◆◇◆小説をめぐって(30)◆◇◆
涙を流さなかった使徒の第一信 (前編)
 「新潮」2007年3月号




 小島信夫さんが亡くなってすでに三ヵ月経った。小島さんが脳梗塞で倒れたのが六月十九日だったから、少なくとも私は七ヵ月 は小島さんと話をしていないことになる。小島さんから最後に電話がかかってきたのはゴールデンウィークの頃だったので、そこから計算すれば九ヵ月ちかく話 をしていないことになる。
 しかし私は小島さんが亡くなったという気がしていない。倒れて回復の見込みはないと知らされたあと、夏頃には、何かを読んだりある考えが浮かんだりした ときに、
「もう小島先生にこれを伝えられないんだ。」
 と思ったり、初期の作品などについて本人に訊きたいことが出てきたりしたときに、
「あ、もう訊けないんだ。」
 と思ったりして、そのつどある感慨のようなものに襲われたりしたことが何回もあったけれど、そういう気持ちはいまではなくなっていて、「小島先生に話し たい」とか「小島先生に訊きたかった」と思うこともなくなっているのだから、私の中でもそれなりに時間が経過したことにはなるのだろうが、それで私が小島 さんが亡くなったことを正しく理解していることの証明にはならないような気がする。
 倒れたという知らせを受けたときも、亡くなったという知らせを受けたときも、私は一度として悲しいと感じなかった。動揺も一度もしなかったのではないか と思う。――こう書くと、私が悲しみのあまりの大きさに悲しむことを抑えつけているのだとか、自分の気持ちが把えがたくて途方に暮れているのではないか、 というような心理学的な解釈をしたがる人がいるかもしれないが、悲しみとか近しい人を失った喪失感というようなことについて何かを言いたいためにこんなこ とを書いているわけではない。(そんなことをどれだけ力説してみても、心理学を盾にとって裏読みすることはいくらでも可能だけれど。)
 私は今回の小島さんの死の不思議さについて何かを書きたいと思っているのだ。

 私と小島さんとのおつきあいは、一九八九年十二月から二〇〇六年までの十六、七年間で、後半の何年間かはもっぱら小島さんの方から私に電話をかけてくる という関係になっていて、だいたい平均して月に三、四回、電話があるときとないときに偏りはあったものの一ヵ月間隔があくことはまずなかった。学生時代か らの友達でも、十年以上にわたってこんなにコンスタントに電話で会話することがつづいた関係はない。たいてい簡単に半年一年ぐらい経ってしまって、「じゃ あ久しぶりに会って酒でも飲もう」というのがふつうだが、彼らがもし死んでしまったら私は間違いなくショックを受けて泣いて、しばらくは悲しくて呆然とし ているだろう。
 繰り返しになるが私は小島さんの死を受け入れていないわけではない。何かの拍子で「小島先生にこのことを話したい」と思う小さな錯覚というか、生きてい る人に対してしか思わない回線の混乱みたいなことも、すでに起こらない。そういう小さな錯覚もまた、個人の中でなされる一種の喪の仕事≠セとしたら、そ れもまた私の中では完了していることになる。
 小島さんが倒れる一ヶ月前の五月に、私の小説『カンバセイション・ピース』の英樹兄という登場人物のモデルであって、私の家族がまだ母の実家に同居して いたときに兄のように私をかわいがってくれた(もっとも彼は四歳下の本当の弟のことはいじめてばっかりいたのだが)八歳年上の従兄が自殺したのだが、こっ ちの喪の仕事≠ヘ私の中でいまだに終わらずに燠火(おきび)のようにくすぶっていて、その火が消えることは一生ないのではないかと思うのだが、その死と この死があまりに対極にあることに、「どういうことか」と、戸惑うのでなく、情緒的なもの抜きの疑問が、ごろんと私の中というよりも、私の棲む世界にでき てしまった、とでもいえばいいか。

