◆◇◆小説をめぐって(33◆◇◆
主体の軸となる現実は……(後編)
「新潮」2007年9月号


もう一冊、青木淳悟の『いい子は家で』だ。
 わりと最近のことなのだが、ある友達に、
 「カフカっていうと現代人の深層に潜む不安だとか『変身』の虫は何を意味するとか官僚機構のなんたらかんたらとしか言わないヤツらがいるじゃないか」
 と言うと、その友達は、
 「でもカフカをそれ以外の読み方ができるの?」
 と言うのだった。
 そういう人が青木淳悟を読んでもどこもおもしろくないだろうし「何を言おうとしているのかわからない」だろう。小説が何かを言うための表現形式だと思っ ている人は主体が中心から外れている感じがわかっていない。何かを言うためには言葉を使うわけだが言葉というのはほとんどが状況の中での慣用表現によって できている。カフカについて「現代の官僚機構を先取りした」と言ったとしてもカフカを読むうちの特定の読み方に対応した慣用表現にしかなっていないのだか ら、その範囲内で頭なり意志なりを使っているだけで、その外には出られない。
 私はまたまたパソコンのトラブルがあって(今回はメールの機能がおかしくなった)それでそろそろ締め切りが近づいた今日、電話サポートの説明を二時間受 けながらあれこれ修理したりしたのだが、パソコンの電話サポートの人たちの言葉がパソコンを使うという限定の中でしか通用しない言葉だと言うことは誰でも わかってそういう用語を使っている。
 私は自分のパソコンのメール機能にいったい何が起こったのかわかっていないのだが、とにかく症状を説明するとサポートの人が、「ではまず左上のファイル を開けて『インポートとエクスポート』をクリックしてください」「次に××を××して……、あ、ダメですか。ではそれは一回閉じて」という風に、状況に合 わせて、こちらのパソコンが見えているわけでもないのに、複雑に枝分かれしているマニュアルを踏破してゆく(なんともアナログなイメージだが)。これはも うなまじの知識ではないと素人の私は感心するのだが、だからといってこの人の知識や能力がパソコンの外にまで及んでいるとは思わない。
 戦争とか軍備の本もこれと同じで、中国の兵力がこれぐらいで、日本の防衛力は現状これこれこうなっているから、こういう風に攻められてきたらひとたまり もないとか、歴史上戦争というのはこういう条件が揃ったときにはじまっていて、それを現在の日本周辺に当てはめると条件はすべて揃っているとか、戦争にま つわる用語や概念を並べて軍隊の必要性を説かれるとこっちは反論のしようがない。
 しかしそれは当然のことであって戦争の資料というのは本質において戦争を不可避とする思想においてしか作られていず、その外はない。戦争の資料で、これ だけの条件が揃ったときに歴史上戦争が起きてきたといっても、すべて戦争が起きた資料から導き出した条件であって、その視点からは同じ条件が揃ったときに 戦争が起きなかったケースは漏れているのだし、それより何よりかつての世界経済と現在の世界経済はつねに違うのだから本当いって歴史からは学びようがな い。
 パソコンの電話サポートの人も軍備の必要性を説く人も、自分がしゃべっている(=属している)言葉によってしゃべらされているという仕組みから見たら同 じことだ。カフカの小説を「現代の官僚機構を先取りした」と読む人もそれと同じことをやっていて、そういう読みをする言葉によってしゃべらされているだけ なのだが、世間ではふつうそういうしゃべりを意志と言ったり主張と言ったりする。
 小説は人が自分の意志でしゃべっていると思い込んでいる言葉がそれぞれジャンル化されたグループの言葉であって、意志というのがその言葉の機能の産物で あることを明るみに出す。『城』でKがいつまでたっても城にたどりつくことができないのは、城の組織が複雑で融通がきかないからではなくて、――一例とし て挙げれば――城に関係している人たちがそろいもそろって「最もとるにたりないと見えるものの中にこそ重要なことが隠されているのです」という論法を操る からだ(現実の役人はこんな論法を操ったりしない)。
 柴崎友香の『主題歌』では、著者は登場人物たちが属しているグループの言葉や価値観や志向を相対化する外からの視点を介入させずに書くことによって、社 会に流通している言葉につかず、既存の文学の言葉につかず、それらによって否定されることを肯定に逆転させた。
 青木淳悟においてはすべての言葉がまがいものの様相を呈する。言葉だけでなく時間や空間といった人間にとっての象徴的秩序の全体が、特異な身体性によっ ていったん解体されて、まがいものの時間と空間に変容すると言ってもいい。
 まずこれは『いい子は家で』の表題作の冒頭だが、ぜひとも注意深く読んでほしい。

