◆◇◆〈それ〉は何を指すか?イ◆◇◆
神奈川新聞2008年11月29日(土)リレーエッセイ「木もれ日」


 そろそろ入試シーズン。国語の極意を一つ教えよう。
 いや、本当は極意でも何でもないのだが、小学校の時から先生が一度も教えてくれなかったので、私は大学受験の勉強中に自分で発見するまで、このことを知 らなかった。それは、「〈それ〉は何を指すか?」だ。
 例文「石川啄木はふるさとの訛りが懐かしくて、停車場の人ごみの中にそれ【それに傍点】を聞きに言った。」
 例文の〈それ〉は何を指すか? という問題が出ると、私は「ふるさとを離れた境遇」とか「自分と同じ訛りを話す人が身近にいない淋しさ」とか、とんでも なく複雑な答を書いていた。
 私は小学校では算数ばっかりできて国語が全然できない子どもだった。算数は答は問題文に書いてなく、自分で考えなければならない。一方、国語では答は基 本的に文中に書いてある。〈それ〉〈そこ〉などの指示代名詞はその代表だ。しかし、頭が算数用にできている子どもは、まさか答が文中に書いてあるなんて思 わない。だから、一所懸命自分で考えて、どんどん正解から外れていく。
 冗談みたいな話だが、これは本当なのだ。だから、学校の先生や塾の講師をしているという人と会うと、私は必ずその人に言うことにしている。「算数・数学 が得意な子どもは答は文中には書いてないものだと思い込んでいる。しかし国語は算数と違って、答が文中に書いてある。〈それ〉や〈そこ〉は文中から探せと 教えてやってくれ」と。
 算数・数学が苦手な人にとって、複雑な文章問題は、霧に包まれた風景を見るように茫漠としていただろうが、算数頭の子どもにとっては、長文読解が同じよ うに茫漠としていた。世間では一般に、算数が得意な子の頭はクリアと思われているが、そんなことはない。算数的に考えられるものに対してのみクリアなの だ。

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