 ひとつ、ヒントのようなものはある。
 友人Kが学生時代の友人と十年年振りに会って話をしたあとのこと、私が、
「外見の変化にしばらく戸惑ってうまくしゃべれなかったりしなかったか?」
 と訊いたら、
「お互い言語の世界で生きてるから昨日会ってまた今日会ったのと同じ感覚なんだよ。」
 とKは答えた。
 これはまた別のときにKから訊いたことだが、形而上学=metaphysicsは、physicsに対してmetaだから、物理学のように時間は問題と されない。時間という係数の影響を受けるのは物質だけであって形而上学では時間は関係ない。ということをKは明快にも私に教えてくれた。
 こういうときに正規の哲学教育を受けていない自分はあちこちに大きな穴ぼこを残したまま、何事かを理解したようなつもりになっているんだろうなあと痛感 するのだが、K以外からこういう話を聞かされなかったということは、あたり前すぎる前提であるがためにいちいち確認しないからなのか、哲学について書いて いる人たちもまたその人の先生からあたり前すぎる前提であるために確認されそびれてしまったからなのか。
 形而上学が対象とするのがイデアだとしても神だとしても、どちらも確かに時間の影響は受けない。言われてみるとよくわかる。しかしそういえばハイデガー の『形而上学入門』という本にはまさにタイトルに「形而上学」という言葉が使われているというか、「形而上学」という言葉しか使われていないにもかかわら ず、『形而上学入門』を読みながら、私は「形而上学とは何か」ということを考えた記憶がない。

 話を戻して小島さんの死だが、小説とはまさに言語によって作られる。というか、言語によってしか作られていない。絵や彫刻や音楽や芝居や映画との決定的 な違いがそこにある。(いや、それは本当に決定的な違いなのか。絵や音楽も芸術という領域に置いたときには言語とみなされるのではないか。という疑問は混 乱するのでいまは保留にしておくことにする。)
 絵や音楽だったらほとんどすべての人が共通に感じるであろう絶対的な違和感のようなものを即物的に提示することができる。たとえばダ・ヴィンチのモナリ ザの頬のあたりにショッキング・ピンクの正方形を描いたり、パブロ・カザルスが演奏するバッハの『無伴奏チェロ組曲』に「コンニチワ」という九官鳥の声を 紛れ込ませたりすれば、誰だって「そこが違う」と感じる。子どもだったらおかしがって笑うだけかもしれないが、「違う」という思いがあるからこそその笑い が起こる。
 それに対して小説では、いったん文字による意味としての理解を通過させなければ違和感は生まれない。仮りに書体を変えたり文字の色を変えたりしても、読 者はまず「視覚効果か?」と思うだけで、絵における違和感と同じものにはならない。
 小説とはただの記号でしかない言葉をいろいろに組み合わせることによって、人と人との会話が本当にそこにあるかのような気持ちにさせたり、文字の中にし か存在していない(つまり存在はしていない)人物のことをかわいそうでどうしようもない気持ちに読者をさせたりする工夫のことであって、読みながら起こる 読者の気持ちの変化をあたり前すぎるほどあたり前の前提としているために、書き手も読者もそこにある文字がただの記号でしかないということを忘れがちなの だが、本に印刷された文字はつまるところ生命のないただの記号なのだ。
 テンポよくいきいきと語られたり、話の流れの中である言葉に出会ったときにふわっと体じゅうの力が緩むような気持ちになったりするために、言葉ないし文 字に何か特別な力が宿っているかのような錯覚を持っている人がいるかもしれないが、文字そのものは譜面の上の音符と同じで受け手の気持ちに訴えかける響き は持っていない。
