◆◇◆ノスタルジーでない過去◆◇◆
「年金時代」2003年1月号)


 最近、言葉の意味や物の定義の変化についてよく考える。それらが時代とともに変化することを一般則としては知っているけれど、自分がその変化に立ち会っていない言葉や物に対しては、注意していてもやっぱり理解が及ばない。たとえば明治・大正の頃に書かれた小説を読むとき、私は当時の町の風景や、男女の力関係や、大卒者が社会全体に占める比率とそのイメージなどを正しく理解せずに読んでいる。
 そのことと直接結びつくわけでは全然ないのだが、私はいつか自分の学生時代のことを小説に書きたいと思っている(と言っても、早くても十年後だろうか)。タイトルだけはとっくの昔から決めてあって、『アグネス・ラムのいた頃』だ。アグネス・ラムというのは、七五年から七七年くらいに人気の絶頂期だった(それが私の大学生時代とほぼ重なる)、ハワイ出身の小麦色に日焼けして胸が大きいグラビア・モデルで、私と同世代の人間だったら生涯忘れることのない名前だ。だからその小説は、“私の同世代”という特定の読者に向けて書かれることになる。小説を広く売るためには自分より若い読者に向けて書く方がいいのはわかっているが、そうすると私は嘘を書かなければならなくなる。言葉や物のイメージや定義が変わってしまったからだ。
 その代表格が「好きな女の子に電話をかける」という行為だったことは言うまでもない。中学のうちから携帯電話を持って育った人たちに、一家に一台ずつしか電話がなかった頃に必要とされた“勇気”はわからない。あるいは一見もっと些細な、「レコードを買う」ということの意味もわからない。
 七〇年代当時、LPレコードは一枚二五〇〇円だった。あれから三十年経って、物価が変わったにもかかわらずCDの値段はたいして変わっていないどころか、安くなっているものも沢山ある。“四畳半・風呂なし”の家賃が一カ月二万円以下だったときにレコードが二五〇〇円なのだから、音楽はたんなる趣味の問題を超えた、一種の“信仰”だった。
 さらにもっと細かいことでは、町にはまだコンビニがほとんどなかった。日用品でも、シャーペンはしょっちゅう芯が詰まり、ホチキスは残り二、三個になった針(鋲?)は変な風に曲がって使えなかった(驚くことに今はそんなことはない)。
 そういうすべてが違っていた時代のことをノスタルジックに書くことは簡単だ。ノスタルジックに書けば、他の世代の人にも理解してもらえる。けれど、それでは上っ面を撫でるだけで、当時を生きた人たちの本当の気分や思考形態(?)は描けない。世代ごとに、他の世代には理解されない内面があって、今と当時の差に満足することを主眼におく、ノスタルジックな話は決してそこに踏み込まない。――というか、過去をノスタルジックに語ることは、結局過去でなくて現在を語ることにしかならないのではないかと思う。少年期を回想する本が定期的にベストセラーになるけれど、そういう本の読みやすさは、本当のところ「過去」でなく「いま」を書いているからなのではないかと思う。

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