◆◇◆小説をめぐって(33◆◇◆
主体の軸となる現実は……(中編)
「新潮」2007年9月号


 この小説にはもう一人、森本という実加が通っていた美大の同じ造形デザイン科の二学年下で、いまは店舗内装の会社でアルバ イトをしながら、ずっと絵を描きつづけている男が出てくる。彼の絵はときどきCDのジャケットに採用されたり、グループ展に出たりしている(CDといって もインディーズつまり自主製作のCDだ)。
 この森本をめぐってこの小説世界の倫理≠ニもいえることが語られるのだが、それを手際よく書こうとすると、この小説の一読した外見の単純さとはうらは らの複雑さにあらためて気づき、何をどう書こうか手が止まる。私がこれから書くことをきちんと理解したい人は何よりも『主題歌』それ自体を読んでもらうし かない。が、『主題歌』は一見単純に書かれているためにするーっと通り過ぎていってしまうかもしれない(さっきのギャラリーの場合もそうだった)。私はも しかしたら小説の該当箇所本体よりも長くなることを覚悟して書くことにする。
 森本と実加はライブに行く。その会場は「もう千人を超える人が詰め込まれていた」という広さだが、そこに森本はりえという、紹介された瞬間に実加が「彼 女の顔から目が離せなくなってしまった」つまりかわいい女の子もいっしょに連れてくる。りえはローソンでバイトしていて、おもにおでんを売っているのだ が、それはともかく、ライブがはじまって三番目にようやくROVOという目当てのバンドが出てくる。そしてその演奏のあと。

 演奏が終わって、見回すといつのまにかうしろにりえがいた。実加の顔を見るととても楽しそうな顔で、ROVOは宇宙に行けるなあ、と言った。

 この、りえの「宇宙に行けるなあ」の一言がすごい。「貧しさ」の極地だ。
 インターネットのWikipediaで調べてみると、ROVOというバンドは実際に存在していて、
 「1995年、藤井祐二、山本精一らが中心になって「宇宙っぽいことをやろう」ということで結成された。」
 と書いてある。「宇宙っぽいことをやろう」って、もっと言いようがあるだろ! と、ふつうは思う。が、こういう言い方ができてしまう人にはかなわないな とも思う。貧しいのに圧倒的に肯定的で、発言者のイメージがしっかりこちらに生まれるために、他の言葉と取り換えがきかないと納得させられてしまう。
 りえの一言が受け売りであるにしろ、素直な感想であるにしろ、ROVOの「宇宙っぽいことをやろう」がすでに、言葉との関係の終わりではじまりになって いる。ここには確実に、いままで小説が書かなかった人がいる。もっとわかりやすく「言葉を奪われた人」とか「言葉を信じない人」とか「言葉を破壊する人」 とか、言葉との否定的な関係しか持てない人たちならマスコミも取り上げているだろうし、そういうものを情報源として小説に書いている人もいるだろうが、り えのようなROVOのような、「貧しさ」と肯定が同居する言葉は小説家が小説を書こうと思って小説を書いたらそのフィルターにかからない。
 柴崎友香は小説を書く以前に、いまこの日本のどこかに確かに存在している人たちの一員として生活している。そして自分のその生活を裏切らないことをまず 自分に対する倫理≠ニして立て、そこで小説を書く。
 私は「裏切り」という言葉をすでに二回使っている。そんな強い響きの言葉をどうして使うのかと思う読者もいるかもしれないが、小説家がある特定の人たち を小説に書くとき、自分とは別のタイプの人と思って書くかぎり取材対象(作中人物)に対する見切りや類型化が起こり、書かれた側は必ず「歪められた」と思 う。読者がどれだけ「自分とは違う世界に生きる人のはずなのに、激しく共感した」と言ったところで、「自分と違う」という前提があるから共感することがで きるのだ。そして同時に書かれた方は、「本で知ったぐらいで共感なんかしてほしくない」と思う。つまり著者は取材対象でなく読者の側についた。つまり取材 対象を裏切った。(私はここで取材対象が「歪められた」「共感なんかしてほしくない」と思うと書いたが、現実としては、この取材対象(作中人物)たちは自 分について書かれた小説なんか読まない。彼らとはそういう人たちであり、作者もそういうつもりで書いている。それに対して柴崎友香の作中人物たちは自分に ついて書かれた小説を読む人たちだ。この違いは決定的であり、いくら強調しても強調しすぎることはない。)
 これは具体的な誰々の何々という小説のことでなく、小説家にとって書くという行為に内包される出来事の模式図だ。新聞・テレビ・雑誌で話題になった事件 やひきこもりやニートという分類対象となった人たちを題材として小説を書く人たちは、小説家本人がどれだけこの「裏切り」を否定しても裏切りは起こってい る。