 こんなわかりきったことをこんなにもくだくだ書いてしまうということは、じつは私自身が本当は明確にはわかっていなくて混乱をきれいに整理できていない のかもしれない。改行が少なくてうんざりするかもしれないとか、ここで改行したら呼吸が切れて意味が変わってしまうかもしれないとか、「硬い」と「柔か い」と書くよりは「硬い」と「やわらかい」と書く方が感じが伝わりやすいとか、意味を伝えるために文字の機能を極力広げようとするのが小説家の習い性のよ うなものになっていて、それゆえ、「文字(言葉)とはただの記号でしかない」という前提を自分でわからなくさせているわけだが、逆に言えばその前提をよく わかっているからこそ文字にただの記号ならざる機能を吹き込もうとするということにもなるのだが、それは「わかっている」とはいえないのか、それともそれ こそが「わかっている」ということになるのか。
「文字(言葉)とはただの記号でしかない」とよくわかっているがために割り切って、それこそただの記号でしかない書き方をしてしまったら、それは読者の気 持ちを動かす小説にはならないだろう(こういう風に話が一般論に流れてくると、まるで基準としての小説があるかのような言い方になってしまうから要注意な のだが)(文字を完全に記号でしかない書き方をしても読者の気持ちに何かを投げ込む小説は書かれうるかもしれない。少なくとも、「ありえない」と断定して しまうわけにはいかないのだが)。
 つまり人は、わかっていないようにわかることしかできない。「わかっている」と言うとき、人はほとんどの場合、わかっていない部分を見ていない。だから 「わかっている人はよくわかっていない」。この命題は、わかっている人にもわかっていない人にもあてはまる。なんかセミネールの中のラカンの言葉のように なってしまった。
 文字(言葉)にどれだけ生命が吹き込まれているように見えようとも、小説はただの記号の連なりでしかない。
 そういえば、学生時代に数学者になることをあきらめた人からこんな話を聞いたこともある。
「数式を見て、「ここに黒子(ほくろ)がある」という風に肉体的(肉感的? 身体的?)に感じられるようでなくては一流の数学者になることはできないと先 生に言われたときに、私は数学をあきらめた。私には黒子なんて感じられなかったから。」
 この話でもまた、ふつうの人間が見たらそれこそただの記号の連なりでしかない数式を生命が吹き込まれた何かであるかのように錯覚しているわけで、人間は 記号をただの記号という次元から一歩も出ずに親密につき合うことはできない、ということを示唆しているのではないか。

 ここまできのう書いて今日つづきを書くことになっていたのだが、私が毎晩エサを出していた外猫のうちの一匹が死んでいた。隣りのFさんの奥さんが見つけ て知らせてくれた。うちの南側には廃屋が壊されずに残っている五十メートル四方かそれ以上ある大きな空き地があり、その隅の陽が射しているところにうずく まった姿勢で死んでいたので、Fさんのダンナさんと二人でさっきそこに穴を掘って埋めてきた。

    外猫一族の系図(省略)

 外猫の一族について話を始めると周辺の人間も含めて複雑になるので簡単に書くことにするが、二〇〇〇年の夏に一匹のメス猫がぼろぼろの死にそうな状態で あらわれたときからうちを含む近所数件の猫と猫と介した人間同士のつき合いがはじまった。
 そのぼろぼろの猫を隣りのMさんの夫婦がつかまえて、Mさんの知り合いで二十四時間路上のどんな場所にも往診に来てくれるという獣医さんを呼んでステロ イドを注射したら日に日にぐんぐん回復して、その猫のエサをMさん夫婦とうちで出しているうちに系図のマミーが寄ってくるようになり、〇一年の夏にオス・ メス一匹ずつの子猫を産んだ。
