◆◇◆さゞなみの「時間」と「距離」◆◇◆
02年11月23日封切り 映画「さゞなみ」パンフレット収録のエッセイ
監督・脚本:長尾直樹 台詞協力:保坂和志

私たちの日常というのは、何かに直面しないですむようないろいろな工夫がなされていて、その代表的な“物”が携帯電話で、電車の中でも街の中でちょっと立ち止まったときでも、メールをカチャカチャやっていれば、疑似的なおしゃべりをすることができて、それゆえ孤独に向かい合わないですむことができる。「孤独と向かい合わないために」などとはっきり意識してケータイをカチャカチャやっている人なんか誰もいないけれど、孤独と向かい合うことはとても怖いことなので、その意識の芽生えすら持たないように私たちの無意識は日夜勤勉に働いていて、それが確保されると思われる製品を選び択る。
 私がこの映画の脚本を読んで、台詞の説明過剰と思われるところを削ったときには(「台詞協力」という名目で私がしたのはじつはほとんどこれだけなのだ)、気がつかなかったことだったのだが、この映画に出てくる人たちはケータイを使わない人たちだ。一人一人が多くの時間を沈黙のうちに過ごしていて、そのため彼女たちも彼も必然的に孤独と向かい合わさせられている。脚本に関わった人間が「気がつかなかった」というのも、迂闊というか無責任な話だけれど、これが脚本と完成した映画の差であると同時に、小説と映画との差でもあって、映画は言葉のない時間を作り出すことができる。小説では誰も一言もしゃべらずに、風景だけを延々と描写したとしても、とにかく文字=言葉が書かれ、それが読まれるために、沈黙を作り出すことがものすごく難しい。映画はその言葉のない時間を作るのではなく、無造作にただ自然に身を任せていただけのようにして、見せることができる。それがこの映画全体の基底音となっている。
 では、沈黙して孤独と近しい世界に生きている人が何を見ているのか、といえば“過去”としか答えようがない。過去―現在―未来という三つの時間が等分に存在するわけではないのは、誰でもちょっと考えてみればわかることだろうけれど、しつこく考えていると、だんだん過去しかないと思えてくる。おしゃべりをしている時間は現在なのだろうが、その現在もまた過ぎ去っていく時間で、もしかしたらその時間こそがいつか回想するために準備された過去でしかないのかもしれないのだが、そんな穿った理屈はともかくとして――、誰ともしゃべらず一人でものを思っているときには、私たちには心底、過去しかない。そのとき未来を想像しているとしても、その未来は自分自身の経験から割り出した、経験の変奏でしかなくて、つまり私たちが沈黙の中で見ているものはすべてが過去で、それが一人一人の“内面”というものなのだと思う。
 映画はそれを“見せる”。小説は“語る”という本性から逃れられないために、言葉によって沈黙が描けないのとたぶん同じ理由によって、内面というものが過去でしかないことをいくら強調しても、過去を現在と錯覚させてしまう何かが混じり込んでしまう。この映画では三人が、その内面=過去を意識して守っていて、その姿に私は感傷でない、もっとずっと毅然としたものを感じる。

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 脚本だけを読んでいたときに、私はこの映画の沈黙の多さに気づかなかったのだが、もっと気がつかなかったのは、映画となったときに描き出されている空間だった。しかしこの空間の方は、私の迂闊でもなんでもなく、まさに“映画が持っている力”“映画になることによって実現される空間”としか言いようがないものだ。
 娘と母が離れて暮らしている――この単純で重要な事実を、この映画は見る者に片時も忘れさせない。
 「遠い」とか「離れている」という言葉を、人は日常で簡単に使うけれど、それらは概念でしかない。それに対して、「私がいまここにいる」という感覚は、ただの概念ではなくて、もっとずっと強い身体的なものだ。たとえば幅三〇センチの板の上を、地面からの高さが一〇センチなら楽々歩けても、一〇メートルになってしまったら全然歩けなくなってしまうのは、その高さがただの概念ではなくて身体性として捉えられているからだが、それと同じように身体性に基づいた感覚としては、私たちは「遠さ」を感じることができない。新宿と渋谷でも、東京と大阪でも、自分の視界の外に出てしまえば、すべて同じ「遠い」という概念でしかなくて、それが身体性に基づいていないということは、じつは「遠い」も「近い」の一種であるような錯覚を私たちに抱かせることになる。
 しゃべることによって孤独と直面するのを無意識のうちに避けているのと同じように、「遠さ」を「近さ」の一種であるように思うことによってもまた、私たちは孤独と直面しないすむことができている。だから私たちは都合よく親のことを忘れたりすることができるのだと思う。親にかぎらず大切な存在を簡単に忘れることができるのは、「遠い」からではなくて「近い」と思っているからで、だから「死」によって完全に隔絶されてしまうと、「遠さ」ゆえにその人のことが心から離れなくなる――しかし、心から離れないことによって、「母は死んでもいつも私のそばにいます」という幻想が生まれてきたりして、心の働きというのは錯綜しているのだが――。
 と、説明が長くなってしまったが、この映画に戻ると、「娘と母は離れて暮らしている。そのことを、見ている私たちは片時も忘れることがない。」という、この映画によって実現された空間によって、私たちは「娘と母は、二人が離れて暮らしていることをつねに感じている」ということを、概念ではなくて、身体感覚として共有することになる。つまり私たちは、娘と母の空間的な距離をただ感じているのではなくて、この娘と母が感じているのと同じように二人の空間的な距離を感じているのだ。この身体感覚は言葉による説明によって生まれたのではなく、ただ映像によって生み出された。
 それがどういう技法によるものなのか、私にはわからない。しかし、アップが少なく、部屋の中にいるときにもいつもやや離れた位置から娘(ないし母)を映しているカメラの視線がたぶん重要なファクターで、あの視線は、いわゆるニュートラルな視線ではなくて、娘(ないし母)が自分自身を見つめ、自分自身の孤独を確認してている視線のように私には感じられるのだ。


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