 飲み遠出[とおで]、飲み遠出と、「そこそこの関係」というものをつづけてきて、都内で飲んだ帰りの終電車をうっかり逃がした夜、宮内孝裕[みやうちた かひろ]はようやくその女ともだちのマンションルームにたどり着いたのだった。
 それまでは飲み明かしたりすることもなく、遠出といってもたんに海岸まで出てみるとか、山麓やら湖畔やらを半日かけて巡ってみるとか、いいとこせいぜい 日帰り温泉に行くくらいが関の山で、家族が車を使わない日にキーを借り受けて関東周辺をドライブしていたわけだが、車を出して翌日まで戻らない、というよ うなことは一度もなかった。車での一泊旅行となれば親に反対されかねないし、賛成なら賛成でいろいろと問い質[ただ]され、いい含められ、ひどく大がかり なことになるのは目に見えていた。気晴らしをしに行くのに、それでは家を出る前に疲れてしまう。
 この穏やかな家庭に波風を立てたくない。孝裕は親の前で自分の交友関係を口にするとき、女ともだちというべきところを男ともだちという言葉に置き換えて 話した。東京で一人暮らしをしている、いっしょに飲んだり出かけたりする間柄だ、彼とはこれからも仲よくしていきたい。
 そんなある日のこと、家にはみんなで花見をすると言い置いて女ともだちと二人で会い、遅くなりそうだから夕食はいらないと途中で一度電話を入れ、休日運 行の終電車に乗り遅れていよいよ外泊するとなったとき、孝裕はふたたび電話で仲間の家に泊めてもらうと、半分は本当のところを報告した。それからも二度三 度、なにかしらの理由をつけて朝帰りをしていたが、そうした親への配慮が煩わしくてそれ以後泊まりはなしになった。

 出来事は必ずある時間(日時)の中で起こる。ここでは「出来事」というほど大げさなことでなく外泊という「行為」程度のことだがそれを語るにはこの書き 方はおかしい。
 なされた行為を語るところでいきなりそこに至る経緯と事情が語られ、それにごまかされて特定されるべき行為とその日時がずるっとずれてしまう。要点だけ 書くとこういうことだ。

 「そこそこの関係」をつづけてきて、都内で飲んだ帰りの終電車をうっかり逃がした夜、宮内孝裕はようやくその女ともだちのマンションルームにたどり着い たのだった。
 それまでは飲み明かしたこともなく、遠出といってもせいぜい日帰り温泉に行くくらいだったが、ある日のこと、いよいよ外泊することになった。それからも 二度三度朝帰りをしていたが、親への配慮が煩わしくてそれ以後泊まりはなしになった。

 さらに骨子ということでは破線部分だって省略できる。骨子の骨子はこういうことだ。
 「ようやくたどり着いたのだった。
 それからも二度三度は外泊したが、それ以後泊まりはなしになった。」
 何言ってるんだこいつは。
 ようやくたどり着いたといってるのに、その話をしたいんじゃなかったのか?
 ということだ。
 たとえば高校生の息子が玄関で靴をはき終わってグラブとボールを手にすれば親は「野球しに行くの?」と訊くだろう。しかしそこで、
 「新宿まで買い物。」
 と答えるようなものだ。
 で、息子は本当に新宿まで買い物に行くのだが、気がつくとちゃんとグラブをはめている。そしてグラブの色がどうでサイズがどうでということまで説明す る。この小説は喩えていえばそういう風にできている。
 さて小説はこうつづいてゆく。