 さて、ライブの後、実加、森本、りえの三人は、路地の行き止まりに作られた半分屋台のような店に酒を飲みにいく。そこで大学時代の友人のバンドが、ドラ ム担当が出身地の愛媛に帰ることになったので次のライブがたぶん最後になるという話になる。そしてりえが訊く。

 「それって、こないだCD焼いてもらった人らですか? かっこええのに、もったいない」
 (略)
 「テレビに出てるんとかより、よっぽどええのに。バイトでよういっしょになる子がね、なに聞いてんのかなと思ったらたいがいすごいださいの聞いてんです よ。きみはきみのままでいいんだよ、ずっとそばにいるよみたいなんばっかりで。おしゃれやなと思ってた子がそんなん聞いてたら、がっくりなんですよね」
 (略)
 「ほんま、なんでこんなんがデビューできるんやろとか思ってたら売れたりするからな」
 「まあ、でもリョウジくんらはテレビに出たかったわけやなし」
 今までに行った彼らのライブのことを、実加は順不同で思い出した。彼らもお客さんもいつも楽しそうだったし、その歌を好きな人がたくさんいて、ステージ で全裸になったり楽器を燃やしたり好き勝手やってその全部がよかったのだから、例えばキャッチコピーをつけられたポスターが貼られたり雑誌に載ったりする ことのほうが、実加には想像がつかなかった。
 「そうですけど、リョウジさんらは貧乏でぐっさんも田舎帰らなあかんのに、しょうもないやつらが金もらってると思ったらむかつくやん」
 森本は不満そうに言い、実加にも同じ気持ちはあったけれど、それを認めるのが悔しい気もした。
 「事務所入ってもいろいろめんどくさいって、遠藤くんが言うてたやん。服装まで口出しされるって」
 ときどきラジオで曲がかかるようになった別の知り合いのバンドのことを引き合いに出した実加は、言ってから自分に言い訳しているみたいだと思った。
 「ええー、そんなんあるんですか。ださ」

 りえはこの小説の中で、最強のキャラクターだ。このあと三人の話は、森本のことへと移る。

 「おれ、今誘われてる東京の企画展あるんですけどね、プロデューサーとかいうてるのが美術雑誌の編集してるまあまあ年いってそうな女の人で、あんま評判 よくない、っていうかおれも多少腹立つこと言われたし。きみは見た目もおもしろいから顔写真も出したほうが受けるよ、とか、もうちょっと色を明るくしたら 女の子が買うとか」
 「しょうもな」
 またあっさりりえが言った。
 (略)
 「その人はええことないと思うけど、企画が面白かったら出してみてもええんちゃう」
 「でも、ほかに出すやつもイマイチやし。会場はええとこやけど、なんかね!」
 「森本はすぐそんなん言う」
 実加は大学にいる頃から森本の絵が好きだった。最初に見たときから比べると随分スタイルは変わって、今は森林や野生動物を色がグラデーションになった線 で描いていくシリーズを続けているのだが、その絵の広がりのある風景を実加はとてもいいと思っていた。さっき音楽の話をしていた森本のように、雑誌によく 載っているようなイラストよりも森本の絵がもっとたくさんの人に見られる機会があったらいいのにと実加は思っているのだけれど、森本は自分の中にいくつも のこだわりがあるようで、あまりポピュラーな場には理由をつけて出したがらなかった。
 (略)
 「こないだ、おれの同学年のやつが、テレビ局の人と知り合いになって、ドラマで使う絵を描いてほしいって頼まれてんて。若い天才画家の話やいうて。ほん で、だいぶ後になってドラマ見たら、主役のやつが才能を悲観して自殺する話で、そいつの遺作として使われとって、ほんで最終的に元恋人に燃やされたって。 最悪じゃない?」
 「ひど」
 りえは一言発して、今度は砂肝を食べ始めた。
 「まじで? それはなんぼなんでもひどいやん」
 (略)
 「それとはまたちゃう話やけどさ、おれはちょっと目先のことで使われたりするんちゃうくて、ほんまにおれの絵をいいと思ってる人に、いいって言うてほし いんすよ」
 「うん」
 「そう思ってくれる人に持っといてほしいし」
 森本の言葉に、嘘ではなく肯きながら実加は、今自分が会社でやっている、誰かが作ったキャラクターを商品化するという仕事のことを思った。だけど、森本 のことと会社で作る商品のことがどのくらい関係のあることなのか、ないことなのか、わからなかったし、関係づけるのはよくない気もした。

