とも分類しようのない本を読もうと思ったのだが、これが全然わからないというか、 頭の中で定着しない。しかしそれでも何とも惹かれる本であって、いったん『ディアーナの水浴』をやめて、いままでずうっと避けてきたクロソウスキーをまと めて読もうと決めて、まず『バフォメット』(これは最初に翻訳が出版されたときには『肉の影』というタイトルだった)を読んだ。
『バフォメット』は小説の体裁をとっているが神学的な議論がいっぱいで、わからないことだらけではあったがなんとか通読して、次に『歓待の掟』の中の「ナ ントの勅令破棄」と「口ベルトは今夜」を読んだ。あいかわらずわからないことはいっぱいあったけれど、そこまで読むとクロソウスキーの思考法というか言葉 の様相というか、そういうことにだいぶ馴れ、馴れただけではなくて、クロソウスキーの文章を読むことに快感を感じるようになっていて、今度は『ディアーナ の水浴』を通読することができた。翻訳にしてたったの一〇二ページ、原稿用紙にして二〇〇枚もないだろうが読み通すのに五日ぐらいかかってしまった。わか らないことはいっぱいだが、とにかく「おもしろかった」と言って間違いないと思う。
私はいよいよクロソウスキーの文章が読みたくてしょうがなくなっていて、次に『ニーチェと悪循環』を読み出した。そして話は今回の冒頭部分へと至るわけだ が、なんということか!クロソウスキーによるニーチェ像は、どうやら、ここ数ヵ月私がこの連載を書きながら考えていた、そしてどれもまだひとつも結論らし いきちんとした形に至っていないいくつものことの橋渡しになっているらしいのだ。
私は『ディアーナの水浴』を読むために、クロソウスキーの複数の本を買い集め、しかしそのすべての本は一度私はかつて持っていたが、「クロソウスキーだけ は何と言ってるのかわからない。どうせクロソウスキーを読むことなんか、これからもないだろう」と思って古本屋に売ってしまったことのある本で、かつて 「読めなかった」思想家(クロソウスキーは小説家というより思想家と言うべきだろう)を無理をしてでも読める態勢が私の中に出来ていたその原因は、クロソ ウスキーが書いていたこととちかいことを考えるようになっていたからだった――というわけだ。
それは、荒川修作であり、死の乗り越えであり、作品化されない断片のことであり、小島信夫のことである。私たちは「偶然」と呼びたがるが、何かと何かが同 じ行程の中で出会うときに偶然なんてあるだろうか。
『ディアーナの水浴』を私は現在絶版だとばかり思っていたのだが、いまインターネットで調べてみたら、一九七四年に宮川淳・豊崎光一共訳で出版されたのと 同じ翻訳が、いまは水声社から出ている。その水声社はちかぢか小島信夫のかれこれ二十年絶版になっていた『私の作家遍歴』をもう一度出版しようとしてい る。
そしてその水声社は雑誌(あるいはムック)を創刊するらしく、一号が荒川修作で二号が小島信夫なのだ。しかし、水声社のその話を聞いたときには私は、荒川 修作、小島信夫とつづくことを「偶然」とも「一致」とも思っていなかったのだが……、クロソウスキーのニーチェを経由して、それらが全部「同じかもしれな い」ということに気がついた。

