◆◇◆小説家の思考◆◇◆
「群像」1998年5月号

 保坂和志VS阿部和重  


■=保坂和志   ●=阿部和重


▼スタンダードな小説の概念

■僕と阿部さんの小説は、見た目、正反対のことばかりやっているわけです。きっと見た目だけじゃなくて、大分深いところまで正反対じゃないかと思う。でも、僕と阿部さんが正反対である外側に全く違う小説がある。一般的に小説とか文学というふうにイメージしているものは、僕と阿部さんの外にある、もっと全然違うものだと思うんです。
 いきなり保坂と阿部を並べて、二人は正反対だというと、ただそこだけにとらわれやすいけど、それ以前に、全然違うものがある。ここから先どれだけの分量外の方の話になるかは別にして、そのことだけは一言押さえておかないと、ふだん気にしていないんで、うっかり忘れやすいんですよ。「これぞ小説」というクサい小説を読んでいる人は、まあ、普通この対談は読まないだろうとは思うんですけど、そっちをいっておかないと、全然忘れてしまう。その注意の喚起だけははじめに一応しておきます。
●少なくとも二人の作品は、比べてみるとかなり違っている部分もあるけれども、比べるとか比べないとかの以前の問題で、僕と保坂さんの作品の外に位置する作品というのがはっきりとあって、世間では、どちらかというと、そちらの方が「正統的な小説」として受け取られているという話ですね。
■ええ。反対だといえるのは共通項があるからで、その外側にある小説と何が違うのか、面倒くさいので一番大ざっぱにいっちゃうと、これはあたりまえ過ぎて、実はいうのが恥ずかしいんですが、個人と社会が対立していて、個人の夢なり希望なりが社会という壁にぶつかって挫折したり、夢が成就したりするようなプロセスで、個人が何かをするという意思を肯定的に確認していったり、社会というもののシステムの不動さが身にしみたりということが一つのタイプとしてある。あと『マディソン郡の橋』みたいなのとか。
●それはいわゆる人生論的な小説とか、あるいは『マディソン郡の橋』は映画を見ただけでちゃんと読んでいないですけれども、ああいう非常にメロドラマティックなものとか、そうした諸々のものが当てはまるわけですね。
 その種の小説、細かく見ていけば、もちろんそれらの中でもいろいろと種別が可能だとは思いますが、いずれにせよある共通項をもった一群が一方にあって、保坂さんや僕なんかの作品は、必ずしもその共通項をまったく含んでいないということにはならないのでしょうが、ともかくそれぞれ一見異なってはいても、そちら側の小説とは明らかに対立するものであるという図式が仮にあるとすれば、じゃ、どうしてここに対立が起きているのかということを今確認してみれば、それはそれでおもしろいというか、それなりに有益だとは思います。
 ただ、それとは別に、僕は、そちら側の小説一般に認められる共通項と、僕や保坂さんの作品の中にある特徴みたいなものは、起源をたどっていけば、もともと小説という枠組みの中にあったものだと思うのです。僕は不勉強なので、小説についてまだまだ知らないことのほうが多いわけですが、僕なりに学んだことでいえば、そもそも小説というのは端的に「何でもありだ」というのがあって、そうであれば現段階で対立しているかにみえる小説それぞれの特徴的な要素がすべて内側に含まれることになる。つまり、とりあえずは外がないということだと思うのです。
 だとすれば、もともと小説一般の中に含まれていたそれらの要素が対立する二つの傾向に分かれてしまったのは、いつからで、なぜそうなってしまったのかということを考えてみる必要があるのではないかと今思いついたんです。ただ、だからといって、僕は、それがいつで、こういうわけだと今明確にいえるわけではないんですけど、ともかくいつごろからかそれらの二つ、「二つ」と厳密に分けてしまっていいかどうかわからないですけれども、対立が起きたとして、それらがなぜ対立することになっちゃったのかを考えてみると、何かいろいろと見えてくるものがあるのではないかという気はしましたけどね。
 それは、世界の文学の流れをたどろうとかいうことになると、またややこしくなってしまうので、日本の小説の中でどういうふうになっていったかを見ると、わかりやすいのではないか。まずは日本の近代文学史を探ってゆくことで、ここに要因らしきものがあるんじゃないかということが具体的に見えてくるのかもしれない、なんて非常にずるい言い方ですが(笑)、どうでしょうか。
■僕は、中学、高校の間、文学少年ではなかったどころか、ほとんど本を読んでいないんです。阿部さんもそうみたいですね。
●ええ、おっしゃるとおりです。
■それを経ていないことが、今は結果として幸いしているんですね。うまく思いつかないですけど、すごい文学的な流儀、文学的に過不足のない叙述の仕方というのがあるんですよ。僕はそれを使わないで細かくしちゃう。一番わかりやすく僕の小説に使う素材でいうと、文学的なものは、「猫」が比喩になっちゃうわけです。猫を出していながら、猫自体のことを全然考えていかない。僕は、猫を出すと、猫のことをずっと考えちゃう。阿部さんの方は、その猫の持つ隠喩を踏まえた上で、それを書き割り的に使っていくんですね。
 二人とも−−ここで「二人」というのはつるもうとかいう意味じゃ全然ないけど、文学的なものはある程度知っているんですよ。
●イメージとしてね。
■そうそう。それは小説を読まなくても、エッセイでも、文学好きのやつの話を聞いていても、多分テレビのドラマとかを見ていても、あるいは『日本一短い「母」への手紙』とかの広告を読んでも感じる。
 それを阿部さんは全部決まり事のようにして軽く出しちゃう。僕はそれを書き割りというふうに感じるわけです。ゴダールが『映画史』の中でしゃべっていたと思うんですが、「薄っぺらい探偵小説を一冊私にくれれば、あしたまでに映画の案を一本出してみせる」。悪い言い方をすると、何かそういう小ばかにしたような態度。そこでやりたいことは全然違うわけだから、それをダシにしてやろう、そういうようなものを感じるんですよ。
 書く態度としてそれは否定されるようなものではない。確実にある選択肢だと思う。だけど、すごく否定する人もいるわけでしょう。僕の方だって、話なんか何もないじゃないか、だらだらぐずぐずいっているだけじゃないかというふうにいわれるわけです。二人ともいろいろな場所で、過不足のないものに対して多過ぎたり少な過ぎたりするから、普通のスタンダードな小説というか、小説という漠然たる概念を持っている人には何かよくわからないだろうと思うんですよ。
●そうですね。それというのも、今までいろいろな小説が書かれてきた中で自分なりの個性を見せようとすると、そうしたってそこに含まれている要素の一部分を肥大化させるとか、極端に見せるとかいうことをまずやってみるしかないわけです。ということで、それぞれ違いますけれども、今保坂さんがおっしゃったような小説のつくり方になっているんだろうなと思うんです。
 ただ、それとはまた別に、いわゆる文学的なイメージというのがあって、それぞれで受け取っている文学的なイメージというのはまた別な部分もあるんでしょうけれども、何となくわかるというのはあるんですよ。小説をそれほど読んでいなかったにもかかわらず何でそれがわかるのかというと、それは恐らく文学に限らないことで、ある種のスタンダードな物語の構造や表現みたいなものがあるのではないか。
 Aさんがいます、Aさんがだれかと出会ったり何かする、それによって何か変わりましたという基本的な物語の展開がある。そしてさらに、そうした物語の展開をわかりやすく示し、感情に訴えかける表現というのがある。それは別に文学にかかわらず、いろいろな分野で利用されている仕組みだったりする。だから、ちょっとでも世間に関わっていれば、そうした物語や表現に触れる機会は多いわけです。
 文学をちらっと見てみても、意外とそのスタンダードなことが主流だったりもする。だからこそ、単純にやりようはあったというか(笑)、いろいろやり尽くされているといわれていても、その主流という部分はまだまだ崩れてはいないようなので、僕なんかが入り込む余地はあったんだなという気が今になってしていますけどね。


