◆◇◆小説をめぐって(34◆◇◆
カフカ『城』ノート(1)(前編)
「新潮」2007年11月号


 カフカについてまとまった形で書きたくてしょうがない。私はこの連載をカフカを読むために書いているんだという気持ちが一 年前くらいからどんどん強くなり、しかしそれでも実際には他の小説ばかりを取り上げているのだが、私が読んでおもしろいと思う小説は基本的にすべてがカ フカ以降≠ナあり、それらの小説を読み、それについて書くという行為が、カフカを読むためのトレーニングになっていると感じられる。
 カフカの中でもとりわけ『城』について書きたいのだが、『城』を私はいっこうに読み進められないでいる。読みはじめるとページの半分以上に線を引いてし まい、収拾がつかなくなる。と同時に、線を引いていない箇所が「読めていない」という気持ちになる。これは苦痛だ。
 その苦痛から逃れるために、とりあえず読み通すことにしようと思う。私が線を引き、書き込みを入れながら読んでいる本は前田敬作訳(新潮文庫)だが、通 し読みをするための方は辻_[ひかる]訳の「世界の文学セレクション36」(中央公論社)で一九九三年初版だが、このシリーズは六〇年代から七〇年代にか けて刊行された同社の「世界の文学」の出し直しで、印刷の版がそのまま流用されているのでページの組みなどいっさい何も変わっていない。
 しかしこっちを読み出しても結局私は線を引いてしまっている。
 私は『城』の意味を知りたくて線を引いているわけではない。ひとつひとつの場面が読者の注意を逸らせないそのメカニズムに目を奪われるのだ。「城≠フ 意味は何か?」などと暢気なことを言えるのだったら、二回も通読すればそれで納得したり安心したりしていることだろう。小説を意味づけするということは、 小説を読む時間を無しにすることだ。ふつうだったら早くて三日か四日はかかるだろう『城』の、読者として費やしたその時間の中で継起した運動を無しにし て、「城≠ニは××××のことである」という風に辞書の中の一項目のように固定させてしまうことだ。そのとき、『城』の中で何がどういう順番で継起した のかは問われなくなる。
 しかし『城』という小説は通読して翌日には、何がどういう順番で継起したのかがうろ覚えになっている、という特異な性格を持っている。
 小島信夫さんから聞いた話だが、昭和三十年頃さかんにカフカが読まれるようになったとき、小島さんもカフカにすっかりはまり、「カフカを読んでいると悪 夢を見ているようだ。」という主旨のエッセイを書いた。しかしその頃は、政治優位の時代であり、小説を政治社会の文脈に押し込めて読むことが当然とされて いて、小島さんのエッセイを読んだ評論家から、「悪夢とはどういうことだ。そんな幼稚な感想を書くもんじゃない。カフカは実存主義なのだ。社会の不条理を 書いたのだ。」と批判されたのだそうだ。
 いまではそのような教条主義的な読解の方こそ「読めてない」と言われるわけだが、「城≠フ意味は何か?」という問いを完全に無効にしないかぎり教条主 義から自由になったことにはならないだろう。カフカの小説が「悪夢」であるかどうかはともかく夢と結びつける読み方はきわめてふつうだが、しかし『城』で どういうところが夢なのか。私は『城』の全体が通読後にうろ憶えになっているというそのあり方こそが夢なのだと思う。夢も翌朝目が覚めてしまえばうろ憶え になっていることがほとんどだ。
 細部についてはあきらめるとして、筋ぐらい憶えていれば少しは気持ちが穏やかになるだろう。しかし筋が憶えられないのだから、全体を丸々記憶するしかな いという気持ちになる。
「筋が憶えられないのだから、全体を丸々記憶するしかない。」
 これは矛盾しているように聞こえる。筋を憶えられないのに全体を丸々記憶することなどできるはずがないとふつうは考えるだろう。しかしこれが小説家の頭 の使い方なのだ。