 親といっても母親だった。家というのも母親の待つ家のことだ。家族は四人いるにはいるが、父親は仕事で毎晩帰りが遅いし兄はとっくに家を出ていた。母親 が家で一人夕食を用意して待っているわけで、ごく自然なこととして夜は帰るようにしていたのである。
 自宅から電車で小一時間かけて都内のマンションへ通い、だいたい夕食時までには帰宅する、という往復がくり返される。会いに行くのは週三日が限度とな る。電車とはいえ交通費はばかにならない。家を出るだけでほかにいろいろと金がかかる。いまだ小遣いをもらう身で、しかも預金通帳を見られているため、彼 としては急にその残高を減らすわけにはいかなかった。
 支出面のことにかぎらず、いまや彼は行動全般に気をつけるようになっていた。秘密主義を貫くのには細心の注意が必要だった。
 以前、出先で脱いだ靴下がなかなか見つからなかったことがある。彼がそのとき心配したのは「もしこのまま素足に靴で帰宅したら」ということだった。ドア の音を聞きつけた母親が玄関に顔を出さないともかぎらないのだ。父親の帰宅とかんちがいして廊下の端まで出迎えに。それからというもの靴下だけはどこに 行っても脱がないようにしていたのだが、あるとき母親が、
 「どこを歩けばこんなに裏が汚れるんだろうねえ」
 とその靴下を洗面所で手もみ洗いしていた。どこをといわれ、いくら掃除をしても綿ぼこりの溜まる、あのマンションルームのフローリングを歩くからだと気 づき、彼はやはり靴下を脱ぐことにした。(傍点原文)

話がどこに向かっているのかまったく予想できない。
 親の話? やっぱり女ともだちと会う話か。預金通帳? 秘密主義? ということはやっぱり女ともだちか。靴下? 素足で帰宅? バカか。そしてこの小説 での最初の、改行されて「 」で括られた会話というか声。それは母親の声だ。が話はまたまた女ともだちのマンション。
 こんなこと逐一書いていったらいつまでたっても終わらないが、この本筋のつかめなさを楽しめなければこの小説を楽しむことはきっとできない。音楽やス ポーツを考えてみればわかりやすい。小説だけが読み終わった事後に全体として考えればそれでいいというのはおかしい。この小説と比べて私たちはふだん何と 動きの悪い思考で生きていることか。意味というのは動きの悪い思考に生まれるんじゃないだろうか。
 思考の澱みとしての意味。
 「よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結び久しく止まりたるためしなし。」
 という『方丈記』の一節も、思考の隠喩だと言われればそういう気持ちにもなる。
 しかしそういう小説にいったいどんな意味があるのか? と、まだ訊く人がいるとしたら、そこであなたがほしがっている意味≠ニいうものが、自分がしゃ べっている言葉の秩序や法則によってしゃべらされているだけのものだというさっき書いたことをくり返すしかない。この小説はそういう意味≠脱臼させ て、読者を意味≠ゥら離れた世界に連れ出し、読者はそこで、「主体は個体と同じではない」こととか「主体の軸となる現実は自我の中にない」こととか「意 味の全体系は人間の中にはない」ことなどを発見するだろう(うまくすれば)。

 しかしそれにしてもこの小説はまるで好きな音楽のCDを毎日くり返し聴いても飽きないように、読むたびに発見があるのだが、その複雑さは周到に作り込ま れたものではないような気がする。周到に作り込まれたものの場合、読み込むうちに著者が意図した正解のような、ある程度図式化された、つまりわりと単純な 言葉で指し示せるものが浮かび上がってくるのだが、それがあるようには思えない。いまの私にはとりあえず作者の特異な身体性と言葉・時間・空間という秩序 との関係によるものという風にしか言えないけれど、その「特異な身体性」というのがそもそもどういうことなのか、身体がすでに統合されたものではなくて、 幻想のようなものとしてバラバラになっているのではないかという気がする。
 引用部分で靴下が見つからなかった。そこで今度は靴下を脱がないようにしていたら、母親から「どこを歩けばこんなに裏が汚れるんだろうねえ」と言われ る。ここで読者は彼の靴下の裏を母親がつねに見ているような気分にならないだろうか。彼の行為の持つ全体的意味を理解しないただの目として母親が靴下の裏 だけを彼がどこにいても見ているのだ。
 靴下からはじまって母親は彼の服を洗濯しはじめる。もちろん母親はそれ以前から彼の服を洗濯していたわけだけれど、この小説では書かれたときにそれが開 始される。しかし服を洗濯する母親はどこが汚れているなどと特定する目は持たず、ただ漠然と着たから洗濯すると機械的に動いているだけだ。それはそれで彼 には圧迫なのだがそれは彼に女ともだちと会うために外に出るという下心があるからだ。というか、彼に下心があるから、「いい服だからちゃんと洗ってあげな くちゃ」「どうせまた着替えるんでしょうに」などの母親の言葉が意味を持つ。あるいは彼の下心に応えて母親がそう言う。