▼中心はどこにもない

●でも、こうした話だと、じゃ、そのいわゆる主流とされているものは具体的にどんなものなのか、読者はきっと知りたがるんでしょうね。
■僕は、本当をいうと、それはよくわからないのね。読んでいないというのも一つあるんだけど、実はないかもしれないとか思っているんです(笑)。
●ただ、今の話の流れでいうと、小説に仮に正統というものがあるのだとすれば、どちらが正統なのか、その覇権争いをこれからやろうみたいな話になっていくような気もしているんですが、決してそういうことではないわけですね。どちらが正統かというのはまた別の人が決めればいいわけで、本人が「おれが正統だ」と思ってやっていく分には、それはそれでいいと思うんですけれども。
■「文学界」四月号で、大塚英志が江藤淳のことを挙げながらサブカルチャー論を書いているんです。江藤淳の頭の中には、やっぱり正統とか、オーソドックスなものとか、中心とかいうものがあるんです。
 おとといローリング・ストーンズのコンサートに行ってきたんですけど、彼らはロックの正統なんですよ。ビートルズ、ローリング・ストーンズの六〇年代から七〇年代の半ばぐらいまでは、ジャンルがすごく大きく分かれていて、大体、専門誌というか、ジャンルの雑誌が一、二冊ずつしかなくて、ストーンズが新しいLP
を出せば、一、二ヵ月以内に取り上げられるとか、全体の流れを追えたんです。今はものすごく細分化していて、もう全然無理でしょう。
 でもそんなことはストーンズはいわない。江藤淳はいうんだけど、正統という意識もまた時代の産物でしかないと僕は思う。小説がサブカルチャーにのみ込まれるとか何とかという危惧以上に、僕なんか最初からサブカルチャーのようなつもりでやっているんですよね。どれもこれも世界の一ヵ所であって、メイン、中心なんかどこにもない。小説自体も中心ではなくて、どこか一つの場所というだけのつもりだから、何か中心があるという考えを持っていた人から見ると、こういう小説の態度は許しがたいものがあるのかもしれないとは思う。
●それもそうですし、僕のイメージですと、先ほどいったように、もともと小説が生まれたときには、「何でもありだ」というような状態で、一つの太いパイプみたいなものからどんどん枝分かれしていって、いろいろなスタイルの小説が生まれていった。だから、どれも正統だといえば正統だし、もはや正統はないといえばないといえる。もともとあったものの一部分を利用したり、借り受けたりして、それぞれがそれぞれの試みを行っているわけだから、どちらが正統かを確かめてみても大した意義はないんじゃないかとは思うんですね。
 ただ、立場上自分が採用している方法、自分はこういうことで小説を書いているという理念みたいなものがあるわけじゃないですか。そうした、立場上自分とは違うことをやっている人に対して否定的な態度をとるのはわからないでもないんですけれども、それをある種の普遍的な判断として世間にいわれてしまうのは、こちらもちょっと困ってしまう。
■時評やなんかで書かれると、読者に真に受けられる心配はあるよね。
●「ああ、そうか。こいつがやっていることは本来小説とは無縁のことであって、ここで切り捨てられても仕方がないことだ」なんて思われることだってあるわけです。評者が自分の立場上、こういうことは受け入れがたいという限定があって、それをいうのであれば構わないのですけれども、そうでない場合がむしろ多いので困ったなということを最近すごく感じます。
■もっとヒステリックな反応だったら、受け手の方もわかりやすいんですけど、書く時点では結構落ち着いて書くものだから、何か冷静な判断に見えちゃう。全然違うんですけどね。
●何もかもやり尽くされているといわれてもいるわけだから、逆にいえばどのようなスタイルであっても小説という枠内におさまり得るということをもう少し強調すべきだというか、自分で強調すればいいんでしょうが、その点をもっと理解してほしいという気持ちはありますね。
■そうすると、外枠、外から小説を判断する基準がなくなっていっちゃうわけです。当然、基準なんて内側からつくっていけばいいんだけど、そっちの方はほとんどの人に見えてないんじゃないかと思うんです。