 たとえば風景画を描くプロセスを想像してみたとき、まずエンピツで遠くの山の輪郭をささっと描き、次に手前の家々が並んでいる感じを大ざっぱにささっと 描く。そのように画面の全体の構図を決めた後で、もう一度エンピツで山の形をていねいに描き、手前の家々をていねいに描き……という風にして下絵をひと通 り仕上げ、それから色を塗る作業へと移る。
 これがオーソドックスな風景画のプロセスだろうが、カフカの小説の場合エンピツで描かれた下絵がない。下絵がなく、全体の構図を決めないままいきなり山 の手前に並ぶ家々のうちの一つを絵の具で描きはじめる。一軒塗り終わったら二軒目、二軒目が終わったら三軒目……という風にして、山の手前に並ぶ家々を描 いてゆく。ただそれだけ。
 このような描き方をした絵では構図は虚≠ノなる。「すべて画面に描かれたものには構図がある」という考えは下絵からはじまる絵に対する盲信であって、 絵には実際、構図でとらえようとすることに意味がないと感じさせるものがある。
「構図はなくても配置は、画面に描かれたものであるかぎり、事後的であっても不可避的に生ずる」という考えは、下絵とはまったく別のものであり、こちらの 考えはたぶん精神分析から来ていて、この場合絵はおそらく色とか部分の形とかの要素に解体されることになるだろう。この場合、絵は作者のコントロール下に なく、作品≠ニいうよりも症例≠ノちかいものになるだろう。
 下絵からはじまる絵にもう一度もどって、構図を決めてエンピツや木炭によるデッサンをしっかり描いていたとしても、セザンヌやマチスの絵を見ると、その 静止した状態を打ち破ろうとする筆使いが感じられる。高校のとき油絵の授業があり、デッサンの段階ではちゃんと椅子の形をしていたはずの画布の中の椅子 が、油絵の具を塗っていくにつれてどんどん形が歪んでいって私にはそれを止めることができなかった。一年間で二つか三つしか描かなかった高校生の経験をこ んなところに持ってきても根拠にはなりにくいが、下絵があったとしても上に色を塗っていく過程でそんなものは無効化していくのだ(きっと)。それが油絵の 具の力だ。
 ましてカフカの小説には下絵はない。カフカだけでなく、小説家は基本的にすべての人がそういう風に、家を一軒一軒描いていくようにして全体を描いてゆ く。
 小説という、時間の中で展開される表現形式の感じを模式化するのはほとんど不可能で、そのためについつい絵をモデルに使って、〈筋=下絵(または構 図)〉という喩えでイメージを伝えようとしてしまうのだが、これには肝心の時間≠ェ入っていない。人は時間を表現するために、年表をつくったり、数直線 上に時間を配置したり、円グラフで一日の時間割りを作ったりするが、それら視覚化されたモデルはすべて空間であって時間ではない。もしかしたら、文字盤と いう空間の上を針が動いていく時計すら、それが表現しているのは時間ではないのかもしれない。時間とは視覚化することが不可能な何かのことなのだ。ある土 地を上から俯瞰するようなことは時間に対してはできない。カフカの小説を読むときにこれは前提条件になるはずだ。
『城』は場面と場面が因果関係によって繋がっていない。場面のひとつひとつが細かく書き込まれていて、その中に他の場面との呼応関係が見つけられるという 書き方になっている。つまり、全体を流れる太い筋はない。もともと筋がないのだから筋を憶えられるはずがない、という言い方は、しかし、何かの省略か隠蔽 か歪曲になる。
『城』であっても、城≠ノ特定の意味を見つけ出した人にとっては、筋が浮かび上がってくるだろう。この「見つけ出した」とは「こじつけた」ということ だ。城≠ェ官僚機構であるとか、神の恩寵であるとか、あるいは『城』の全体が定住する土地を持たないユダヤ民族の隠喩であるとか、あれやこれやに解釈す る場合、きっと何らかの筋が浮かび上がるのだろうが、そのとき排除されるものが多すぎる。その筋だけを聞いても『城』には聞こえないだろうし、『城』をお もしろいと思って読んだそのおもしろさとは何も響き合わないだろう。
 それゆえ、筋が憶えられないのだから、全体を丸々記憶するしかない。そして丸々記憶することができれば、見落としていた呼応関係にも気づくことができる のではないか。