 テレビに出ること、展覧会に出品すること、雑誌で取り上げられること、それら売れて「ビッグになる」(矢沢永吉)ことが彼らの価値観の中で少しも上位に ないどころか、マイナスになっているとさえ言える。
 知られているかぎりの技術を身につけ、すでに存在する世界のなかで自由にふるまうのは、第一段階である。バッハの時代には、ここからかれ自身の発明にむ かう道は連続していた。むしろ、学習と発明は、おなじことの両面にすぎなかった。音楽活動が村や町を単位にかんがえられている時代には、意識がその両面に 分裂することなく、バランスをたもち、音楽家は無名にとどまっていることができた。(『高橋悠治/コレクション1970年代』「小林秀雄「モオツァルト」 読書ノート」)

 純音楽の自立とともに、音楽をきく人間は聴衆という「うけいれるだけ」の非専門家大衆として固定される。彼らには芸術をつくる場面に参加する権利は認め られないだけではなく、音楽の全体をうけとることさえ拒否されている。劇的な対立による音楽自体が、聴衆を感情的にだけ操作し、知的な理解は専門家にまか せるようにしむけているのだ。(同書「ベートーヴェンとその影」)

独立した劇的世界となった音楽は純粋娯楽になった。現実の力をうしない、非現実の力になろうとする、または、日常的現実の部分であることをやめて、非日常 的世界の全体になろうとする。音楽は現実をわすれさせるための魔法である。(同書同項)

 こうして高橋悠治の文章を書き抜いて並べてみると、何かを表現することについて森本や実加は同じ方を向いていることがわかる。倫理≠ニいうのはこのこ とだ。森本や実加たちにとって、何かを表現することとは自分が信じるところを裏切らずにつづけることなのだ。脚光を浴びて大金が自分のまわりで動くように なったら、自分がやりたいことが歪められてしまうことは避けられない。
 この小説には音楽や絵をやっている若い人が直接間接に登場するが、彼らは全員、専業のミュージシャンや画家になりたいと思っていない。自分が「それだけ で食っていけるほどに成功できない(または、才能がない)」とあきらめているからそう思っているわけではない。金が動くシステムの中に組み込まれてしまっ たら自分の信じるところをやり通せないことを知っているから専業になりたいと思うことができないのだ。
 「ださ」「しょうもな」「ひど」と、りえが最強の発言ができるのは、りえが若くて金が動くシステムの中に入らずにやりつづけることの困難さまで考えずに 済んでいるからだろう。
 そういうことはわかっていても、りえの発言は著者の柴崎友香にも突き刺さるものがある。かわいくて一番いまどきの女の子として登場させてはみたものの登 場人物に対して十全な能動性を発揮できない著者としては、花絵の個展のときのような知的でない態度に徹してはいられず、素≠ェ出て、森本の絵について 「最初に見たときから比べると随分スタイルは変わって、……」と何が描かれているかだけではない説明まではじめてしまう。
 私はこういうところが大事だと思う。評論家的な一面的な言い方をすると破綻≠ニまではいわないにしても破調≠ニいうことぐらいにはなりかねないが、 これは作品世界と現実との結び目≠ネのだ。
 森本はフリーターでなく、画家だ。画家としてアルバイトをつづけている。しかし、何かに妥協して路線転換しないかぎり彼はきっと一生、画家としてアルバ イトをつづけるか、画家であることをあきらめるかのどちらかだろう。
 では小説家である自分はどうなんだ?
 というのが、この結び目≠フ意味だ。この問いかけは、取材対象(作中人物)と一線を画している小説家の中からはもはや起こらない。これは作品世界の中 では解決されえない問いかけだ。作品世界と現実との結び目≠ェ作品世界の中で解決されたら詐欺だ。問いかけとしてそのまま出てこないかぎりこの問いかけ は問いかけにならない。