 孝裕はここのところ頻繁に外出するようになって、あらためて母親の異能力というものを意識しはじめていた。(15ページ)

 と書いているが、それにつづく「まだなにもいわないうちから知っているとか、隠しても見抜かれてしまうとか、気づいたら自然に仕向けられていたとか、そ ういうところがむかしからあった。」というのは、本当に「むかしからあった」などまったくアテにならず(だいたい引用部の「ここのところ」というのがいつ のことなのか、前後からまったく特定できない)、しかし彼の妄想だと断定できる根拠はなく、「そこで彼は家事動線というべきものを念頭に置き、母親がどこ でなにをしているかを絶えず探りながら」彼の行為はなされるのだから、彼と母親の二人の共同作業と考えるべきなのではないか。「人間は人間の中になどな く」「主体を実体化しないこと」が肝心なのだと考えれば、彼と母親のあいだで起こっていることは、どちらか一方に原因があったり妄想があったりするわけで はなくて、彼と母親の二人の関係によって起こされているのだ。
 私は小説を読むのに大げさすぎる刀を振りかざしているわけではない。ある行為なり出来事なりが起こるときには、誰か一人が原因なのではなく(日常のワイ ドショー的思考ではそういう特定をしたがる)、その状況にいる全員、風景の全体がそれを引き起こしている。ワイドショー的思考につく小説は読者を得やすい が、すぐれた小説は原因が特定できる思考から離れる。
 たとえばキャッチボールをしている二人は、投げる人と捕る人が交互に入れ替わるということをしているのではなくて、ボールを含めた三者によってキャッチ ボールというひとまとまりの循環を形成している。あるいはクモは枝と枝の間に張り渡した巣を含めてクモという活動をしている。クモとクモの巣が切り離され た二つの物体なのではない。そしてクモはその場所から離れるときには蛇が脱皮するように次の巣に移ってゆく。柴崎友香の小説の登場人物たちもそれぞれ周囲 の人たちと、キャッチボールのようなクモの巣のような関係を形成している。

 洗濯する母親は洗濯対象にしか関心を示さない。彼は汚れの原因が追究されることをつねに怖れているけれど、母親の方は洗濯で何が起こったかという現象に しか反応しない。
 靴の中が臭いといわれて彼が消臭除菌スプレーを使うようになると、「布地の撥水が信じがたいほどよくなって」、洗っていると水の玉ができるようになって しまう。母親は彼をわざわざ外の水道まで呼び出す。そして、
 「これをこうして、こうして、こうすると、あら不思議!」
 と言って、彼の前で自分の驚きを再現してみせる。が、母親はその原因にはまるっきり興味が向いていない。
 しかしこんな水の玉にまで母親の見る力は存分に発揮されているわけで、彼が玄関で靴をはくためにつま先を床にトントンしていると、
 「靴の裏がだいぶすり減ってる」
 と、ただの視力では納まらない見方をする。視線が物と化して靴の裏にぶつかるような、視線によって靴がつかまれて靴底が見えるように裏返しにされたよう にさえ思える。この瞬間に彼の足の裏から母親の視線が生えたのだ。彼がクモで母親の視線がクモの巣になる。この二つを切り離して考えてはいけない。
 視線とのそういう関係があるから48ページでの、彼の体の変容が起こる。見られることによって身体の感覚の全体が視線化したから、床に落ちたバターをな めたときに、「口内の感触ばかりか喉元を過ぎた先の様子さえ、人体解剖図でも見るかのようにありありと目に浮かんで」きてしまうのだ。
 この小説では彼も父親も変容する(兄も変容するが兄の場合は小さい)。そういえば母親だけが変容しないが、これはすでに母親が家全体の機能と化している からだろうか。しかし彼のこの箇所での変容を除いて、私には変容の意味や原因がわからない――と、ここで私はわかるために音楽を聴くような楽しみから「意 味」や「原因」に頭のモードを不本意にも切り換えてしまっているのだが――。
 いや実際、この小説にはわからないことがいっぱいあるのだが、自分が読めた範囲内でこれだけのことを書いている小説家の書いたことでわからないところが あるからといって、「よくわからない」とか「おもしろいと思えない」という判断をしてそれですませてしまうのは傲慢というものだ。
 たとえば父親がアラジンの魔法のランプから現われる怪人のように巨大化するところがあるが、煙草→(黒い)煙→アラジンの魔法のランプというような単純 な連想なわけではないだろう。しかし、こういう身体の変容を作者の青木淳悟本人がかりに、たびたび夢で経験しているのだとしたら、本人には連想の元となっ た手がかり(気がかり)があるはずで、その手がかり(気がかり)が夢を見た本人におもしろいという気持ちとして訴えかけてくる。そこが欠けていると私は思 うのだが、もっと読むとこの小説の離れた思いがけない箇所と響き合っているのかもしれない。しかしそういう手がかりが何もないのだとしたら、父親の変容は ただのファンタジーになってしまう。ファンタジーくらいこの小説家に似つかわしくない方法はない。
 柴崎友香の『主題歌』についてもこの『いい子は家で』についても、カン違いしないでほしいのだが私は批評しているわけではない。書く行為が形成するサイ クルの一環としての「読む」を実践しようとしているのだ。無理解な人に対しては布教か伝道といってもいい。この連載で取り上げている小説に対する私のポジ ションは一貫してそうで、「書く」が形成するサイクルの一環として読んでいるのだ。ラカンがフロイトについてしつづけたことと同じことを私は小説に対して しているというわけだ。