 キリスト教徒にとっての聖書や仏教徒にとっての経典はそういうものではないかと思うのだ。本を一冊丸々記憶することは不可能なことではまったくない。小 説家は一つの作品を書いているあいだ、自分がどこで何をどう書いたかほぼきちんと記憶している。書き上がった直後に原稿が消えてなくなってしまったら、そ れは誰だって呆然とするけれど、それは二度と書けないからではない。書こうと思えば書けるけれど、(1)細部まできちんと完全に同じには書けない、という ことと、(2)同じものを書こうとしてもわずかにずれた細部によって、かなり別の方向に引っぱられていってしまう、と思っているからだ。書くという行為に はジャズのアドリブに似た一回性のパフォーマンスの要素がどうしてもつきまとい、それを完全に切り捨てることはできない。
 小説を書くということは、まず第一に、いま自分が書いている場面をどれだけおもしろくすることができるかということだ。ある空間の中に一人か二人か三人 かそれ以上かの人物がいて、何らかの会話か動作のやりとりがある。もちろん事前に空間と人物とやりとりのイメージないし予定はあるが、それはあまり細部ま で詰められた予定ではなく、書く過程でそれがはっきりしてくる。と同時に、「こういう書き方で読者にちゃんと伝わるかな」ともつねに考えている。まあ、 はっきりしてくれば読者にも伝わるわけではあるけれど、書いている感じと読者に読まれると想定する感じは完全に同じとは言えず、二つがつねに併存してい る。
 が、この「読者」というのは本当に現実に存在する読者かというとそれは怪しい。人間の声というのは口で音として発するだけでなく、自分の耳でその音を確 認することによってはじめて意味ある言葉としての像に定着するようになっていて、耳からの音を完全に遮断していると自分が何をしゃべっているかわからなく なってくるが、ここで言う「読者」というのも音を確認する耳にちかいと言えるのではないかと思う。
 カフカはほとんどの原稿を発表することを望まなかったと言われている。それが本心だったか嘘だったかは解釈が別れるところで、私は本心だったという説を どちらかと言うと支持するが、(しかしそれはどっちでもいいという気持ちが一番強い)、発表を望まなかったと仮定しても書く過程において、自分の声を確認 する耳のような「読者」はいた。発表するしないにかかわらず小説というのは、この「読者」に向かって書かれるものなのだ。これはたぶん精神分析で簡単に説 明がつく、人間の内面の機能だと思う。
 そして、小説家は場面を書きながら、「これがじゅうぶんに伝わっているか?」を考えつつ、同時に「これ以上つづけると飽きるのでは?」という長さを超え ないように配慮する。場面ごとにいちおう落としどころのようなものはあるわけで、そこに向かって長短や遅速や緩急を按配する。そのようにしながら、カフカ は『城』において、ひとつひとつの場面を極力長く引き延ばす。『城』はひと言で言おうと敢えてするなら、「どれだけ引き延ばすことができるかという小説」 あるいは「極力引き延ばそうとする意志によって書きつづけられた小説」なのだ。
 その複雑さ、精密さ、さらには謎解きに驚く。が、一方ではいきあたりばったりの感じもする(そこも夢を思わせる)。
 Kが村に到着した翌日、こういう手紙が使いのバルナバスによって届けられる。(訳はすべて、前田敬作訳、新潮文庫)

「拝啓。ご承知のとおり、貴殿は、伯爵家[はくしゃくけ]の勤務に召しかかえられることになりました。貴殿の直接の上官は、当村の村長であります。貴殿の 仕事ならびに労賃に関するいっさいの詳細は、村長が貴殿にお伝えするでありましょうし、貴殿のほうでも、村長に報告・説明の義務があるものとご承知くださ い。しかし、小官も、貴殿の動静にたえず注意をおこたらない所存であります。本状の伝達者であるバルナバスは、ときどき貴殿のもとに参上し、貴殿のご希望 や要求をうけたまわって、小官に伝達することになります。小官は、可能なかぎり貴殿の意にそう心づもりをしております。労働者として満足していただけるこ とこそ、小官のなによりの念願であります」(51ページ)