 柴崎友香にとって、音楽や絵をやっている人がどうつづけていけるか? 専業の小説家になった自分は彼らとどういう関係をつづけていけるか? ということ は、この小説一作の中で完結する問いではなく、小説家であるかぎりずうっとつづいていく問いだ。だからこれから書かれる作品の中でもいろいろに形を変えて この問いはくり返されるだろう。
 それに対して、表面上のテーマであるかわいい女の子の話はこの小説一作で終わる可能性が高い。おもしろい話ではあるが、「そういうこともあるんだね」と いったところでしかないのだが、しかしやっぱりこれはこれで油断して見過ごすわけにはいかず、いわゆる近代小説から逸脱した様相を見せる。
 後半、実加が「女の子カフェ」を企画する。理由は明確にされないまま、
 「急に実加は思いついた。女の子の友達をみんなうちに呼んでみよう。そうしたら、りえちゃんを花絵や小田ちゃんにも紹介できるし、別の友達を連れてきて もらったらわたしもかわいい女の子に会える。」
 としか書かれていないけれど、その少し前に、実加の務めるデザイン課でアルバイトとして働いている愛という女の子が恋人とうまくいっていなくて元気がな いということが書かれている。その夜、実加は愛への心配から気持ちが解放されないまま一人で梅田の地下街に入り、情報誌で紹介されていたアジアの麺類を出 す店で夕食を食べたのだが、食べながらこんなことを考えていた。

 周りの人たちにも次々と料理が運ばれ、赤いスープのラーメンや担々麺や、実加と同じフォーがテーブルに丸く並んだ。彼女たちはそれぞれ、携帯電話を見る か、もしくはなんとなく手持ちぶさたに店の中を見回していた。右斜め前のクロエのバッグの女の人をちらちら見ているうちに実加は、この人小田ちゃんに似て るかも、と思った。まぶたの薄い目に細い鼻。あのバッグ、小田ちゃんもほしいって言ってたし、と考えていると実加は、だんだんとその女の人に話しかけても いいような気がしてきた。そのバッグ、いいですよね。だったら、左の人にも聞いてみようかな。そのワンピースめっちゃかわいいと思っててん。いいなあ。そ うしたら彼女もわたしに、その赤い眼鏡かわいいねって言うかもしれない。じゃあ、向かいの女の子には、就職活動? どんなとこ受けてるの? 小さい目にア イラインの濃いアジアな格好の子に、今度友達とインドに行こうって言うてるねんけど行ったことある? パーカのぽっちゃりさんは、あまり共通の話題はない かもしれないけど……、このフォーおいしいよね。

 実際にこういう会話が起こったわけではないけれど、実際に起こったようにして実加の心の中で時間が流れ、そして「女の子カフェ」をしようと思うにいた る。
 花絵の個展のギャラリーでの引用の波線部に戻って、あそこをもう一度読み返してほしいのだが、小田ちゃんはかわいい女の子の一生懸命の状態に対して、実 加は花絵の何ヶ月かを費やした時間とその気持ちに対して、つまり自分ではない人の内面をまるで自分のことのように感じることで感動している。ものすごく単 純な言い方をすれば、自我の境界が弱いのだ。
 女の子がかわいい女の子に惹かれるという、これはナルシシズムという言葉を連想させる。ナルシシズムという言葉でかわいい女の子に対する実加や小田ちゃ んの心理を解釈すると、かわいい女の子に自己を投影させて自分に対する問いを棚上げにしておく、ということにでもなるだろうか。
 しかしところで、ナルシシズムというのは心のどういう状態を言うのか。私が理解しているのはひじょうに大ざっぱなもので、自己の全能感を疑わず、自己の 願望が他者や外界によって妨害されるとは毛ほども思わず、他人も自分の欲するところを欲すると思っている、他者が存在しない状態、というようなことだ。こ れを実加や小田ちゃんにどういう風に当てはめていいか私にはわからないし、あてはまらないんじゃないか? と思う。理論や概念は雰囲気で当てはめることは 簡単だけれど、厳密にやろうとするととても難しい。『ナルシシズム入門』(中山元編訳、ちくま学芸文庫『エロス論集』所収)の中でフロイトがこういう興味 深いことを書いている。