▼内側からのリアリティ

■そこで、最近、といってももう何年もいっているかもしれないけれども、僕は「リアリティ」という言葉を持ち出すんです。映画でも音楽でも何でもいいですが、ここでは一応小説ということにすると、書き手が持っている、僕の言葉でいうと世界に対するリアリティを自分の小説で書いていく。ただ、そのリアリティの保証は、自分は思っているというだけで、ないといえばないんですけど、あるといえばこれほどあるものもなくて、消極的な判断の仕方でいうと、最低自分以外の読者が一人でもそれを読んでリアリティがあると感じるかということになる。でもそれも結構外枠なんですね。
 ここのところは説明できなくなってくるんですけど、そのリアリティは内側からあるということはわかるんですよ。むちゃくちゃな言い方だけど、そのわかるというのはわかる人にはわかるとしかいえなくて、それは何か法則化されたものを中でつくろうとしているかどうかというようなこととリアリティは関係するんじゃないか。
●法則化していくことの中で生まれてくる、とはどういうことですか?
■書き手のリアリティが何らかの形で法則化されていることが小説を読んでわかるということなんですが、ここからさきは僕はやっぱりうまくいえない。しいていえば繰り返される題材とか素材。
 僕は、題材として自然の風景とかを必ず選んで、阿部さんには暴力があって、それは一見簡単に借りてきたようだけど、簡単に借りてきただけでは長く書けないんですよ。二百枚、三百枚と書き切っていく作業を支えてくれるものの一つはやっぱり題材でもあったりするんです。方法とか語り口、すべてが支えるんだけど、題材がコケていたら支えられないという感じはするんですね。
●僕も、リアリティに関しては、最近映画の方面でもいろいろと考えているんです。恐らくリアリティにもいくつかの水準があって、今保坂さんがおっしゃった、題材的なものが常に反復されてゆくというある種の一貫性が、作者にとっての切実なリアリティとして認められる場合もあるだろうと思います。
 世間で広くリアルなものと受けとめられているのは、小説内において描かれる出来事の持つ本当らしさというか、現実感みたいなものだと思うんですが、しかしそれはかなり貧しいイメージに支えられている。というのも、そうした「本当らしさ」というのは、一般的に既知のイメージで構成された出来事から得られるものというか、だれもが共通の認識として持っている実感だとかを駆使して仮構されたものなわけで、結局のところ紋切り型に行き着くと思うんです。したがってそれはリアルとはいいがたいものになる。
 というわけで、僕はそうした、ある意味たやすく獲得できてしまう、出来事の「本当らしさ」をより多く設けることでリアリティを追及してゆく気はないんです。
 それとはまた別に、リアリティをどのように導入していくかという点で、物語が書かれる背景というか、つまり、フィクションの成立過程まで含めて物語化していくという試みがあるわけです。メタフィクションというジャンルがそれにあたるのでしょうが、それもまたリアリティの導入のために考え出された一つの方法だとは思うんですね。
 つまり、物語内の出来事の中で成立しているリアリティのまた外の部分、その成立条件まで前景化させることでさらにリアルな側へ近づこうという試みだと思うんです。そういう点で、メタフィクションはある種のリアリズム小説の発展形態だと思うんですが、しかしそれも既にずっと試みられていて、一つの方法として制度的に一般化されたというか、そんなことはだれしもが試みていたりするわけで、それ自体もまた行き詰まっているなという気がするんです。
 じゃ、それとはまた別の方法、一段高い方法という言い方は当たっていませんが、さらに別の形でリアリティを小説の中に導入していく方法として、果たして何があるのかということを今僕なりに考えてはいるんですけれども、そうした一つとして、さっき保坂さんがおっしゃっていたような、反復される主題みたいなものの持つリアリティもあるんだろうなとは今思いましたけど。