もっとも、『ニーチェと悪循環』の中で、荒川修作が思い浮かぶ箇所と小島信夫が思い浮かぶ箇所は同じ箇所ではない。別々の箇所だ。それは「いまのところ別 々」なのか、「ずうっと別々」なのかは、いまのところわからない。
荒川修作が思い浮かぶ箇所は「永劫回帰」をめぐる箇所だ。
「永劫回帰」または「永遠回帰」について、以前この連載の『小説の自由』に含まれている回で、私は「まるで時間の牢獄の中に閉じ込められている」とかなん とかいい加減なことを書いたけれど、永劫回帰というのはそんなような簡単なことでは全然なかった。
永劫回帰についてはニーチェ自身が書いたものを読んでもわからないとされていて、ハイデガーによると狂気に冒される寸前のニーチェが突然口走った戯言(た わごと)だという研究者さえいるそうだが、ハイデガーの『ニーチェ』もクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』もどちらも「永劫回帰とは何か」ということが 中心になっていて、つまりはニーチェの思想の中心は永劫回帰にある、ということになるのだが、これがわからない。
クロソウスキーの書き方は複雑にもつれ合った論理を駆使しながら同時に感覚的で想像力に訴えかけるような文章だからひじょうにわかりにくく、仕方ないから ハイデガーの『ニーチェ』(平凡社ライブラリー)を読むのだが、この本では永劫回帰がひじょうに重要であるということしかわからない。結局、クロソウス キーの感覚的な書き方の方がまだしもわかるということになり、もともと私が永劫回帰から荒川修作を思い浮かべたのはクロソウスキーの書き方からだったのだ から、そこで考えるしかなかったということなのだ。
永劫回帰とはどういうことかというと、私が宇宙に掴(つかみ)かかられる瞬間らしい。
しかし読者には申し訳ないが、クロソウスキーはそうは書いていない。これはクロソウスキーが永劫回帰について書いていることを読みながら私が感じたイメー ジだ。
「私が宇宙に掴みかかられる瞬間」
なんて、表現としては見事に出来ているが、それが実際にどういうものであるか想像することはできない。だから、この言い方は何も言っていないと言われれば そのとおりだが、しかし私はそういうことなのではないかと感じた。
宇宙に掴みかかられた瞬間、私は私であることなどどうでもいいはずだ。私は私でなく宇宙なのだから、生きるとか死ぬとかももう関係ない。というか、まった く別の次元の存在あるいは非-存在になっているだろう。あるいはまた、こういうことなのかもしれない。私という人間が人間でない別の生き物に輪廻して何度 もこの世界で生きていようが、別の生き物として生きたことはなくただ人間として何度も生きていようが、それを私は知ることができない、絶対に。だから私は すでに何度もやっていることを、まったく知らない者として、何度もやっていることに踏み込んでいく、ということを絶えずやっている。それを私はふだんは何 の覚悟もなくただやっているのだが、その覚悟に瞬間私が掴みかかられる。
私はどうやら「掴みかかられる」というイメージによって何かを感じようとしているらしい。「掴みかかられる」というのは受動態であるけれど、受動の状態に 身をさらすことが最も能動的な気持ちの状態なのではないか。
虎か何かがいままさに襲いかからんとしているその前で黙って坐禅を組んでいる仏画がたしかあったと思うが、「掴みかかられる」というイメージはそこから来 ているのかもしれない。
永劫回帰について、ニーチェ自身はどう書いているか。

「とまれ!小びとよ!」とわたしは言った。「わたしか!それとも、おまえか!しかし、二人のうちで強い者はわたしだ――。わたしの深淵の思想を、おまえは 知らぬ!かかる思想に――おまえは堪えることができないだろう!」――
そのときわたしの身が軽くなった。というのは小びとが肩から飛びおりたからだ。好奇心の強い小びとよ。かれはわたしの目の前の石に腰をかげた。われわれの 佇んだところにちょうど門があり、道が通じていたのである。
「この門を通る道を見るがいい!小びとよ」とわたしは言いつづけた。「それは二つの面をもっている。二つの道がここで出会っている。どちらの道も、まだそ のはてまで歩いた者はいない。
 この長い道をもどれば、永遠にはてしがない。またあちらの長い道を出て行けば、――そこにも別の永遠がある。
かれらはたがいに矛盾する、――この二つの道は。かれらはたがいに反撥しあう。そしてこの門のところこそ、かれらがまさにぶつかっている場所なのだ。門の 名は上に掲げられている。――『瞬間』と。
ところで、誰かがこの道のひとつを選んで進んでいくとする、――どこまでもどこまでもいくとする。どうだろう、小びとよ、これら二つの道は、永遠に喰いち がい、矛盾したきりであろうか?]――
「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」と、小馬鹿にしたように小びとはつぶやいた。「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ。」
「重力の魔よ!」と、わたしは怒って言った。「そう安直に言うな!さもないと、おまえをその坐った場所におきざりにするぞ、足萎(あしな)えめ!――おま えをこの高みまで担いできたのは、このわたしだ!」
さらに、わたしは言いつづけた。「見るがいい、この『瞬間』を!この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれ の背後にはひとつの永遠がある。
およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行なわれ、こ の道を走ったことがあるのではなかろうか?
すでにすべてのことがあったとすれば、小びとよ、おまえはこの『瞬間』そのものをどう思うか?この門もまたすでに――あったのではなかろうか?
そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるはずのすべてのものをひきつれているのではなかろうか?したがって、――自分 自身をも?
まことに、およそ走りうるすべてのものは、この向こうへ延びている長い道を――やはりもう一度走らなければならないのだ!――
そして、ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、 ――われわれはみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?
――そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びているもう一つの道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、――われわれは永遠 にわたってめぐり戻ってこなければならないのではなかろうか?――」
こうわたしは語った。そして語りながら声はいよいよ低くなった。なぜなら、わたしはわたし自身の考えとその背後の思想に恐怖をおぼえたからだ。すると突 然、わたしは近くで犬が吠えるのを聞いた。
犬がこんなふうに吠えるのを、いつか自分は聞いたことがあったのではないか?わたしの思い出は過去にさかのぼった。そうだ!子どものころ、遠い遠い昔に、
――いつか、犬がこんなふうに吠えるのを、わたしは聞いた。毛をさかだて、頭をそらせ、身をふるわせて吠えたてる犬のすがたを見た。深夜の静寂のきわみに は、犬も幽霊を信じるというが、
――わたしは憐れをもよおした。ちょうど満月が屋上に、死のように黙々とのぼっていた。そのしずかに動かない円盤のかがやき、――それが平たい屋根の上に あった。照らされたわが家はよその家のようだった、――
そのために、犬はあのとき恐怖にかられたのだ。犬は盗人と幽霊の存在を疑わないからである。そして、いまふたたび犬がそんなに吠えるのを聞いて、わたしは またしても犬に憐れみを感じた。
それにしても小びとはどこへ行ってしまったのか?そして門は?そして蜘蛛は?そしていましがたのささやきは?このわたしは夢をみていたのだろうか?いま目 がさめたのだろうか?突如として、わたしは荒涼とした断崖のあいだに、ただひとり、さびしく、月影もすさまじく照るなかに立っていた。(『ツァラトゥスト ラはこう言った』第三部「幻影と謎」氷上英廣訳 岩波文庫)

