◆◇◆泣いた映画の事情(わけ)◆◇◆

「東京人」2004年6月号 エッセイ「近況」欄

 本の帯や映画の広告で「泣いた」というのが褒め言葉で使われることが多いけれど、ほとんどの場合、涙は個人的な事情でしか流れない。だから評価として信用できるようなものではない。−−という前提で、これから私が書くのは最近泣いた二つの映画のことだ。
 一つ目は『ラスト・サムライ』。ロードショーも終わり間近の三月二十日頃に、妻と二人で見に行った。妻は渡辺謙のファンなのだ。「どこが」と言われれば、「外見」ということになるだろうが、「存在感」という曖昧で奥深い賛辞も含めて、役者はすべてを外見でしか表現できない。そういう意味で渡辺謙には日本人離れした外見がある。
 というわけで妻主導で見に行ったのだが、結局泣いたのは私の方だった。私は偉大なものが斃(たお)れる話に弱いのだ。もう四十年以上も昔、まだ私が幼稚園だったとき、ディズニーの絵本に『力持ちのポール』というのがあった。ポールは巨人で、力持ちで、毎日木を伐って暮らしている。当然みんなの人気者だ。その村にあるとき、小さくてズルそうな紳士が、新製品の電気ノコギリを持ってやってくる。狡猾な紳士はポールに競争を仕掛ける。そしてポールは電気ノコギリに負けて村を去っていく……。
 私はその絵本を何度も何度も見た。ズルいことをして世の中を渡るくらいだったら、堂々と敗れて去っていく方がいい、という私の価値観はどうやら『力持ちのポール』という絵本によって芽生えさせられたらしい。いや、絵本ひとつでどうとかなるような価値観・人生観があるわけがない。子どもはみんな偉大なものが好きで、堂々と生きたいと思っているものだ。大人になっても、それにこだわりつづけている私がどこかきっと変なのだ、変えるつもりは毛頭ないけれど。
 もうひとつは『黄泉がえり』だった。映画といってもテレビで見ただけで、「マンガみたいな話だなあ」と思いながら、いい加減に見ていたのだが、よみがえっててきた死者たちが、もう一度、黄泉の国に静かに去っていくとき、死者たちが再びこの世界から去らなければならないという事実を静かに受け入れているという、そういうシーンで、私は泣いてしまった。
 そんなたわいもないシーンで泣いてしまうようになったのは、もちろん飼っていた猫が死んで以来のことだ。九六年十二月に死んだのだから、すでに七年以上経つのにその部分の敏感さはいっこうに消えない。猫が死んですぐの頃、妻と二人でテレビを見ながら、くだらないところで二人で泣いていると、妻が言ったものだ。
「昔、おばあちゃんのことを『なんでこんなつまらないところで泣くんだろう』と思って見てたけど、こういうことだったのね。
 人間、長く生きてると、それぞれ他人にはわからない琴線ができてしまうっていうことなのね」

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