▼ドン・キホーテの狂気

■今の阿部さんの、一般的に事件がつながっていくというのも、フィクションがたくさん書かれると形骸化していくわけです。形骸化していくとリアリティってなくなっていくでしょう。阿部さんの小説でのあらわれ方というのは、事件の連鎖の仕方とかで普通の小説じゃないつながり方になるから、その普通にならないところに多分その人のリアリティがあるんですよ。
 僕の場合、海を見ていたりするというのを書くときに、小説風に書いちゃった途端にもう何のリアリティも自分でなくなっちゃう。物語でも文体のレベルでも、オーソドックスなものを出しちゃった瞬間にリアリティがふわっと消えていくという大問題があって、それに気づかない人はたくさんいるけど、気づいちゃうから、その距離を埋めていったり、故意に離したりしていかなきゃいけないわけです。小説風に書いちゃうと、いい古された言い方になって、そのときの体験でなくなっちゃう。僕の問題は大体そういうことなんです。こうやって僕と阿部さんを一々比較していくのもなんですけど(笑)。
●今のお話を受けた形でいうと、僕の場合は、既に形骸化された記号、単純に一般化された記号というのがあるじゃないですか。そうしたものをまず受け入れてというか、小説、物語の中に配置していって、再度それに肉づけしていくことに関心があるというか、僕はずっとそういうことをやっているんだなと思ったのです。
 『インディヴィジュアル・プロジェクション』という作品でいうと、例えば「フリオ・イグレシアス」という記号が出てくる。あるいは『アメリカの夜』でいえば、「ブルース・リー」という記号があって、そうしたほとんど形骸化されたであろうもの、つまり、形骸化されているということは、ある種の一般的な共通認識みたいなもの、一般的に流通しているイメージがあって、そこからずらしていく作業を自分なりに試みているのではないか。形骸化されたものに自分なりの肉づけをすることによってまた別のイメージを与えていく。そのことでリアリティの実感みたいなものを得ているのかなとは思っているんですけれども。
■人の作品の感想は余りいわないようにしようかなと思ったんだけど、これだけはいいたいと思うのは『ドン・キホーテ』という小説は、サンチョ・パンサによってイメージが屈折していくので、サンチョ・パンサに気がとられがちなんです。でも、『ドン・キホーテ』というものを成り立たせているのはドン・キホーテの狂気とか妄想で、あれがない限り絶対だめなわけです。
 『アメリカの夜』を読んだときに、阿部さんの小説にはその両方がいるんだけど、ドン・キホーテの狂気が間違いなくある。普通メタフィクションはドン・キホーテの狂気が実はほとんどない。それがなくてサンチョ・パンサだけになっちゃうから、メタフィクションって普通おもしろくないんですよ。
 しかも、阿部さんの場合、その狂気のあらわれ方が大らかで、余り切羽詰まった狂気というか、不気味な狂気とかじゃなくて、非常に変なやつというか、とにかくその小説を読むまで余り出会ったことがないような狂気のあらわれ方になっているんですね。形式の方は、現代小説の読者としては割合ありふれた感じがするんだけど、中心の狂気があることがおもしろい。
 ところが、僕が阿部和重という小説家をずっと読まなかったわけは、群像新人賞の選評からその後の批評まで、サンチョ・パンサの部分が強調されちゃっているんですね。
 ついでに聞きますと、『ヴェロニカ・ハートの幻影』のおしまいは、全部きちんと説明がつくんですか。つかないでしょう。
●つかないんでしょうね。というか、あれはもともともうちょっと長いものだったんですけど、編集によってちょっとダイエットしたんです。ただ、そのダイエットしなかった分を含めてみても、果たしてすべてにおいて説明がつくのかというと、僕はそうではないなとは思っているわけです。
■傷だらけの男と亡霊と名乗るやつとそれを書くやつが全員一緒なのか、どれかが違うのか、きちんと説明できないようになっているところがやっぱりドン・キホーテなんですよ。それが阿部和重の核心のような感じがするんですね。その核心、中心的なものだけは、勉強してもトレーニングしてもなかなか出てこない。野球でいうと、ピッチャーの球の速さは持って生まれたものでしょ。
●今保坂さんがおっしゃった部分で自分がどういうことをやっていたのかというと、まず思考の発展のプロセスというか、何らかの命題を与えられた人間が、それについてひたすら考える。そんなふうに、人が自分の思考をフルに働かせている状態というのは、恐らくある種の狂気に近づいているんじゃないかと思っているんです。
 というわけで、狂気というのはそれほど特別なものではなくて、むしろありふれている。そうした、思考をフルに活動させている状態を自分の作品の中でどれだけ描き得るか。僕はまずそれを課題にして書いているところがあるんですけれども、人間やっぱり完全ではないので、そんなことを続けていると、破綻に追い込まれる。すごく体力のない人だったりすると、その破綻がすぐに訪れたりするわけです。
 だから、その破綻をなるべく先送りしつつ、思考のフル稼働状態を延々と続けられるようなものを書きたい。多分そういうふうに無意識に思って書いているのではないかとは自分で思いましたね。その部分がさっきのリアリティにつながっているような気はしますけれども、とにかく一つの出来事なり物事があって、そこからどのようなことが起こり得るのか、その可能性について考えていくことに想像力を費やしているんだと自分では思うのです。
■つじつまを合わせるのって簡単なんですよ。ところが、最後になってつじつまが合わないじゃないかというのは、批判しやすいことなんだけど、そのつじつまの合わなさが何かあるというか、つじつまが合うより合わない方がもっともらしいわけです。
●それでいうと、僕は、賞の選評なんかで、頭でつくり過ぎているんじゃないかと批判的にいわれるんですけど、しかし当然頭も体の一部なわけで、「いやいや、むしろできる限りフルに体を使ってやっていった果てに倒れたのだ」といいたいわけです。
■頭を使うとか理屈っぽいというのがよくないことになっているでしょう。
●何かすごく軽視されていますね。
■頭を使うことやインテリであることを卑下したり、頭を使わない人が頭を使っているやつをばかにしたりするような風土があるのは、多分世界中で日本ぐらいじゃないか。
 その起源についてはちょっと考えたことがあるんですよ。その一つは、中野重治とかが名を成して地方に帰ると、「おまえはいい大学を出て、政治家にもならないで何をやってるんだ。文章を書いているだけじゃないか」というふうなすごい強固な風土がある。そしてまた東京に戻ったときに、地元で全然評価されていないというところで、大衆の強さを今度はインテリが持ち込んじゃったんじゃないか。そんな感じが一個の要素としてあるのではないかと思っているんですが、僕はそれを気にしないことにした。頭がよくてどこが悪いみたいなね(笑)。


