◆◇◆夏の昼の終わり◆◇◆
神奈川新聞2008年9月6日(土)リレーエッセイ「木もれ日」



 私は海の近くに育ったから夏が大好きだった。夏になったからといって、新しい恋と出合ったことも、映画『スタンド・バイ・ミー』のような冒険を経験した ことも、ついに一度もなかったけれど、それでもやっぱり夏は期待や予感がいっぱいで、夏のあいだじゅう軽い興奮状態だった。夏が去ってゆくと思うと、そこ はかとなく悲しく寂しくなった。
 だから、一番好きな季節は? と訊かれれば、迷わず「夏」と答えた。「春」とか「秋」と答える人の気が知れなかった。
 しかしここ数年はもう、夏がうっとうしくて仕方ない。私もすでに五十歳を過ぎ、恋や冒険など実現しないことをようやく理解したことも確か。海の近くから 離れた東京生活が長くなって、夏の夕方の海岸を吹く風の心地よさを忘れてしまったことも確か。しかしなんと言っても、夏が暑すぎるのだ。
 「真夏日」つまり気温三十度を超える日なんて、そんなの当たり前ではなかった。それが今では三十五度超の「猛暑日」だ。
 猛暑日がつづいていたところに、八月下旬、突然、涼しい雨の日が入ってきた。この季節の変化も全然おかしいのだが、「これで夏が終わってしまうのか?」 と思っても、悲しくもなんともなく、「やれやれ、ほっとした」としか思っていない自分がいる。
 しかし、夏の終わりは暑さの終わりであると同時に、長い昼の終わりでもある。夕暮れがどんどん早くなってくる。夏の暑さの終わりにほっとしても、早い夕 暮れには相変わらず、そこはかとない悲しさや寂しさを誘われる。季節の変化にともなう憂愁はきっと人間にとっての内省の起源で、私のように本などまったく 読まなかった子どもが小説家になったのも、元をたどれば、夕暮れに感じたいろいろな気持ちがあったからだ。
 しかし、天気予報では九月になるとまた暑さが戻ってくると言っている。またまたあんなに暑くなってしまったら、憂愁もへったくれもない。温暖化は人間の 内省まで消滅させかねない。


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