 というわけで、わからないことは現状保留にしておくしかないから、次に収録されている『ふるさと以外のことは知らない』に移る。『ふるさと』は『いい 子』よりもずっとまとまりがよくやっていることがはっきりしている。この本を読むには二作目の『ふるさと』から読む方がいいんじゃないだろうか。
 こちらでも家族は、母親、父親、長男(太郎)、次男(次郎)の四人だが、話はほぼ母親に絞られる。というか、母親と家の話になる。そして家があの手この 手で、たとえば同じ建物に住んでいても人間と猫とクモとでは経験され方が全然違うように、私たちがいままで経験したことがないような風に経験される。
 象徴的機能が機能していれば我々はその内部にいることになり、さらにもっと言えば、我々はあまりに内部にはまりこんでいるためにそこから抜け出せない ――と、ラカンが言っている(みなさん、今回の二人の小説を読むに際して、ぜひラカンの引用をくり返し読んでください(ラカンの口調で))ようなことがこ の小説で起こるのだが、この作者はふつうの人が「あまりに内部にはまりこんでいるために何も見えなくなる」のに対して『あまりに内部にはまりこんでいるた めに驚くほどよく見える』。ここで二つの事象をつなぐ接続詞が順接か逆説かなどどうでもいい。

 『ふるさと』では家族のことがひととおり語られたあと、平日の昼間、ひとりで家にいる母親に同年配の主婦から誘いの電話がかかる。それは「自転車でおよ そ十分の範囲に住む、子どもの同級生の母親や生協の組合員や趣味サークルの仲間」だ。母親は、
 「じゃあ、十分で行くわ」
 と答え、茶だんすの引き出しから、これ以前にこの小説でさんざん説明されているところの、この家では母親しか所持していないところの玄関の鍵を出す。そ して二本の鍵のうちの一本を郵便受けの中に入れる。
 と、郵便受けの外観について、「郵便受けは塀に埋めこんだつくりつけのものであり、鍵の出し入れは塀に囲われた内側で行われる。仮にもしこれが塀のない オープン外構の家で、郵便受けも玄関先にポールを立てたアメリカンポストのようなものだったとしたら、……」と説明がはじまり、郵便受けからはじまった話 が、「二十坪程度の土地が塀とアルミフェンスによって囲われている。家屋は正面に向けて、前面の道路に向けて建てられている。こうした住宅地にあって は……」と家全体の話へと移りつつ、
 「そしてこれらは家族のイメージと結びつきやすい。家の新築時にはこの構図で家族の写真さえ撮られている。
 ここにその写真がある。記念すべき一枚だった。
 母親が抱いているのはまだ就学前の次男で、(略)ポーチの屋根を支える柱などが比較的立派に写っている。玄関まわりをフレームに収めんがため道路上に しゃがんでカメラを構えた父親の、その意図をもふくめた一枚としたい。
 そんな趣向の写真は過去に何枚もさかのぼることができ、アルバムをめくればそこに一家の移住の変遷が浮かび上がる。……」
 と、そこから先は、この家族がここを購入するまでの引っ越しの歴史、ここを選ぶにいたった地理的与件や都心からの離れ具合、この新たに造成された分譲地 が、「行政による開発許可のいらない一〇〇〇平方メートル未満の小規模な開発で農地に細長く切りこむように造成された宅地は、現地見学の段階では境界と土 止めを兼ねたブロックが分譲区画を囲っているだけの殺風景なものだったが、そのなかの四角い地面は次代にも残すことのできるまぎれもない資産となる」こと などが語られていくのだが、いったいこの小説の話者は誰でどこにいるのか?