▼経験と知識の同居

■『季節の記憶』を書いたときに、荒川洋治という人に、小説もここまで理屈っぽいものになり果てたかという文芸時評を書かれたんです。彼はすごい素朴な言語観を持っていて、自分の生身の観察とか注意力とか経験で世界を描けると思っている。それはかなり一般的な勘違いなんです。
 人間というのは、科学の進歩と関係しているんだろうけど、大体、自分で確認できないものを知識として持っている。たとえば地球が丸いとかいうことが、いまの人間にはインプットされているわけです。どう見たって、大地があって、太陽があって、太陽が回っていくようにしかみえない。でも、同時に、太陽の周りを自分の住んでいる地球が回っていることも知ってしまっているわけです。生身の経験と知識として入ってきたものの二つが同居しちゃっているのが人間なんですよ。
 生身だけでやっていると人間にならないというか、考えていることにならないんですね。ですから、自分で確認できないような知識を、なおかつ当たり前のように取り込むというメカニズムに、僕はずっと関心があったんだろうなと思っているんですけどね。
●それもそうですし、小説というのは、生身を描くというか、そういう身体的な実感なり何なりを描くというのも、結局のところすべて頭を働かせないと書き得ない。さらに、頭の中を通過するということは言葉を通過するしかないわけだから、やはりそこには実際とは別のニュアンスが加わってしまうだろうし、何か違うものに変形しているわけであって、生身の部分、あるいは身体的実感みたいなものが頭を通過したことによってどのような形になっていくか、その部分にこそ注目しなきゃいけないんじゃないかという気はしているんですけどね。
■人間にはもともと生身なんていうものはないといえばないんですよ。子供の場合はわからないけど、大人になったら、医者に注射を打たれるのだって、治ると思って我慢して打たれたりするわけでしょう。そんなの猫にどれだけいったって通用しませんからね(笑)。
 これで治るんだからとか、病気にかからないんだとか、こっちは一生懸命いうんだけど、それは猫には絶対通用しない。人間は通用するんですよ。それは生身じゃないし、注射を打って風邪が治るとかいうのは経験でもない。そういわれているだけなんです。それを頼りに注射を打つだけで、知識を頼りにしてすべてのことをやっているくせに、何をいっているんだというのがあるけど(笑)。
●しかし、肉体的な実感というか、感触、そういう身体感覚から精神へとつながる印象の部分を突き詰めて考えていくと、ある種の神秘性に行き着いたりもしがちだと思うんですが、僕が保坂さんの小説を読んでいて感じたのは、もちろんこういうふうに単純化するのは余り適切ではないかもしれませんけれども、科学的な認識が語られていく中で、恐らく書き手である保坂さん自身も、どこかしら神秘性の領域に引き寄せられていくというか、引き寄せられまいとしながらもそこに引き寄せられているという葛藤が見え隠れして、僕はそこがすごく興味深かったんです。
■僕、どっちも好きなんですよ。
●二重構造的になっている。保坂さんの作品はそれによって支えられているんだなと僕は感じたんですけど。
■何せ日本中のカルチャーセンターの中で最初に超能力の講座を企画したのは僕だと思うんですけど、同じだけ信じられるし、同じだけ疑わしいんですよね。科学のことが出てくると、みんな頭の中で絶対セットで神秘的なことも考えるんですよ。
●神秘的な着想から科学的認識に至るという過程があったりするわけですからね。
■阿部さんのも、もろに「操られている」という感覚になってくるんです。個人というものがいろいろなシステムの中で操られて、阿部さんの書いている個人というのはいわゆる個人じゃないんですよね。
 話が戻っちゃうかもわからないけど、批判する人というのは、実は頭で書いているという問題じゃなくて、こんなのは小説で描くべき個人じゃないということの方が、深いところで触れているんじゃないでしょうか。
●それはあるような気がしますね。と同時に、人間を描くには、最低でもこのような形容なり表現なりが必要であろうという暗黙の了解みたいなものがあるのではないか。例えば僕の小説、特に『インディヴィジュアル・プロジェクション』がそうだったんですが、印象として非常に殺伐としているというわけです。
 文章が悪いと判断する人もいたらしいんですが、それは何でだろうと思って、その後人からいろいろ聞かされたことをまとめて考えると、「何々のようである」みたいな表現がほとんどない。その部分が大きいらしい。事物を認識する際に、「何々のようだ」というのは恐らく実感の部分を指していると思うんです。だから、「何々のようだ」というふうなものがないと……。
■文学を読んでいるような満足感が得られないだろうと思うんですよ。
●きっとそういうことなんでしょうね。
■だから、日記にしてみたり、手記みたいにしてみるというのは、一つの方法的なことなんだけど、自分の限界を隠すという機能になりがちなものでもあるんですね。
 日記にしちゃったら書けないからね。でも読んでいると、普通に小説で書かれるはずのものが書かれていないにもかかわらず、阿部さんの小説はきっちり過不足なく書ききれているようにみえるようになっている。
●それと同時に、仮に僕がさっきいったことが本当であるとすると、つまり、「何々のようだ」の部分がないことで、頭でつくり過ぎているんだというふうな批判があるのだとすれば、「何々のようだ」ということも、印象として、ある風景を見たときに頭の中を通過して言葉になったもの、頭の中でつくったもののわけです。でも、これは僕が今勝手に考えただけで、そうじゃないかもしれませんから、何ともいえませんけど。
■「ようだ」というのは、サラリーマンをやっていると本当によくわかる。信長と家康と秀吉をたとえで出してきたりすることが多いでしょう。
●ありますね。
■この人たちは企業というものを戦国時代の戦いと思っているのかな、そういうことをやっているんじゃないでしょう、経済というのはああいう戦いとはもっと違うでしょうと僕は思っていたわけです。
 「ようだ」というのは、その人が持っているリアリティを思いがけずあらわしてしまう。もっとも借り物であることも多いですけど。僕も「ようだ」はないんです。「ようだ」を使わずにやろうとするから話が長ったらしくなっちゃう。「ようだ」と書くべきところを埋めていく書き手と、「ようだ」と書くべきものを書かない、二人はそういうふうに正反対の分かれ方をしていく。
●その点でいうと、「ようだ」がある方が出来事の幅が広かったり、何か事が起きているかのような印象があるかもしれませんけれども、むしろ逆ですね。「何々のようだ」が極めて少ない保坂さんの小説は、話が何もないかのようにいわれるわけですけれども、実は逆で注意深く見なくても実際いろいろなことが起きている。だけど、なぜ何も起きていないかのように思われてしまうかというと、恐らく何か事を見た作中人物なり書き手なりが、その出来事を「何々のようだ」と表現しなかったりしているからではないかと今思いましたけどね。
 実際、『季節の記憶』にしても、子供が頻繁に動いたり、いろいろなことが起きているわけです。
■しかし、それをいうのは、よほどまじめに映画を見ていた人ぐらいしかいないでしょうね(笑)。
●実際いろいろなところに移動したりということは起きているわけです。だから、「何々のようだ」というふうにいいあらわせないようなことは、出来事ととらえないというのが大きいんじゃないですか。そういう人の方が多いというのか、そのような考えが主流になっているのかなという気がしてしまうんですね。