すなわち、自己のナルシシズムを最大限に放棄して、対象愛を求めようとしている男性にとっては、ナルシシズムをそのまま維持している人物が、非常に強い魅 力を発揮するのはたしかだろう。子供の魅力の多くは、そのナルシシズム、自己満足性、近づきがたさによるものである。また、われわれのことなど眼中にない ようにみえる動物たち、たちえば猫や大型の禽獣などの魅力もこれと同じ根拠で生まれるのである。あるいは、詩的な作品に描かれた極悪な犯罪者や諧謔家[か いぎゃくか]が読者の興味をそそるのは、こうした人物には、自分の自我を貶[おとし]めるようなすべてのものを遠ざけておくナルシシズム的な一貫性がある ためである。あたかもこうした人物は、われわれがすでに捨て去ってしまった幸福な心的状態を維持し、リビドーが傷つけられない状態を保持していることを、 われわれは羨むかのようである。

 ここを読むと、実加や小田ちゃんの気持ちはナルシシズムではなくて、ナルシシズムへの郷愁ということになるのではないか。
 この小説では女の子がかわいい女の子に心惹かれるということになっているから女の子限定の現象のように思うかもしれないが、つい最近私も実加や小田ちゃ んとよく似た気持ちを経験した。生後一ヵ月ぐらいの子猫が三匹ぐらいで無邪気に楽しくじゃれ合っている映像を見ているうちに涙が出そうになってしまったの だ。
 ここに映っている子猫たちはこんなに無邪気で幸せだけれど、この子猫たち全員がこれから先何年もこの幸せな状態でいられるはずはないし、いずれは全員に 死が訪れる。この子猫たちがこんなにも楽しい時間を過ごしている同じ時に虐待されて脚を切られる猫もいるし、母猫が交通事故で死んで空腹で寝ぐらから出て きてチャーチャーというような高い声で鳴いている子猫もいる。それは皇室の「今日愛子様が何歳のお誕生日をお迎えになりました」というニュースが流れる同 じ枠で虐待で死んだ子どものニュースが流れるのと同じで、この時間の無邪気な幸福には生き物として不可避の不幸と誰かの努力によって避けられるはずの不幸 の両方がぎっしり詰まっている。――と、こういうことが無邪気にじゃれ合う子猫の映像を見ている私の中にどっと押し寄せてきた。
 世界に不幸があふれていることは知識としては当然知っているけれど、それらの知識だけで気持ちが動揺することはない。しかしそれを堤防が決壊するように リアルに感じてしまう媒介が誰にでもきっとあって、あのときの子猫の映像が私にとってはその媒介だった。
 あのとき出そうになった涙(結局出なかったが)は、誰の何に対する涙なのか。やっぱり子猫の無邪気さや幸福に対する涙なのではないか。その無邪気さや幸 福の中にこの世界の非常な掟が内包されているにしても、やっぱり無邪気さに対してなのではないか。
 作中実加が、自分たちのかわいい子好きは男の人たちが松田優作やサッカー選手について熱く語るのと同じなのかどうか考えてみるところがあるが、それとは やっぱり違う。あれは理想の自己像を求める男の子のものだ。というか子どものものだ。ナルシシズムというならこれこそがナルシシズムだろう。実加や小田 ちゃんは悲しみも含めて見ている。