 二ヵ所の傍線部で話者が姿をあらわしたかに見えるが、その話者は宅地開発の法規の文面そのままにしゃべったかと思うと、「次代にも残すことのできるまぎ れもない資産となる」などと、不動産広告の文面そのままにもしゃべったりするような話者なのだ(話者は著者ではないことに注意)。「超越論的偏見によって 無意識についてのある種の実体験的観念に向かっている」とラカンが指摘するように、この話者を人間のような形をもった実体と考えてはいけない。この小説の 話者とは、社会のいたるところでジャンル化されて、パソコンに特化したり、戦争に特化したり、不動産に特化したりしている言葉の集合体、というよりむしろ つぎはぎなのだ。
 そのような家にまつわる話が一段額すると、
 「(外出の予定を書き込む)手帳が一年の命だとするとカレンダーはひと月の命。ましてそのカレンダーにも書き出されない「用事」のほうが圧倒的に多い。 預金通帳を持って銀行へ行くにしろ貯金通帳を持って郵便局へ行くにしろ、とくに平日の日中は家族にわずらわされることなく活動ができるわけで、メモ帳に伝 言などを書き留めずとも気軽に家を出られるのだった。」
 と、母親の外出シーンへと戻るのだが、この外出はさっきの外出と同じではない。……が、しかし、さっきの外出も、「じゃあ十分で行くわ」という、母親の 声がしていながら会いに行く相手は、「およそ十分の範囲内に住む、子どもの同級生の母親や生協の組合員や趣味サークルの仲間」であって、誰とも特定されて いなかった。つなぎの言葉が「や」であって「か」でないところも注意だ。「か」だったらそのうちの誰かということになるが、「や」と、あくまでも一般性し か指していない。私たちはここで外出という行為もまた「実体論的観念」で考えすぎてはいけないのかもしれない。
 そして話はまたまた、
 「ここでいう用事とはすなわち外出をともなうものであり、日ごろの買い物から彼岸の墓参りのようなことまでがふくまれる。それとともに母親には家の仕事 も山積みされていて、出る用事との兼ねあいで炊事洗濯掃除といったものの比重や優先順位も決まってくる。」
 と、外出を頭に置きつつ掃除の話、父親と息子の外出時の身じたくの話、それがなされる玄関の造り、そしてそのうちに洗濯の話へと移っていく。それにして もこの話者の――ここでは著者といってもいいが――視点のみみっちさは驚嘆に値する。この人はいったいどういう形状をして日々暮らしているのか!「人間が 一つの身体の中に閉じ込められているなどということはまったく奇異なことです。」というラカンの言葉を再び思い出していただきたい。
 息子の太郎と次郎もそうなのだ。この小説の早い段階で二回こういう変な書き方がされている。
 「なぜなら太郎という子どもはまだこの家のなかに留まっているのだから。太郎は十三歳になる年の四月のはじめ、地元の公立中学の正門前で、そこを入るブ レザー姿の自分の背中を見送って家に帰ってきたのだという。」
 「そんなふたりの子ども時代はとある時期のとある時点で永遠に時計の針を止めたまま家のなかにありつづける――現在ではとっくに成人して二十七歳と二十 二歳になる兄弟にとって彼らは遠い過去の存在である。」
 その太郎と次郎は夫婦が定年後の移住先を探して車で旅行するときに、「それを家族旅行とかんちがいして無人の後部座席に乗りこんでしまう」ようなことも するのだが、実体化して二人に人間のような姿を与えるべきではない。
 ふだんの鍵の置き場所の話から夫婦が夜寝る部屋の話に及んだところでこう書いてある。