▼ドストエフスキー的人物の語り

●「群像」四月号でお書きになった保坂さんの『二つの命題』の中にドストエフスキーが出てきますね。僕がドストエフスキーの小説に受けたリアルな印象というのは、さっき僕は、自分なりにこういうことを試みているという話の中で、思考のフル稼働状態ということをいったわけですが、ドストエフスキーの小説では、例えば会話の場面などにおいてそうした状態が頻繁に見受けられるわけです。一人の人間が延々と、しかも、およそ理解しがたいようなことまで語り続けるわけです。
 その中で、彼らは自分の思考というものをまさにフル稼働させてどんどんいくじゃないですか。あの何か果てしないところ、思考が遠く彼岸の方まで行き着いてしまったかのような話しっぷりに僕は非常にリアルなものを感じるんです。だから、小説の中にこれからどのようにリアリティを導入していくかという課題の一つの手がかりとして、まずドストエフスキーの小説の中における登場人物の語りっぷりがあるわけです。
 あれには非常に強力なものを感じて、こういかなくてはいけないと思うんです。とにかくひたすらハイテンションで話し続けて、しかも、一人じゃないですからね。何人もいて、それぞれで議論まで行っている。これはどういうことだろうと思うんですよ。『カラマーゾフの兄弟』なんか読むと、一人の人間が書いた小説とはとても思えない。僕の中では、その役割を担っている者がまだ一人という感じなんで、もっと複数化していかなければいけない。同時に、あれは行くところまで行って壊れているわけです。
■『カラマーゾフ』にしても、『罪と罰』にしても、あれだけの厚さで日数はすごく短いんですよね。
●そうですね。あれにはまずびっくりする。
■読んでいる人は普通、日数の短さに気がつかない。二日や三日や一週間で進むような考えじゃないんだけど、何せどんどん進んじゃう。でもそういうことには全然違和感を持たないわけです。
●そうだし、何かすごく大きなとてつもない事件が起きたかといえば、ちょっとは起きたりしているんですけれども、そんなにないんですよ。何か状況があって、その中に集まった人たちがいろいろなことを考えて、いろいろなことを話しているという状況が繰り返されているだけで、何も起きていないじゃないかといわれても仕方がない部分もある。だけど、やっぱり起きているわけです。そこに可能性があるんじゃないかという気はしますが。
■『死霊』も全然日がたたないでしょう。僕は七五年に出たところまでしか読んでいないんですけど、あれは、何も起きないじゃないかという批判はなかったわけでしょう。それで大層な小説になっている。僕はあれは余りおもしろくなかったですけどね。ドストエフスキーのように登場人物に肩を持ったり頭に来たりするようなことは書かれていなくて、ただ思弁的にでき上っているから。
●ということは、登場人物が感情的にならないと、みんな出来事が起きているという気がしないのかな。ある人にとっては、何か激高したり激しく泣いたり、そういう部分を描いていないと、人間の肉体的実感を描いたことにならないということかもしれないですね。ただ、人生の中では、日常的に見て、そんなに激高したり、激しく泣いたり、あるいはけんかしたりする方がむしろまれですね。そういうことをほとんど通過しないで生きている人だっているわけです。
 とはいえ、僕の小説の中では、暴力が頻繁に描かれています。これは別に弁明するわけじゃないですけれども、僕の作品における暴力というのは、いわゆるアウトローの美学には結びつきがたいものとして、様々な状況が重なっていった結果、偶発的にというかなし崩し的に起きた出来事の一つとして書いているつもりではいるんですけどね。