ニーチェの元の体験は、月光と蜘蛛だと言われていて、それは『華やぐ知慧』(この本は翻訳によって「悦ばしき知識」「悦ばしき学問」などとなっている)に 書かれている。

最大の重し――ある日、あるいはある夜、デーモン(悪霊)があなたの最もさびしい孤独のなかまで忍びよってきて、こう言ったらどうだろう。「お前は、お前 が現に生き、これまで生きてきたこの人生を、もう一回、さらには無数回にわたり、くりかえして生きなければなるまい。そこにはなにひとつ新しいものはない だろう。あらゆる苦痛とよろこび、あらゆる思念とためいき、お前の人生のありとあらゆるものが細大洩らさず、そっくりそのままの順序でもどってくるのだ。 ――この蜘蛛も、こずえを洩れる月光も、そしてこのいまの瞬間も、このデーモンのおれ自身も。――存在の永遠の砂時計は何回となく逆転され、――それとと もに微小の砂粒にすぎないお前も!」――このことばを聞いたら、あなたは地に身を投げ、歯がみして、こうしたことを言うデーモンを呪詛しないだろうか?そ れともデーモンに向かって「お前は神だ。これよりも神々しいことは聞いたことがない1」と答えられるような異常な瞬間を体験したことになるだろうか?こう した思想があなたを支配するようになれば、それは現にあるあなたを変貌させ、ひょっとしたら打ち砕くかもしれない。何ごとにつけても、「お前はこのことを もう一回、いや無数回にわたりくりかえして、欲するか」という問いが、最大の重しとなって、あなたの行動のうえにのしかかってくるのだ!あるいは、この最 終的な永遠の確認と封印より以上の何物も望まないためには、あなたはどれほど、あなた自身および人生を愛しまなければならないことか?――(『華やぐ知 慧』第四書「聖なる一月」三四一番 氷上英廣訳 白水社)

クロソウスキーはどう書いているか。永劫回帰をイメージする手掛りとなりそうな箇所を書き出す。

身体とは偶然の所産である。それは諸衝動の全体の出会いの場所にほかならず、それらの衝動は一人の人間の生の期間は個人化されているとはいうものの、ひた すらに非個人化されることを渇望しているのである。(『ニーチェと悪循環』「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」)

われわれの奥底では、まったく別の指示作用のシステムが動いているのであり、そのシステムにとっては内部も外部も存在しないのである。(同)

こうした観点からニーチェは情動〔アフェクト〕という用語を取りあげる――それは、基体の欺瞞的な「同一性」に従属させられながらも、その同一性を変化さ せ、不安定でこわれやすいものにする諸力に、その自律性をかえすためである。(同)

〈永劫回帰〉突然の啓示がわたしを襲った瞬間から、わたしはもはや存在しないのだ。(同「永劫回帰の体験」)

つまり、ある行為がいまおこなわれ、ある体験がいま生きられているとしたら、そのためには、同一の個人のなかでではなく、その個人の同一の潜在性に属する ものすべてのなかで、一つのセリーがそれ以前にすでに存在し、他の無数のセリーがそのあとにつづくのでなければならない――それではじめてその個人は、い つの日か、いまあるとおりの自分をいま一度見出すことができるのだ。(同)

一度限り決定的には消滅する。強度は、存在の一連のはてしない振動のようなものを発信する。そしてこの振動が、個人的な自我をそれ自身の外に、同じ数だけ の不協和音として投げ出すのである。(同)

