◇◆『再生医学をどう考えるか』生命工学を考えるとき、
自分の価値観はローカルなものと意識せよ◆◇
(『中央公論』00年7月号)

発明や発見の主体は工学というシステム

 現代の医学というか生命工学は、想像しうるあらゆることをやりはじめている。というか、もはや想像を超えたあらゆることをやりはじめている。すでにSFの想像力は超えられた、と断言してもいい。何故そうなったかと言うと、“工学”だからだ。金融も金融工学になってこれまでの流れを完全に断ち切ったと指摘している人がいるが、工学となった時点で文字どおり「テクノロジーは一人歩きする」。だから、生命工学に関わっている人たちには想像力は必要ない。研究の最先端で出現する現象に注意深くさえあれば、きっといろいろな発明や発見ができる。だからきっと、実体はもう科学者個人にノーベル賞なんてあげる必要はない。発明や発見をしている主体は、科学者ではなくて工学というシステムの方なのだ。
 ――という私の推測が正しいとしたら、医学の主導権を科学者(医学研究に携わる人間全般)に預けておくのは、ランナウェイするシステムに将来を委ねるのと同じ意味になる。そこには〈善―悪〉の判断は存在しない。「人間は臓器の集合体だ」とか「人間は遺伝子によって決定されている」とか「人間の精神活動は、脳内の化学物質と電気的反応の産物だ」というような人間観は、一見とても明晰で違和を唱えようとする相手に有無を言わせないようなところがあるけれど、確定した言葉によってしか記述されない人間像は、じつは確定した言葉の領域の内側にとどまっていて、その外に出ることがない。

トップダウンの思考法は非科学的か

 科学は正しいことが確認されている言葉や概念だけを積み重ねて世界像を構築する。つまり、科学は部分から全体へと向かうボトムアップのベクトルしか持たないけれど、世界や自然や人間がこのボトムアップの思考法だけで記述しうるという御墨付きを、人間はまだ世界から受け取っていない。哲学的な思考法というのは、科学者から見たら苛々するくらい曖昧で、部分と全体のどちらをも完璧には定義しまま、部分から全体を説明したかと思うと次に全体から部分を説明するというような、とてもご都合主義的なボトムアップとトップダウンの思考法の使い分けをする(遺伝子の二重螺旋構造の発見者のF.クリックはこれを「秘教的」となじる)。
 しかし自然淘汰に代表されるように、世界には必ずトップダウンの要素が潜んでいる。自然淘汰を科学者は「生き物の何が環境に適応して何が適応しなかったか」という風に、部分に還元にして説明しようとするけれど、これはあくまでも結果を知った上での割り出しであって、全体から部分へと作用していたかもしれない因子が存在する可能性を排除しきれているわけではない。もちろん科学者は「我々はまだ部分を完全に掌握したわけではない」と主張するだろうけれど、部分から全体へと向かう作用因子を完全に説明しきれるときが来るまで、全体が部分に作用した可能性は残り続ける。可能性が残っている段階でそれを切り捨ててしまったら、その思考法は非科学的と言わざるをえず、科学者たちが嫌う信仰になってしまう。
 私は一般人が読めるレベルでの科学書を読むことの方が小説を読むことよりずっと多いし好きだけれど、一般の人たちが科学の現状に驚いたり素朴な疑問を口にしたりしたときに、科学者やその周辺にいるスポークスマンたちが見せる、「そんなことはもう我々の世界では常識ですよ。これからもっとずっと凄いことが待ってますよ」という、冷笑的で人を見下した態度が大嫌いだ。なんだかここには、小学校からはじまっている「算数のできる子は思考が明晰だ」という根拠のない理数系信仰の反映を感じる(しかしよく思い返してみると、理数系が得意な子どもはだいたいみんなぼんやりしていたはずだ。理数系というのは規則の中で完結する思考だから、その外に出るとぼんやりした子どもが多いのだ)。