 「女の子カフェ」には実加の直接の友達だけでなく友達の友達も集まる。そこに集まった女の子たちはやすやすと仲良くなってうちとけて話をする。
 ここでこんなことを書くと、ナルシシズムか否かとか、どういう涙なのか、とか考えたことが宙に浮いてしまいかねないが、事実としてホームパーティーのよ うな場所で、女たちは男たちよりもずっと簡単にうちとけることができる。小説の題材にするには平板すぎるために小説では避けられがちなことなのだがそれは 事実だ。生まれつきなのかこの社会によって教育された後天的なことなのかはわからないが、とにかく私が知るかぎり、男同士が心のバリアーを解かずにもたも たしているあいだに女たちはわいわいはしゃいで料理を作ったりしている。男たちだってキャッチボールとかサッカーとかをはじめれば女たちと同じようにたち まちうちとけられるのだが、あいにくそういうものがない……。
 事実がこうだから梅田の地下街で一人で食事しているときの実加の気持ちなどわざわざ私が引用する必要もなくなってしまいかねないのだが、実加や他の女の 子たちが相手への共感や信頼を前提として生きているというのは指摘しておいた方がいいだろう。
 この共感や信頼は裏切られない。そういう展開が平板だとか都合がよすぎるとか思う人はきっとここに何らかの諍いや軋轢つまり教室内のいじめのようなこと が起こることをリアルと判断したいのだろうが、そうなる原因や動機はまず間違いなくくだらないものだ。人が楽しく語らっているとそれをしらけさせたくなっ たり、人が成功すると一緒に喜ばずにねたましいとしか思えなかったり。
 しかし実加の周囲の人たちは基本的に全員が野心≠ニいういままで文学がさんざん取り上げてきた、自我や能動性を疑わない、一本調子で、自分の社会的成 功のためには家族も親友も犠牲にすることを辞さない(例:モンテ・クリスト伯、桂春団治)ようなやり方でなく、かつてブルーハーツが歌ったように「なるべ く小さな幸せとなるべく小さな不幸せ」をいっぱい集めるようなやり方で自分の信じるところを投げ出さずにやりつづけていこうと思っている人たちなのだ。 はったりをきかせて世の中を渡っているごく一部のアーティストを除いて、大半のアーティストは美術の流れと自分の身体性との関係の中でとても繊細な作業を 日々積み重ねているという現実はここでやっぱり思い出す(そういう現実を知らなかった人は、いま知る)べきだとも思う。
 この小説世界に軋轢が存在しないことを否定的に批評する人がいたらその人こそ自分が学習してきた文学の流儀に縛られているというかしがみついている。そ うであるかぎり「下流」は否定的なグルーピングでしかない。小説を書くということは社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。それ がこの小説で過剰≠ニ見えるとしたら若いアーティスト達の生きる現実への著者の共感ということだ。もうここまで来ると「貧しさ」という一語で語ったつも りになるのは押しつけがましすぎるし、「貧しさ」の意味が多様になりすぎているけれど、その領土では「貧しさ」こそが武器となり拠り所となる。
 女の子カフェがそろそろ終わりに近づいた頃、実加と一緒に暮らしている洋治がたぶんもうみんな帰った頃だと思って帰ってくる。洋治は自分はちょっと場違 いだなとためらいつつ実加に土産を差し出す。

 おずおずと差し出されたのは、金色の缶に入った花椿ビスケットだった。実加は、まわりの状況に遠慮したけれど、ほんとうは洋治に抱きつきたいぐらいうれ しくて、もう満腹すぎるほどであとで気持ち悪くなるだろうと思ったけれど、絶対においしいと言って食べようと思った。

 この実加の、決意≠ニ言っても言いすぎにならない気持ちは素晴らしい。
 いままで文学で書かれてきた印象的な光景や言葉に匹敵する一節だと思う。私はここまでいわば積み上げ式に書いてきたけれど、無造作に置いたらただのバカ とも思われかねない、しかしりえの言葉にも負けない強さを持ったこの一節を私の今回の文章の冒頭に置いて、すべての考察の中心にこの一節があるような書き 方をすることができたらもっとずっといいものになっただろうと思う。
 二二四ページで私は「自我の境界が弱いのだ」と書いたが、整理しなおすと自我の境界が弱いのは原因でなく結果としての状態であり、この一節に代表される 実加や他の人物たちの――この一節は実加の気持ちだけでなく他の人物たちの気持ちのあり方も代表している――世界との関わり方によるものなのだ。

(つづく)




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