 この手紙をKは一度ざっと読み、もう一度読みながらこういうことを考える。

 この手紙には、なにやら首尾一貫しない点があった。たとえば、独立した意志をみとめられている自由な人間にたいするようにKに語りかけている個所があ る。上書きがそうだし彼の希望に関する個所もそうである。ところが、他方では、あからさまにせよ、遠まわしにせよ、長官の立場からはほとんど問題にもなら ないくらい微々たる労働者扱いをしている個所もある。長官は、彼の「動静にたえず注意をおこたらない所存である」などと言っているが、Kにとって直接の上 官といえば、村の村長だけで、Kは、この村長に報告の義務まで負っているのである。村長に同僚があるとしても、せいぜい村に駐在している巡査ぐらいのもの だろう。疑いもなく、これは矛盾である。わざとそうしたにちがいないとおもえるほど明白な撞着[どうちゃく]である。これは、不決断のせいであるとは、ま ず考えられなかった。このような管理のしっかりした官庁にたいしては、それはばかげた想像というものだ。それよりもむしろ、Kは、この手紙が自分にたいし てある選択の自由を提供しているという事実を読みとった。この手紙の指令をどのように受けとるか、つまり、城とのあいだにともかくも特別な、しかし、じつ は外見上だけの関係をもつにすぎない在村労働者になるか、それとも、外見上はただの在村労働者ではあっても、実際はその仕事のすべてをバルナバスの報告に よって決定されるようにするか、そのいずれをえらぶかは、Kの自由にまかされているのである。Kは、選択をためらわなかった。たとえこれまでに積んできた いろんな経験がなくても、ためらいはしなかったであろう。城のお偉がたとはできるだけ離れ、村の労働者になりきったときにのみ、城でなにほどかの成果をあ げることができるのだ。いまはまだ彼に不信感をいだいている村の住人たちも、彼が彼らの友人とまではいかなくても、おなじ村の仲間だということになった ら、口をきいてくれるようになるにちがいない。いったんゲルステッカーやラーゼマンと区別のない人間になったら――それも、できるだけ早急にそうならなく てはならない。いっさいは、このことの成否にかかっている――そうなったら、城のお偉がたとその愛顧にだけ頼っていた場合には永久にとざされているばかり か、いつまでも眼に見えないままに終ってしまうかもしれないすべての道が、一挙にひらけてくるにちがいない。むろん、危険はある。そのことは、手紙にも十 分強調されているし、まるで遁[のが]れることのできぬ運命ででもあるかのような一種の満足感をもって言及されている。それは、一介の労働者になりさがっ てしまうということだ。勤務、上官、仕事、労賃、報告、労働者――手紙には、これらの言葉がちりばめられている。それとはべつの、個人的な事柄にふれてい る場合でさえ、このような観点から述べられている。Kは、労働者になろうとおもえば、なることができる。しかし、その場合は他の希望や期待をことごとく断 念して、仮借のない厳しさを覚悟しなくてはならぬ。Kは、現実的な強制力でおどかされているのでないことは承知していた。そんなものは、怖[おそ]ろしい ともおもわなかったし、ましてこの場合はちっとも怖れなかった。しかし、意気を阻喪させるような、ふやけきった環境の圧力、幻滅に慣れてしまうことや、微 細かもしれぬが、たえずおそってくるいろんな影響などがおよぼす力――Kが怖れたのは、もちろん、そのような圧力に負けてしまうことであった。しかし、こ のような危険にたいしてこそ、あえて戦うことが必要であった。手紙も、もし戦いになったら、Kのほうが不敵にも先に戦いをいどんだことになるのだという事 実を見おとしてはいなかった。それは、きわめて隠微にほのめかしてあって、胸に不安をいだいた者――不安をいだいた者であって、こころの疚[やま]しい者 ではない――にしか感じとることができない。それは、彼が召しかかえられたことに関して「ご承知のとおり」とある文句である。Kは、自分の到着を知らせた が、通知したからには、まさしく手紙が述べているように、自分が召しかかえられて身であることを、みずから承知していることになるのだ。(53〜55ペー ジ)