クローン人間を作る過程の疑問〈人間未満〉

 前段が長くなってしまったけれど、医学にはいつも〈一般論と各論〉〈当事者(医者と患者とその家族とそれを取り巻くネットワーク)と非・当事者〉という、二つの価値観の異なる層が存在している。当事者は生きられる可能性があるかぎり「どんなことをしてでも生きたい(生かしてやりたい)」と思う。非・当事者はそういう人たちのことを「そこまでして生きなくてもいいじゃないか」と思う。
 医学の現場では「生きたい」「生かしてやりたい」はやはり絶対の原理だと私は思う。それを当事者たちがやめてしまったら医療は進歩しなくなるだろう。しかし一方で、医学は生命工学となって影響を予測することが困難な技術を生み出している。クローン人間が作り出される過程で、〈人間〉と〈人間未満〉の区別をどこでつけるのか、という疑問がその最大のものだろうと思うけれど、人間の耳を背中につけたネズミや水槽の中で剥き出しのまま生きている臓器を作り――生命という現象がいまだに明確に記述できていない段階で――テクノロジーは勝手に走り出している。この現状はおかしい。科学者たちはこの「おかしい」という曖昧な言葉に苛立つだろうけれど、おかしいものはおかしい。「おかしい」というのはただの感想ではなくて立派な判断で、これはトップダウンの、つまり全体に関わる判断なのだ。現代科学の主流の思考法とは相容れないものだけれど、ボトムアップの思考法が社会の全体を覆い尽くさないかぎり、「おかしい」という判断は価値を持ち続ける。

普遍の原理とはじつは「神の位置」

 しかしこんなことを言っていても、私自身がいつかクローン動物からの臓器移植によってしか助からない病気になったとしたら私はその治療を選ぶだろう。――という、このシミュレーションは一見とても説得力がある。それゆえ逆に、もし私がそのときに自分の「生きたい」という願望を捨てて大義(?)についたら、私は英雄のようになれるかもしれない。
 しかし私が考えたいのは、そういうことではない。自分の願望を投げ捨てるのも願望に忠実に治療を受けるのも、どちらも同じ思考法の産物で、それはローカルな思考法でしかないということなのだ。それに対して、生命工学の現状を「おかしい」と感じるのは、当事者性を離れているぶんローカルでないように見えるけれど、こちらの方も普遍的である保証はない。神が死んだあとの時代を生きる人間には、〈普遍〉と保証される価値は何もなく、ローカリズムしか残されていない。
 生命工学に関するテレビ番組を見たり本を読んだりするときに私が痛感するのはこのローカリズムの問題だ。「神はいない」と公言している人たちが、科学なり人権なりを普遍の原理として信じて、それを疑っていない。神が死んだとされて一世紀以上経つのに(カント以後なら二世紀だ)、人間はじつは自分の拠って立つ思考法や価値観を神の位置に据えている。必要なことはそういうことではない。自分の思考法や価値観をローカルなものと意識することだ。生命工学・生命科学・医学・医療……を考えるということは、当事者というローカリズムと非・当事者というローカリズム、あるいは各論というローカルリズムと一般論というローカリズムを、どちらも優位に立てず、自分の中で辛抱強くあえて解消させないようにして持ち続ける、という思考本来の在り方を問われることなのだと思う。優柔不断と言われようがどうしようが、解消させてはいけない問題というのが人間にはある。
        文芸春秋編『日本の論点2001』00年11月発行
 このエッセイのタイトル・小見出しはすべて編集部によるもの。今年1年『中央公論』に連載していた「中年テレビっ子日記」の7月号掲載分を見た編集部から依頼が来たもので、ついでにそっちも掲出します。
 
 

4月23日(日)NHK 世紀を越えて「いのち 生老病死の未来」■人体改造時代の衝撃
 現在の「生命科学」というか「生命工学」は、想像するものは何でも作る。いやむしろ、普通の人間が想像する以上のものを作る。だから遺伝操作して背中に人間のそれと同じ形をした耳たぶができてしまっているネズミなんかが生きて(生かされて)いる。
 そういうものを言葉で伝えてもどうってことはないけれど、映像で見せられると驚く。そのような運命を負わされてしまったネズミの“一生”というようなことまで、どうしても考えが広がっていく。映像の力というのはすごいもので、言葉(文学)で考えさせようとしたら大変な手間がかかるはずのことが、数秒間の映像できっかけを与えることができる。
〈現実と想像〉という区別をした場合、言葉は想像の領域にあって、それを破るのは大変だけれど、映像は現実の領域から生まれてくる(と思っている)。だから「背中に人間の耳をつけたネズミ」というものを、言葉で言ってもピンとこないけれど、映像で見るとズシンとくる。将来、特殊映像がもっとずっと当たり前になると、映像=現実という結びつきもなくなるかもしれないけれど、二十世紀人であるところの私の感受性では、映像=現実、言葉=想像という風になっている。
 では、映像=想像という時代になったときに、何が現実なのかと言えば、〈肉眼〉と考えるのが普通だろうけれど、生命工学によって生み出される生命たちは、もう「現実と想像」という単純な二分法を超えている。現実はやり直しがきかないけれど、想像は何度でもやり直しができる……というようなことが、現実と想像の区別だとしたら、生命工学の目指している現実は、何度でもやり直しがきく、〈想像のような現実〉だ。