▼視点の順番と文体

■阿部さんの文体は、音楽的なイメージなしにリズムとかテンポができている。これはすごく珍しいことだと思うんです。僕は、やっぱりある種の音楽をイメージしながら書いたり、センテンスを音読するわけじゃないけど、追っていくときのテンポとかで一番ぴったりくるイメージは、コーランを壁に向って読むとか、ああいう感じで何かに入っていったり読んだり、電車がただひたすら退屈にゴトンゴトン動いているとかいうような感じなんです。
 阿部さんの場合には、多分一つ一つのセンテンスの単位でカチッ、カチッ、カチッと進んでいくんですね。それは長さで決めているわけじゃなくて、何かもっと内的なものでパチッ、パチッ、パチッと進んでいく。外的な何か、コーランとか電車とかいうイメージを借りずにテンポをつくったというのは、すごい珍しいことなんじゃないかと思うんです。
●それは多分、最初からワープロで小説を書いていったということが関係していると思います。画面を見つめていると、文章の中で一つ一つの言葉やセンテンスがどういう配置になっているかというのが気になる。一語一語それ自体がキャラクターのように見えてきて、こいつを白紙の中のここに置くと、理想的なイメージにおさまりそうだとか考えながら文章を構成したりするので、そういう印象があるのかなという気はするんです。
 だから、僕はきっと、言葉、文字の持っている視覚的な印象みたいな部分を優先して文章をつくっているのかもしれない。とはいえ、そういうことをやっていくと、大抵の場合、エキセントリックな表現にいきがちじゃないですか。特にワープロだと、同じ文字をバーッとつなげたり、漢字を駆使して謎の言葉を作り出したりとか、そういうことは僕の趣味ではないので、正確にいうと、いわゆる視覚的な印象というのとは違っているのでしょう。
 というわけで、視覚的な印象だけで突き進んでしまうと、エキセントリックな表現になっていきがちなんで、むしろその言葉、記号が喚起させる意味というか、イメージの部分の方が優先されているということかもしれません。つまり、その言葉自体は全然奇異ではないんだけれども、ある文脈の中にそれが置かれると奇異に感じられるというか、あるいは新鮮だったりとか、違和感があるというか。それはわかりやすい例でいえば、フリオ・イグレシアスでも、ブルース・リーでもいいんですけれども。
■「悪魔を憐れむ歌」の訳詞は自分でやったんですか。
●いや、あれは違います。CDの歌詞カードからの転載です。
■あれはうまい訳詞だなと思った。浮いていなかった。
●あれはたまたまだったんです。つけ加えておくと、『アメリカの夜』のブルース・リーの話のところに『魂の武器』という本が出てくるんです。「これは本当はないんでしょう」といろいろな人からいわれるんですが、あれは本当にあるんですね。あそこで引用されているのは、僕が考えた文章じゃなくて、もともとある文章なんですよ。
■多分、中で与えている情報の進展とセンテンスの長さが合っているんだろうと思うんです。一時期、文体のことがすごくいわれていたんだけど、長いとか短いとか、重いとか軽いとか、速いとか遅いとか、物理的な言い方をしていた。そうじゃなくて、並んでいる情報と読み手に喚起するイメージの順番というか、その出方がすぐに出るようになっているか、なかなか出ないようになっているか、そういうふうなことが文体と関係していると思うんです。
●そうですね。小説というのは、読者にとってその世界が見えないじゃないですか。全体が見えないまま読んでいく中で、文字を読むことによって少しずつ見えていくというようなことになっていると思うんです。つまりはそこに読み手の関心が集まる。書き手としては、読者にとっては見えていないものが一応は見えているわけですから、世界のどの部分から見せていき、またそれをどのように見せてゆくかということで読み手の関心を持続させようと考えながら文章を構成しているわけで、今保坂さんがおっしゃったように、当然文体の決定と深く関わっているはずですね。
■書いていく順番、部屋に入ったり人と会ったりする印象をつくっていくというのを、映画でカメラをどういう位置に置いて、どういうカットの長さでつないでいくかということに置きかえていくのが、文体をいうのにわかりやすいのではないか。自分の文体をつくっていくのにもカメラを持っていないと、なかなか大変というか、それは本当の「文学的」な、ありきたりな叙述の仕方にしかなっていかないんじゃないかと思うんですけどね。
●そうですね。人は日常的に、見知らぬ部屋に入ったときでも知っているところに入ったときでも、まず最初にこれを見て、あれを見てというように順番で見ているわけです。視界にはいろいろなものが含まれていますけれども、そこで中心的に見ている部分があるわけだから、その見ている順番をどう並べるかでその出来事の印象は全然違っちゃうと思うんです。あるいは何を書こうとしているかという部分でも意味が変わってしまうということがあって、それは重要な問題だと思いますね。
■だれかがブルース・リーの顔に似ているとか、松田聖子に似ているとかいうときに、僕はそう思っても、相手は思わないことがままあるでしょう。あれは多分見ている場所が違うんですね。人を認識するときに、鼻で見るか、目で見るか、あるいは目と鼻と口の配置で見るのか、あと表情で見るのかによって、自分には見えて、相手にはそうは見えないということがある。あれは客観的というか、幾何学的なものでは全然ないですね。そういう順番が文体をつくっているのだろうと思うんです。
●そういうことに自覚的だったり意識的だったりしないと、ここにはまずどういう人がいます、何をしていますみたいな、恐らくはテレビドラマだとかによって刷り込まれているであろう一般的な見る順番みたいなものがあって、それをそのまま書いてしまいがちになる。
 だから、個性的でありたいのであれば、そのような見る順番からできる限り外れるしかないわけで、もちろん物語の進行にふさわしく順番は設定されていくんだろうけれども、それにしたって、いきなりこれは見ないだろうみたいなことはいくらでも可能だとは思うんです。
■書き手はそれを書いているときに規則性もつくっておかないといけない。書きつつ、つくっていく。突然文学の宝庫からあさってきて、このシーンはドストエフスキー、このシーンはデュラスというのではやっぱり変なんですよ。文体にならない。
「文学界」に三島由紀夫をモデルにした小説が出たでしょう。あれをちらっと読んでみたんですけど、書いている人はあったことだけを書くというか、あったことに安住しているから、読んでいて、確かに事実としては伝わるけど、全然おもしろくないわけ。すごくつまらない人の話を聞かされているみたいで、それから先を聞きたいとは思わない。
●あったことだけを伝えるというのは、例えば一般にホームビデオというのがあって、ああいうのは、大抵の場合、見せられるとつまらないという印象があるじゃないですか。あれはまさにあったものをそのまま撮っているわけです。
 とはいえ、それは恐らくその本人にとっては切実なというか、ある固有の視線のあり方だとも思うんです。それがなぜかつまらなかったり退屈に見えたりするのが、僕には不思議な気がするというか、ただ見ているだけではだめで、何かを通さないと、おもしろかったり刺激になったりはしないというのは興味深いことです。
 去年の暮れに黒沢清という監督の『CURE』という映画が話題になったんですけれども、あの人はついこの間『CURE』が上映されたばかりなのに、『蛇の道』『蜘蛛の瞳』と、いきなりもう二本も映画を撮っているんです。それでびっくりしたんですけれども、それだけじゃなくて、その二本は、ほぼ同一の設定から二つの全く別な物語をつくっているという連作なんです。
 かつて自分の娘を誘拐され殺された経験のある男が、その犯人を捜し出して復讐するというのが一つの設定としてあって、それが物語のとっかかりになって、そこから二つの映画で全然別の話になっていくのですが、演出自体も全然違うような印象を持たせる作品になっていて、二つの作品とも僕はすごくおもしろかったです。
 この二つの映画は、今話していた視点について考えるのにも適切だと思うんですが、僕があらためて気づかされたのは、さっきの小説について述べたことと同じようなことなんですが、端的に映画においてはどんなことでも起こり得る。もちろん制限がまったくないわけではないのですが、こういうことはいけないという原則は一応ないので、どんな物事、出来事があったっておかしくないわけです。
 そのような前提に立って、いろいろな映画が撮られているはずなんですけれども、実情はどれも容易に予想可能な出来事の進展を描いているばかりです。黒沢清の二つの新作においては、とりわけ奇怪だったり不条理だったりする出来事が起きているわけでもないんですけれども、各場面において必ず何かの驚きがある。それは一つには画面の構成、さっきの話でいえば視点の順番ということに絡んでいるわけです。