 そのころは別の方の隣りのYさんが半分くらい内猫としても飼っていたニャー介というオスやそこらを回遊しているオスが他に二匹くらいいた。その中の一匹 にマミーの子のチビ太がひどい怪我をさせられて、私やM夫婦とは別に前々から猫にエサを出していた斜向かいのTさんの庭でうずくまっていたのをTさんが見 つけて、馴染みの獣医さんに連れていって手当てして、そのままTさんの家の中で飼われることになった。
 チビ太の消息はそこまではわかっているのだが、Tさんという人は現在七十歳くらいの体ががっしりして押しの強い男性で、九九年の夏に私たち夫婦がここに 引っ越してきたときにはすでに定期的な勤めには出ていなくて、昼間に犬を散歩させたりしている(Tさんは犬も猫も飼っている)のだが、しゃべり出すと話が 長くいつまでも止まらず、しかも名詞や出来事の連想でどこまでも話が逸れていき、それが年々ひどくなって、最近ではもう何を訊いても周辺のことだけを延々 としゃべりつづけて訊きたいことはいっこうに訊けないので、私は徒労感と腹立たしさが一緒になった恐怖感にちかい気持ちでTさんと話をするのを避けている からチビ太のいまの消息はわからない。「チビ太」というのは私と妻のあいだの呼び名だからTさんは別の名前で呼んでいるはずだ。
 で、マミーは翌〇二年の夏に四匹の子猫をTさんの縁の下で産んで、Tさんがそのうちの二匹だけもらい手を見つけて渡し、残りの二匹を外猫として飼い、一 匹を「ピース」、もう一匹を「プリティ」と名づけた(この命名から考えてもチビ太はもっとモダンな名前で呼ばれていることだろう)。ピースは早々に避妊手 術をしたがプリティの方は避妊されずに〇三年の夏に子猫を産んだのだが、その子猫はたぶん育たなかった。そのくらいはわかっているがプリティは同じこの一 角に棲んでいるのに不思議なほど私と接点がなくて、これ以上のことは全然わからない。
 で、〇三年夏にマミーがまたまた三匹子猫を産み(「マミー」という名前はこの頃にFさんがつけた)、「これはまずい。無限に増える」と思って、マミーと ミケ子を捕獲器でつかまえて避妊手術をしたのだが、時すでに遅く、そのときにはミケ子も子猫を四匹産んでいた。外猫は出産すると三日ぐらい姿をあらわさな くなる。マミーは細身だから出産直前にはお腹がぽんぽんになっていて、次にあらわれたときには元の細い体にもどっているから子猫を産んだことが一目でわ かったのだが、ミケ子はころっとした体形をしていたから妊娠していたことに私は気がつかなかった。三日姿を見せず次にあらわれたときも変化があんまりわか らなかった。
 その頃には私も毎晩きちんきちんと外猫にエサを出すようになっていたのだが、マミー以下誰一人として人に体をさわらせない。マミーは細身で小柄だがとて も気が強く、どうやら躾もしっかりしているらしい。そういうわけで手ではつかまえられないから地域猫活動のボランティアの人から捕獲器を借りてつかまえ た。その人の話では母親の避妊のタイミングは出産後一ヵ月から二ヵ月ぐらいがちょうどいいらしい。夜つかまえて翌日獣医さんに連れて行き、そこでもう一泊 させるから合計二晩、子猫たちは母親だけが知っている隠し場所でくっつき合って眠っている。見たわけではないけれど、二晩出てこないのだからくっつき合っ て眠っているという表現で間違いないのだろう。
 マミーとミケ子の子猫が全員揃ってエサを食べに来るようになったのは九月ぐらいからだっただろうか。子猫七匹にピースも入ってマミーの一族だけで十匹。 一番最初にここにやってきたぼろぼろだったニャン子(命名Mさん)はマミー一族に追われてこの区画の端っこでしか食べられないようになった。
 十月末の冷たい雨が降っている朝にミケ子が死んでいた。私は誰かに毒でも食べさせられたかと思ったが、猫のボランティアの人に訊いたところ、毒だったら 口から血を吐いているらしい。ミケ子の死に顔は汚れてはいなかった。しかし口をあき、ウンチが出ていた。心臓マヒみたいなものではなかったか。ふつうメス 猫は満一歳で最初の出産をするが、ミケ子は二歳になるまで子猫を産まなかったし、親のマミーにずうっとくっついていたくらいだったから弱かったのだと思 う。