 小説がはじまってまだ何のどういう話なのか読者として見当がついていない時点では、こういう箇所はふつうの速さでいわば読みとばされる。しかし、ここを 丁寧にゆっくり読んでほしいのだが、ここに書かれていることを十全に理解することができるだろうか(そのため、この引用はあえて傍線などの記号をいっさい 付けないことにした)。カフカはここで、二つの可能性をくり返し提示する論法で、この村におけるKの立場、城との関係におけるKの立場を検証してゆく。カ フカは論法の操り手≠ネのだ。
(1)城の長官から見てKは、[項内行頭のカッコ省略。*に]
* 独立した意志をみとめられている自由な人間
* ほとんど問題にならないくらい微々たる労働者
(2)Kに対して長官は、[項内行頭のカッコ省略。*に]
* 動静にたえず注意をおこたらない
* 直接の上官は村長のみで、Kは村長に報告の義務まで負っている(注意をおこたらなければ報告する必要はないはず)
(3)矛盾の理由は、[項内行頭のカッコ省略。※に]
※ 不決断のためではない(「このような管理のしっかりした官庁」なのだから)
※ Kに対して選択の自由を提供している
 (4)指令に対するKの選択肢、[項内行頭のカッコ省略。*に]
* 在村労働者になる(城とは外見上だけの関係しか持たない)
* 仕事のすべてを城からの報告によって決定される立場になる(ただし外見上はただの在村労働者)
 ここまでが引用の前半だ。(3)だけは二つの可能性の併置ではないので頭につけるカッコをかえてあるが論法としては同じことだ。読者としてふつうの速さ で読んでいる場合、(1)(2)(3)(4)はどれもほとんど同じ様相をした二つの選択肢のたたみかけないし羅列程度の印象しか与えないだろう。つまり 「AかBか。イのようであるしロのようでもある。αのようだがβだ。そしてまたaなのかbなのか……」というぐらいの印象で進んでゆくことになるのだが、 それでじゅうぶんに目的は果たしている。
 目的とは「選択肢がいくつも並んでつづいていて混乱する(整理しにくい)という印象を読者が持つ」ということだが、目的を果たすことができる文章であり さえすればいいというわけではない。というか、そのような「印象」となるためには、書かれた文章そのものはもっと込み入っていなければならない。立ち止 まって一回読み直すぐらいで整理できてしまう文章だったら込み入っているという印象を与えることはできず、二度三度と読んでも簡単に頭の中で整理されるこ とを拒むような文章でなければならない。Kがやってきた土地とはまさにそういう土地だからだ。
 この村はたしかに見通しがきかない構造になってはいるけれど(「彼の歩いている道は、村の本道なのだが、城山には通じていなかった。ただ近づいていくだ けで、近づいたかとおもうと、まるでわざとのように、まがってしまうのだった。」(26ページ)以下の部分)、そんな程度の空間を書くだけでは全体として の方向を見失うような小説を書くことはできない。Kが入ってきた土地がそういう論理が隅々にまで行き渡っている空間なのだ。――と、私たちはつい「空間」 という言葉をこう言うときに使ってしまうのだが、Kが入り込んだのは空間ではなく時間≠ネのだ。
 ここで言う時間というのは、「円環状の時間」とか「堂々めぐりして出口のない時間」とか「前に進まない時間」とか、そういういかにも文学のアイデアとし て使われる時間のことではない。コンセプトとして明快なそういう時間のことではなく、経験したり予定を立てたり待ち合わせをしたりするときにごくふつうに 気持ちの中にある時間のことだ。