すぐとなりの子ども部屋には夜更かしをするための道具がいろいろそろっているというのに。あっちはまったくおもしろみに欠けていると、壁を一枚隔てた先で 太郎も次郎も思っていた。いい歳をした大人がセックスなんかしないだろうし。正しくも浅はかな性知識をようやく身につけたばかりの太郎はそう考えていた。 大人にはなぜマンガのよさ、ゲームのよさがわからないのだろうと、次郎にはそれが大いに疑問だった。そしてとくに鏡台の周囲にただよう化粧品類のにおい、 あの甘たるいおしろい臭さというものが、兄弟の嗅覚によれば授業参観日の教室のにおいを思い起こさせるものでもあり、娯楽を求める彼らの興味をいちじるし く減退させていたのである。

 太郎と次郎は家の意識のようなものだ。それは当然(?)そこに住む人間――この小説ではとりわけ主婦――の内面の外在化というようなことだけれど、ここ でも人間と家屋は一つのサイクルを形成している。だから次に引用するような視線が生まれる。

 「外のことしか頭にない」場合、玄関では靴に足を入れるだけともなりかねない。彼ら男性陣は自分の靴にたいしてさえ、その見てくれや品質、流行性や一般 性の観点からしか目を向けていないようなふしがあり、つまり購入時にはあれこれ考えても普段の保守管理の方向にはあまり気がまわらないという意味だが、帰 宅時に脱いだものをいつだれがこのようにかかとをそろえてならべているのか気に留めもせず履いている、そんな状態だった。そしてスリッパになど目もくれず に春や夏や秋を過ごし、冬の寒い時期にだけ防寒用にスリッパを履く。したがって冬用と夏用が半年ごとに入れ替わったり買い替えられたりしていることも、イ ンテリアの一部として玄関が明るく見えるような色や材質が選ばれていることも知られていないはずだった。またそれがアクセントとなりうるような明るい色の スリッパとは対照的に玄関マットは落ち着いた配色の唐草模様となっている。しかしその柄の種類をたずねて正確に答えられるのはそれを実際に購入し、掃除機 をかけ、日に干している主婦くらいのものだろう。

 すでに引用した箇所だけでも存分に発揮されているが、洗濯とからめつつ気象用語が駆使されるところ(一二一ページ)とか、掃除にからめて家の構造を記述 するところ(一三〇〜一三二ページ)など、小説ではふつう考えられない言葉を地の文として飲み込んでいく語りには目を見張る。まったく組成を異にする二つ の物体が融合しているような、たとえば塀を這うトカゲがそのまま塀の一部と化しているようなイメージが私には湧いてくる。
 かと思うと、

玄関マットの上のスリッパが廊下側に向きを変える。
 「パタパタパタパタ……」
 鳥の羽音ではなく、スリッパ履きの足音が家内に響く。

 なんて、やっぱりこの作者は象徴体系の秩序が崩れている。
 『いい子は家で』収録の二作については、メモ書きか付箋程度で終わってしまったが(現状私にはまとまったことは言えない)、完成度としては『ふるさと』 の方が『いい子』よりだいぶ上だろうと思う。しかし本を閉じたあと記憶として引き出しやすいのは、『いい子』の中の彼の変容や父親が巨大化する場面だ。小 説とはまさに読む行為の中にしかないことの証明であり、『ふるさと』のおもしろさはそっちに特化しているということだろうし、読者である私自身もまた実体 化されたものに着いて、文章という実体化されざるものに着けないことを証明しているだけなのかもしれない。
 しかし、父親の巨大化なんて、どうしてああいうことを書いたのか? どういうメカニズムによってああいう連想になるのか? と、確かに私はいまこうして こだわっているのだから、あれはあれとして何かなのかもしれない。

      ※

 最後に報告です。二〇〇六年三月に個人出版した小島信夫『寓話』の初版分が完売したので、先日増刷しました。
 増刷分からは書店から注文があればそれに対応することにしました。ただし、@一回の注文につき三冊以上A販売形態は委託でなく買い取りB買い取りの原価 は65%C配送料は書店側の着払い、以上の条件に限ります。勝手なことばかり書き並べましたが人出がないのでこれ以上の対応はできないのです。
 従来どおりの個人向け販売と合わせて、連絡は
 info@k-hosaka.com
 までメールをください。
 個人向け販売は、本体4000円(税込)送料340円で合計金額4340円。書店向け販売では送料は発生しないので、4000円×65%の計算です。
                   (つづく)




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