 病気とか死とかといった〈現実〉というものは、思考力を持ってしまった人間には重すぎるのだ私は思う。人間は歴史を通じて現実を薄める努力をしてきた(ただし「歴史を通じて」というのは、本当はウソだ。本当は「近代」ということなんじゃないかと思うが、今はこう言っておくことにする)。しかし人間というのももともとは動物なわけで、人間が思考する根源的な力は、現実(世界)との接触から来ているのではないか。
 善―悪とか喜―怒―哀―楽とか幸―不幸というようなものは、今では区別が曖昧なものとされがちだけれど、本来は明快な〈現実〉そのものだったのではないか。そういう単純で本質的なところからしか人間の思考力は育たないと私は思う。現実との接触が希薄になればなるほど、人間の思考力や感受性の土台が不確かになる。そういう人間には「死」の意味を教えにくくなる。――これはもちろんこの一ヵ月のあいだに起きた、十七歳の子どもによる犯罪を考えてのことだけれど、じつは、私たち自身がすでに「死」について考えることがかなり難しくなっている。
〈想像のような現実〉はすでに始まっていて、それに耐える言葉や思考や教育を、現在の社会は持っていないのだ。〈想像のような現実〉時代にふさわしい言葉や思考や教育を作り出すのが、急務だと思うけれど、現実との接触が希薄になったところで育つ思考力というのが、どういう思考力なのか、私にはわからない。というか、私はかなり悲観的だ。どれだけ社会が高度になったとしても、人間の思考力や感受性の土台は非常に〈素朴〉で〈原始的〉なものだと私は思う。社会の中にある、機械や技術や知識がその素朴さとあまりに遊離してしまうことが、〈異常〉と言われる少年犯罪の根底にあるのではないだろうか。

「遺伝子工学によってデザインされた優秀な人間たちとそうでない旧来の人間たち、という二極化した未来社会」を描いた『リメイキング・エデン』という本の著者の、プリンストン大学のリー・シルバー博士という人が、番組の中でこういうことを言った。
「バイオテクノロジーは人類の発明の中でも最も強力です。魔法のランプから飛び出した技術はもう戻ることはありません。すでに動物には応用されています。人間に使うなと言うことはできません。今後二、三十年で親は子どもを改良し、最後には人類の特性そのものが変わってしまうでしょう」
 この「変わる」というのが、大変なことなのだ。「変化」には「質的な変化」と「量的な変化」があって、量的な変化の方は予測できなくもないが、質的な変化はほぼ絶対的に予測不可能だ(だから「気安く変化なんかさせてはいけない」というのが、公害以後のコンセンサスだと思っていたら、そんなコンセンサスは世界のどこにもなかった……)。シルバー博士はこうも言う。
「バイオテクノロジーを制御するのは科学者ではありません。強力なテクノロジーの使用を科学者が決めたことなど歴史を見てもありません。この使用を決めるのは国家でもなく人々の欲望なのです。その欲望に答えるための技術は、おカネさえあれば科学が供給していくのです。すべてを市場が決めてしまうことになるのです」
 だいたいこういう番組でしゃべる科学者は、「あなた方は驚くかもしれませんが、私たちのあいだでは、こんなこともうとっくに常識ですよ」といった感じの、普通の人々を見下した雰囲気を漂わせているものだけれど、この人はもしかしたら違うのかもしれない。詳しいことは『リメイキング・エデン』を読んでみなければわからないけど、とにかく、彼は「もうこの変化を止めることはできないのだ」と、事実だけを語っている。やっぱりまずい……。

 もちろん誰だって、病気になったら治りたいと思う。誰だって死にたくない。そういう欲望がバイオテクノロジーを生み出した。病気になって治りたいと思っている人の気持ちを私は否定しない。自分の子どもが難病になって、臓器移植しか方法がないと言われて、「運命だから諦めよう」と思う人はいない。しかしその欲望が、予測不可能な事態を招きよせつつある。
 臓器移植とかバイオテクノロジーとか人工臓器とかクローン動物(人間)から臓器移植とか……、困るのは、他人事だったら簡単に否定できるけれど、我が身に降りかかったらやっぱり肯定するしかないと感じることだ。一般論と各論(現実)で、意見がまったく変わってしまう。というか、一人の人間の中でもすっきり統合することができない。私はこういう問題というか「疑問」は、すっきりさせたいと思ってはいけないんじゃないかと思う。すっきりさせることのできない問題というのが、世の中には間違いなくあるのだ。