クロソウスキーの文章は引用を長くするとかえってわからなくなると思ったので(少なくとも私にはそうだ)、ひじょうに短く引用することにした。

クロソウスキーの引用を読むと、これで永劫回帰がわかるかどうかはともかく、荒川修作が建築でやろうとしている、生(死)の克服――『建築する身体』(春 秋社)の序文では、「どのようにすれば死なないか」と、ひじょうに即物的な言い方をしている――が書かれているように感じないだろうか。
個人はdivide(分割する)できないからindividualなのだが、その個人を個人たらしめている精神は、個体の中を渦巻く諸力を一つのものであ るかのようにまとめた虚構なのだと、ニーチェとクロソウスキーは言っている。

ところで、私がこのようにたくさんニーチェとクロソウスキーを引用した理由は、これが自分の考えとほぼ同じと感じられるからだ。
それなら何故自分の言葉で書かないのか?
私はニーチェとクロソウスキーほど見事に言えないからだ。
それならその言葉は自分の言葉ではなくて、やはりニーチェとクロソウスキーの言葉なのではないか?
そうではない。考えというのはいつも自分の中に安定した状態であるわけではない。あるときは頭の上を鳥がサッと飛び去るようにして一瞬あらわれては消えて しまい、あるときは街を歩きながらふと、どこかの店内から流れてくるのを耳にしたメロディが、何度も聴いたことのある曲の一節のはずなのにどうしてもその 曲の全体が思い出せないように遠いままで自分に引き寄せられないようなものであり、さらにまた、ある考えは、選手生活を通じてずうっと控えだった選手が生 涯にただ一度だけ打ったサヨナラ・ホームランであるように、生涯に「ただ一度だけ」浮かんだ考えである可能性だってある。
四十代に入って私が痛感するようになったのは、考えがその日の体調によって大きく左右されることで、たとえば寝不足のときなど(私はよく眠らないと何もで きないのだ)、エッセイのような簡単な文章を書いているときでも、文章を面白くするための転換がどうしても思いつかない。「ここはこれ以上つづけても退屈 する」ということまではわかっているのだが、それは一般論の次元の判断にすぎず、個別の解決策となるとどうしても思いつかない。
考えというのはそのように不安定で、日ごとに出来不出来があり、それは体の状態によって決められている。他人にいつも一定の考えを期待する人は、自分で ちゃんと考えたことのない人だろう。スポーツ選手が日によって出来不出来があるのはみんなが事実として知っているところだが、選手たちの出来不出来の原因 はただ体調というだけでなく、体調によって視野がせばまったり音を聞き分ける力が弱まったり、気力や意志の源とされている脳幹の働きが弱まったり、判断力 が(判断力の源がどこか知らないが)弱まったりするからなのではないか。ニーチェ-クロソウスキーの文脈で言えば、視野や判断力も含む心身の状態が「体 調」ということになるだろうか。
だから私はニーチェとクロソウスキーの言葉を読んで、自分の考えだと思う。私は私の考えをつねに制御し把握し捕獲できているわけではないから、それらの言 葉に出合って、それを自分の考えだと思う。少なくともニーチェとクロソウスキーの考えの萌芽のようなことを一度は考えたり感じたりしたことがなければ、そ れらの言葉に出合って、「(おれの考えてたことは)こういうことなんだ」とは思わないだろう。
 それにもともと私はニーチェだけは何冊も読んでいて、たまに『華やぐ知慧』や『善悪の彼岸』などをぱらぱらめくってみると、かつて自分が小説やエッセイ で書いたこととほとんど同じことが書いてある箇所があって、しかもそこにはすでに自分で線を引いてあったりして、その言わんとしていることのあまりの近さ に愕然とすることもあるくらいで(「これじゃあ、ほとんど丸写しじゃないか!おれは考えたんじゃなくて、ただ思い出しただけだったんじゃないか!」という わけだ)、考えることの源泉は自分の中には最初からない。
私には、経験と記憶と知識と、いまこうして存在している自分を取り巻くいろいろな環境と、それに逐一反応している自分の体と、外の環境と別に体の中で持続 していたり途切れたりしている胃の痛みとか肩の張りとか、そういういろいろなものがあって、本を読むときにはそれらのすべてが書かれている文字と擦れ合っ て、私の中で一定の「理解」を形成したり形成しそびれたりしていく。
文章としてまとまりのいいものは、文章という閉じられた空間の中で理解=処理していくことが可能だけれど、ニーチェ−クロソウスキーの文章を理解しようと なると閉じられた空間の中での処理ではとても足りず、経験やかつて自分が考えたことやいま自分の体で起こっていることにまで注意を伸ばしながら読んでいか なければならない。……
しかしそこで動員している「かつて自分が考えたこと」が、すでに同じニーチェを読みながら考えたことだったりするわけなのだが、その堂々巡りをいつまでも つづけてもしょうがないのでやめておこう。
つまり、以上のような意味で、私が引用するニーチェとクロソウスキーの言葉は私の考えでもある、ということだ。そしてここでもまた、私は individualではなく寄せ集めということになる。


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