 その前後にマミーの子の、系図で(クロトラ)としてある猫が姿を見せなくなった。(クロトラ)がいなくなったとき私はまだ子猫たちに名前をつけていな かった。たしかオスだったと思うが独立するには早すぎる。人にさわらせないのだから、誰かにもらわれていったというのも考えにくい。
 十二月に三晩に分けて残った六匹の子猫をつかまえて避妊と去勢をしたのだが(いや、去勢も避妊に含まれるのか)、シマちゃんだけは用心深くてとうとうつ かまえられなかった。シマちゃんはオスだからまあいいことにした。
 年が明けた〇四年一月の朝にマフラーが道で車にひかれて死んでいた。車の通りは日中で平均して一、二分に一台、夜なら五分に一台という感じだろうか。つ まり車はひっきりなしに通るわけではないが、その分猫は油断するかもしれない。車ではなくてバイクだったかもしれないし、無灯の自転車だったかもしれな い。ライトをつけて音を立てて走ってくる車やバイクより無灯の自転車の方が猫には危険なんじゃないか。
 それからはしばらく平穏無事に過ぎるのだが、その年(〇四年)の梅雨は長く気温が低く、ピースが来なくなった。ピースは一週間くらい経った夜、ぼろぼろ になって、ヒゲにまで泥をつけてあらわれた。大事なヒゲに泥がついてる猫なんてかつて見たことがない。鼻汁を垂らしクシャミを連発していて、通称「ネコ風 邪」と言われるウィルス性鼻気管炎にかかっていた。獣医さんに相談して抗生物質の錠剤をホタテの刺身に入れて食べさせたら三日目には元どおりになった。抗 生物質ではウィルスは殺せないが、鼻や咽についた雑菌は殺せる。実際には病気の峠を越したからまた出てきたわけで、抗生物質なんかやらなくても、もう自力 で回復できたのかもしれない。しかし、生きている猫を相手にそんな実験みたいなことができるだろうか! 抗生物質は余計かもしれなくてもしないではいられ ない。
 それでまたしばらくは無事に過ぎ、ミケ子の子のマーちゃん、白地に茶の斑(まだら)があちこちにあるから「まだらのマーちゃん」と私が名付けたマーちゃ んは一番人なつっこく、私の前でごろんごろん転がって見せたりするのだが、やっぱりさわらせない。そんな時期がしばらくつづいたが、年が明けて〇五年の一 月にシマちゃんがあらわれなくなった。シマちゃんだけは去勢していない。だからテリトリーを変えて出ていったのかもしれないが、病気でいなくなったと考え る方が間違っていないだろう。シマちゃんがいなくなった時点で、マミー一族六匹とニャン子の七匹になった。シマちゃんは一番用心深くて私に近寄らず、夜の ご飯にも来たり来なかったりだったこともあって、私は「どうしたのかな」ぐらいの気持ちしか持たなかった。
 その後また落ち着き、変化はなかったのだが、一年後の〇六年の二月にふっつりニャン子が来なくなった。〇〇年にぼろぼろの状態であらわれたとき、治療し た獣医さんは「もう十歳以上」と言ってはいたが、本当の年齢はわからない。ただ弱いことは間違いなく、うちの辺ではマミー一族に邪魔されるから私が見てい る前でなければご飯を食べられなかった。
 ニャン子が私以外の別の人からも食べ物をもらっていることは間違いなかったが、雨の日と日曜祭日はそこで食べられないらしく、そういう日は昼間からうち の玄関の前で丸くなっていた。〇四年頃から私はニャン子がくると、マザー・テレサの「貧しい姿に身を顕わしたキリスト」という言葉を思い出すようになって いた。一番弱い猫が困ったときに頼ってきてくれると思うだけで、私は祝福されたような気持ちになっていた。いや、現に祝福されていたのではないか。祝福と はそういうことなのではないか。