 ところで、しかし、「誰だって死にたくない」というのは、本当だろうか。
 バイオテクノロジーは死を先延ばしすることはできるけれど、死をなくすことはできない。本当に必要なのは、〈死を怖れない心境〉になることの方だ。
「そんなこと無理だ」と、思うのは、私たちが今この時代に生きている人間(大人)だからで、たとえば子どもは大人ほど死を怖れない。こんなことを書くと、犯罪を起こす十代の子どもたちを認める、と簡単に誤解されかねないけれど、「誰だって死にたくない」ということをいくら言っても、「人を殺してはいけない」という思想には結びつかない、と私は思う。「自分の命が一番大切なんだから」というのは、むしろ殺人の動機になりうる。
 私が考えているのは、〈生き物の命を大切にする気持ち〉と〈自分の死を怖れない心境〉は両立しうるのではないか、というようなことだ。〈自分の死を怖れない心境〉を得るには〈生き物の命を大切にする気持ち〉の方にこそ、何かがあるんじゃないかと思う。
 バイオテクノロジーにかぎらず、科学とか医学は、実験動物の膨大な死の上に築かれる技術だ。ここには〈生き物の命を全然大切にしない気持ち〉と〈「自分の死を怖れる気持ち」の無条件な是認〉がある。
 科学の思考法は根本のところで狂っていると思う。私は猫を飼っているから、実験材料にされた猫の写真を見るとかわいそうでどうしようもなくなる。頭蓋骨の上の部分を丸くすっぽり開かれて、脳ミソに電極を刺された猿なんか見ると、動揺は頂点に達する(最初に書いたことだが、こういうことは言葉で説明してもどうってことはないけれど、写真で見るとすごい)。ハツカネズミやハムスターを飼っている人たちは、実験材料にされているネズミを見てどう感じるんだろうか。
 もちろん私だって病気になったら医者に頼るけれど、動物実験をつづける医学はやっぱりおかしい。今の医学や科学はやっぱり絶対、前提が間違っていて、間違っているから、「死にたくない」という個人の欲望にだけ忠実で、じつはそう振る舞うこと以外に自分たち(=科学者たち)の欲望を正当化する理論を持たないんじゃないだろうか。「自分たちの欲望」とは、目の前にある疑問を解決したり、技術を実現したりすることで、それら本当は、人間の幸福とかとは全然関係がない。

 前述のリー・シルバー博士の言っていることは、「テクノロジーは一人歩きする」ということだ。こんなことはもう常識だけれど、「古臭い」わけではない。これはいくら強調してもしすぎるということはない。「誰だって死にたくない」をはじめとする〈個人の欲望〉は、じつは人類の歴史を通じて〈不変の真理〉だったわけでは全然ない。〈個人の欲望〉は、時代や社会によって形成されるもので、ローマ時代に殉教した人たちは、「誰だって死にたくない」を行動の原理にしていたわけではない(「死」が小さいことではないから「殉教」として歴史に残ったのは言うまでもないが)。
 そういう行動を「不自然」と考えるのは、現代の私たちの価値観であって、当時の人たちにとってはそれは「自然」なことだった。いいか悪いかではなくて、〈個人の欲望〉というのは、そのように時代や社会で変わるものなのだ。
 そして私は思うのだが、現代の肥大した〈個人の欲望〉というのは、「現実が科学の力によって変えられる」という思いと、「そうはいってもやっぱり現実は変えられない」という、二つの引き裂かれた思いよる産物なのではないか。リー・シルバー博士の言った「人類の特性そのものが変わってしまう」というのは、だから私は〈欲望しない個人〉というような、今とまったく違う人間の特性を作り出すことなんじゃないかと思う。
 もしそうなったら私はけっこういいんじゃないかと思う。欲望にがんじがらめにされている個人より、その方がずっと何かがあると思う。……でも、そうなる方法がバイオテクノロジーだけしかないとは私は思わないのだが。
 ――今月はこの話に終始してしまった。日記だから細かい矛盾は(大きい矛盾も?)そのままだけど、まあ、普段考えることといったら矛盾があるもので、それを統合すると論理的に見えてそのじつ単純な人間になってしまう。

『中央公論』00年7月号


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