▼メタフィクションの行き詰まり

■キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』は九四年の年末ぐらいかな。阿部さんがたしか「新潮」に書いていたけど、僕はあれを見て、おもしろくていい映画だと思った。だけど、それはやっぱり映画としてしかおもしろくなかったんです。あそこで何かバチンと映画に対する関心が終わっちゃった。それだけじゃなくて、フィクション全般に対する関心も終わっちゃったんです。
●『オリーブの林をぬけて』でバチンと切れたというのは、僕なりに非常にわかるところがありますね。
■それでも全然見ないわけじゃないし、小説も読むけど、何かフィクションがフィクションであるだけで、砂が手のひらからサラサラと落ちていくみたいに全部つまらなくなっちゃった。ただ、それはフィクション全体が来ている場所なのか、僕個人の気持ちの問題なのかはわからないんですけど、リアリティに強くこだわり出したのはその辺から来ていて、今のリアリティへのこだわりというのは、中でのどれだけのリアリティということじゃなくて、それを離れたときのリアリティになってきているんです。
●僕に関しては、とりあえず僕は自分にとってのリアリティというふうな考え方はしないんです。なぜか自分にとってのリアリティはどういうものかとは考えないで、むしろいわゆるリアリティというのはどういうことだろうというところから考えるんです。ただ、そのいわゆるリアリティってどういうものかと考えて出てきた各段階での結論が僕にとってのリアリティなのかなという気はするんですが、そういうふうにも思えない。自分にとってのとは、なぜか考えないですね。
 じゃ、いわゆるリアリティというのはどういうことだろうと考えていくと、リアリティにもいろいろな水準があってということになっていって、最近の映画でいうと、これはいろいろなところで書いているんですけれども、スタイル的に、日本に限らず世界的にドキュメンタリー・タッチの撮り方が結構支配的なんです。だから、画面から受ける印象じたいは非常にリアルな感触があるわけです。
 ただ、そのリアリティ自体は、作中で語られているメロドラマティックな物語を支えるための一要素にすぎなくなっているというか、通常あり得ない劇的な物語の説得性を増すための補強材としてしか機能していない。そういうことがるんで、僕は、物語内においてのみ成立し得るようなリアリティはどうも信頼できなくなっている。というわけで、さっきのような発言があったわけです。
 ところで保坂さんがおっしゃっていたキアロスタミの『オリーブの林をぬけて』という作品は、実は『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』とともに三部作になっています。キアロスタミは、七〇年代からドキュメンタリー・タッチの映画をずっと撮っていたんですが、その三部作に至って、メタフィクション的な構造が導入されたわけです。
 まず『友だちのうちはどこ?』という映画があって、『そして人生はつづく』においては、『友だちのうちはどこ?』の舞台になった村で地震が起きちゃったので、その映画に出演していた子供たちに会いに行こうということで、監督とスタッフがその村に行くわけです。つまり、一つ前の作品のメタレベルから撮られている。『オリーブの林をぬけて』も、まさにその前二作のメタレベルから物語を構成しているというようになっているわけです。
 だから、ここでも二重構造になっていて、撮り方としてはドキュメンタリー・タッチなんだけれども、それ自体、既にフィクションだということも作品内であらかじめ語られているような形になっているわけです。そうした三部作が出てきちゃったときに、フィクションそのものに対する関心がバチンと切れちゃうというのは、僕なりにわかると思ったわけです。
 物語内の出来事の持つ「本当らしさ」としてのリアリティを追及してゆくのは無駄なことだし、さらに、そのフィクション自体を成立させている背景まで含めたリアリティとさっき僕はいいましたが、恐らくだれもがそう感じているように、そうしたメタフィクション的な試みも、方法化され一般化された現段階においてはもはや行き詰まっていて先はないんじゃないか、余り可能性はないんじゃないかという気がしています。
 そのような方向に行かずにリアリティを導入していくためには、その物語内において、その都度その都度リアリティが生成される場みたいなものをつくっていかなきゃいけないだろうというのが一つの考え方なんです。その場みたいなものとしてまず考えられるのが、さっきのドストエフスキー的登場人物だったりするわけです。
 これはもはや方法なり何なりで考えられることではなくて、書きながら自分なりに徹底して考え尽くすしかないんだと思うんです。大分前ですけれども、「群像」に「『言葉のこと』と『イクこと』について」という、何だかよくわけのわからないタイトルのエッセイを書きました。その中で、僕はイッてみたいというようなことを書いたんですが、まさにそういうことを書いたんです。
 さきほどドストエフスキー作品を例にして話しましたが、ある異様にハイテンションな登場人物にとめどもなく語らせ続ける、あるいは何らかの行動を起こさせる。そうした、思考もしくは身体のフル稼働状態、その過程を詳細に描き続けてゆく中にリアリティが侵入してくるのではないか。ちょっと抽象的でわかりにくいんですが、僕が今のところ考えているのはそういうことですね。
■それはわかりにくいようで、すごくよくわかります。一点突破という言い方は変だけど、何かそういうこれだけを頼りに何かを仕上げるというような意思とか知能とか思い込みとかいうものだけが支えるのかもしれないという感じはするんです。
●今みたいな話をすると、じゃ、ばかになっちゃえばいいんじゃないかみたいな感じで受け取られやすいんですが、決してそういう意味ではなくて、簡単にいえば、構築がなければ、それを壊すこともできない。それは物をつくっていく中での基本的な物事の条件としてある。だから、その当たり前のことを出来る限りやり続けてみましょうということなんです。
 徹底してつくっていくことが壊すことにつながっていくというか、破壊が前提というわけではないのですけれども、ただ、僕はなぜか壊したいという欲望も同時に持っているみたいで、『インディヴィジュアル・プロジェクション』でもそうした傾向がありました。でも、それは目的化しているものではないんです。物語世界ができあがってゆく中で、一定の秩序を保ったままきれいにまとまってしまうことが、書いていくうちに耐えられなくなっちゃうことがあって、だから、また別の仕掛けを導入してみようとか、どうもそういうことを考えがちなんですよ。
■最近僕は、この間の「群像」に載せたようなのをシリーズ化して一年間ぐらい書こうと思っているんです。だけどいくつか書いているうちにわかったんだけど、書き手の僕にとっては、風景のことを書いたりすること、それは描写かどうかわからないけれども、とにかく広い意味での描写のようなもの、だれだれが部屋に入って何をしたとかいうことを書く方がよほど大変なんです。それは読む人は一番自然に読んじゃうところなんだけど、こっちとしてはすごい大変な労力を入れなきゃならないところなんです。
 何で小説家なのかというと、小説を書いているときに一番考えるから小説家なんですよ。そうじゃない小説家も多いけど、本来の小説家という定義はきっとそういうものだと思うんです。その中でも、自分が一番労力を使うところをやることが自分の文体をつくることだろうし、「世界」という言い方は随分大ざっぱな言い方だけど、きっと世界に対してその人の一番切実な部分なんじゃないか。仮説ですけど、描写がないものを書いているうちに自分でそう思うようになったんです。
●保坂さんが今いった、小説家は小説を書いているときが一番頭を使っているというのはそのとおりだと思うんです。今日の話はいくつかの問題について考えるきっかけにもなると思うのですが、ともあれこのような場では問題提起や現状確認をするくらいしかやはりできないのであって、小説家は作品をつくっていくことによってしか解答を出せないというのは、非常にありふれているんですが、でも、それは恐らく真実だと思うんです。  <了>


もどる