 そのニャン子がまったく来なくなったことで、私は外にいる猫の運命をやっと深刻に理解するようになった。「深刻」というのは、「(心に)深く刻む」とい う意味に私一人で使っている言葉で、ふつうに使われるだろう深刻がったり深刻ぶったりするような意味は私の「深刻」にはない。
 猫は六匹になった。マミー一族はマミーを中心とする関係が安定していて、このテリトリーがよそから来た猫に荒らされる心配もない。私は気を抜いてドライ フードをこんもり山にして二ヵ所ぐらいに出すだけになっていたのだが、十月末にマーちゃんが来なくなった。
 まだらのマーちゃんは一番私に依存していて、食い意地も張っているからエサを食べに来なかった夜は一度もない。いまでは唯一残ったオスのチャッピーと一 番スマートで顔もかわいいビジンちゃん(つまり「美人ちゃん」)との合計三匹で夕方から家の前に集まっていると三匹が同じ茶色なので、私と妻は「黄な粉三 きょうだい」なんて言っていた。
 マーちゃんは二晩目も来ず、私はそれまでサボッて不定期にしか出していなかった缶詰を毎晩出すように心を入れ直した。猫たちが喜ぶご飯を出してマーちゃ んがあらわれるのを祈るような気落ちで待つのだ。マーちゃんは夏頃からピースがかかったのと同じネコ風邪の軽い症状になっていて、抗生物質でよくなったこ ともあったがいっこうにすっきりせず、来なくなる一週間前あたりからまた鼻をぐずぐずさせていた。
 マミーの一族はふだんは斜向いのTさんの縁の下にいるらしい。Tさんの家でもエサを出している。それでまたTさんに訊きに行ったのだが、もう全然関係な いことばっかりしゃべって……。とにかく、マーちゃんがいつもどおりTさんの縁の下にいるのなら、私が呼べば来るだろう(さわらせはしないが)。それで私 はマーちゃんはTさんの縁の下にはいないと考えて、翌日には塀を乗り越えて隣りの空き地に入り、廃屋のガラスが外れている足許だけの掃き出しの窓から 「マーちゃん」と呼んだりしてみたが返事はない。そこに缶詰を置いて、一時間後に戻ってみたが、他の猫すら口をつけていない。猫たちは誰もそこをエサ場と 思っていないということだろうか。その空き地は広いから当然周囲が何軒もの家と接していて、そのために空き地にはよその猫もいろいろ来ているはずなのに誰 も食べていない。
 私はこの時期を「十月末」とすでに書いた。正確には十月三十日三十一日で、空き地に入ったのは十一月一日だ。小島さんの死の知らせを受けたのは十月二十 六日の朝だった。私は小島さんの追悼記事を書きつつ、そっちには何も悲しみやショックを受けていないまま、マーちゃんが来なくなったことには動揺して、探 し回りながら涙ぐんでさえいた。マーちゃんが来ないことで小島さんの死を悲しむ方に気持ちが行かなかったのではない。小島さんの死はマーちゃんが来なくな る四日前のことだから、マーちゃんが来なかったこととは関係ない。
 マーちゃんは五日目の夜についにあらわれた。他の猫たちにエサを出していると、Tさんの塀を乗り越えてやってきた。やっぱりマーちゃんはTさんの縁の下 かそうでなくてもとにかく敷地のどこかにいて、私の呼びかけの声も聞こえていただろうに出てこなかったのだ。私が『カンバセイション・ピース』も含めてず うっと書いている、ウィルス性の白血病で死んだチャーちゃんは、本当に底抜けに明るくて気がよくて甘えん坊の性格だったけれど、白血病の治療中(結局治ら なかった)、いいときと悪いときの波があって、体調が悪くなるとあんなに明るかったチャーちゃんが呼んでもじっとして押し入れの中から出てこなかった。 マーちゃんもそれと同じだったということなのだろう。


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