 ここで私が言いたいのは、経験するのは空間ではなく時間であるということだけだ。すべての経験には時間がともなう(あたり前だ)。言葉がしゃべられた り、文章が読まれたりすることにも時間がともなう。コンピュータのデータを送ったりコピーしたりするときのように、所要時間がかぎりなくゼロにちかい世界 をもし人間が生きていたら『城』は成立しない。所要時間という意味での時間なのだ。
 すべての小説には所要時間が生ずる。これは当然だが、しかしほとんどの小説は――ドストエフスキーでさえも――、読み終わった時点で事件の展開や登場人 物の会話を所要時間ゼロで反芻することが何らかの意味を持ち、読者としてのあるイメージを心の中に再現することができる。しかし『城』はそんなことをして みても意味がなく、『城』の再現にまったくならない。読者として文章を読むことや登場人物の話に耳を傾けることが、時間の中でなされる行為なんだと実感す ること。『城』の出発点はそこにある。
 引用箇所にもどる。
 (3)の本文にある「このような管理のしっかりした官庁にたいしては、それはばかげた想像というものだ。」という判断が奇妙なものに見えないだろうか。
『城』を一回でも読んだことがある人なら、城の組織が「管理のしっかりした官庁」などという印象は十中八九持っていないはずだ。しかし、この時点では確か に城の管理はしっかりしているのだ。
 いま(引用箇所)はKが村に到着して二日目の夜のあまり遅くない時刻だから、村に到着してからまだ丸一日経過していない。しかしここまでのあいだにKは 城とすでに四回、広い意味での接触を持っている。
 一回目は到着直後の宿屋から問い合わせた電話(13ページ以下)。城は最初、測量師なんか知らないと答えるが、すぐに城の方から訂正の電話がかかってく る。Kはシュワルツァーという若い男と城との電話のやりとりに聞き耳を立てながら、こういうことを考える。

してみると、城はやはり彼を測量師に任命したわけだ。これは、一面では、Kにとって具合のわるいことだった。というのは、あきらかに城のほうでは、Kにつ いて必要なことを知悉し、すでに両者の力の対比をとっくに計算ずみで、いわば微笑まじりの余裕をもって戦いに応じているからである○○○○けれども、○○ 他面○で○は、Kにとって都合のよい点もないわけではなかった。というのは、Kの考えでは、相手は彼の力を過小評価していて、彼としては、初めから自分が 期待できたよりも多くの自由をもてるだろうことがあきらかだからである。また、Kを測量師として認定したことは、確かに相手の精神的優位をしめしているに ちがいないにしても、このことによってKをいつまでもおどかすことができるとおもっているならば、とんだ考え違いというものだ。彼は、いくらかぞっとした 気持ちになったものの、所詮[しょせん]、それだけのことにすぎなかった。(15ページ)

 私は四回の接触の中身を確認して、城がしっかりした官庁であるとKが思っている根拠(傍線部)を示すだけのつもりで引用の前半部を書き写しはじめたのだ が、後半もやはり必要なので一ブロックすべてを書き写すことにした。「けれども、他面では」とここでもKの思考は二つの可能性に枝分かれする。そしてなぜ かKは、城との戦いを想定しているのだ(四つの破線部)。
 二回目の接触は、アルトゥールとイェレミーアスという二人組の助手の登場だ。この助手についてはおかしなところだらけで、すでに世界中で何冊分にも相当 する研究が書かれていることだろうが、ざっと書きとめておくと、最初の夜、城に電話をかけられる前にKは、
「道具をたずさえた助手たちは、あす車で追っかけてくるはずになっている。」(11ページ)
 と言い、二日目の朝にもまた、宿屋の亭主に、
「ところでまもなく助手たちが到着するところだ。彼らもここに泊めてもらえるだろうか」(17ページ)
 と言っている。
 しかし実際にやって来たのは、「城の方角から」(33ページ)歩いてきたとなっているアルトゥールとイェレミーアスという見知らぬ二人組だった。


もどる