◆◇◆生活的日常と小説的日常◆◇◆
「海燕」1996年6月号

 保坂和志VS福田和也   


■=保坂和志   ●=福田和也

科学や哲学で究明できない何かを描くことに、
小説の可能性を見い出している小説家が語る、生活的日常と小説的日常との距離。


 
▼保坂的倫理観

●保坂さんには一度お会いしたいなと思っていました。今、若い作家のなかで、若いと言っていいと思うのですが、もっとも小説家としての自覚が明確な作家だという気がしていて、どんな感じなのか一度お話ししてみたかったのです。
 保坂さんのやってこられた作品や経緯を見ていくと、限定という言葉を使っていいのかはわからないのですが、書くべき対象とか文体、それからそのなかの小説の論理とか展開といったものが、非常にはっきりしている。ここが自分の場所だという枠ができていて、それが小説観に昇華している。つまり、小説というジャンルでしかできないことしか書かないという形の、ストイシズムになっているんでしょうが、そういう自覚のもとにお書きになっているということに興味を持っていて、多分文学に対する見方などは非常に違うところもあると思うんですが、一度お話ししたいと思っていたのです。
■今、限定と言われて、まさにその限定のところが批判の対象にもなるところなんですけど、でも、僕はもう完全に限定ですね。今は小説に限らず、映画でも漫画でも、できることはものすごく少ないと思うんです。ほかの先行する作品がどの世界にも山ほどあって、そこでやり尽くされてないことは本当にわずかである、というのは、もう最初からの前提です。
 話をさかのぼると、書きたくて書けなかったのが二十代なんですけど、僕は一九五六年生まれだから、二十代半ばぐらいがニューアカデミズムのブームで、どの程度のブームだったかはともかくとして、ロラン・バルトの構造分析みたいに、おもしろい小説、名作というのを要素に徹底して分解して、その小説、作品がなぜすぐれているかというのは、全部理屈で割り切れるかのように感じたんです。それで、要素を関数のように組み立て直して、そこに何かを入れれば新しいおもしろい小説ができるのではないか、というようなことも考えたんですけど、結局、行き着いた個人的な結論は逆で、おもしろさが説明されていないところを書こうというか、そこだけを書こうということになった。
 作品の分析というのは、読み終わった前提で書いていると思うんです。でも実際の作品は、まず、一行目から最後まで読み通されないとしようがないわけで、その最初から最後まで読み通すおもしろさと言うか、興味の喚起と持続だけは、テキスト分析みたいなものでは出てこないんです。で、最初から最後まで読み通すおもしろさを自分なりに考えていったら、ストーリーも何もないことになっちゃったんです(笑)。というような感じで、答え過ぎたかもしれないですけれども。
●いえいえ。保坂さんでおもしろいなと思うのは、それはおいおい具体的な作品のお話などを伺う段階でテーマになってくると思うんですが、作家としての一種の倫理観を持っていて、その自覚の強さとか、自己限定の明白さという点で見ると、顔も結構似ているし、村上春樹氏と非常にある意味でパートになっていると思うんですね。
■まだデビューする前のことですが、八八年ごろにスティングが来日して、スティングが音楽的に一番凝っていた「Nothing Like the Sun」の時期で、東京ドームに観に行ったんですけど、コンサートが終わってみんながはける順番を待っていたときにアリーナに立っていたら、斜め後ろから女の子が二人走ってきて、「村上春樹さん、サインしてください」(笑)。というほど一部の人には似て見える。
●今、わかるものはおもしろくないという話をされて、保坂さんと春樹さんは似ていると言えば非常に似ているんだけれども、春樹さんの小説というのは処女作から見ていくと、作品世界自体が、巨大化と言うか、まあグロテスクなほどの変容をしていますね。キャリアはまだ十七、八年だということを考えると、こんなところまで来ちゃったのかという印象があって、そこが魅力なんだけれども、保坂さんの場合は、こういうことを言うと失礼なのかもしれないけれども、『プレーンソング』から今年で六年だけれども、どこにも行かないことが小説である、という規定の仕方をされているような感じがあって、そこがおもしろい。
 春樹さんの場合は、小説内の世界なり何なりに意味をつけていく。何らかの形で意味とか根拠を見出そうとするんだけれども、保坂さんの場合、逆に意味を求めないで納得していく。了解と言ってしまうよりも意味を納得していくというようなこと、その倫理みたいなものが、文章自体を構成している。作品のドラマチックな構成とかに逃げるんではなくて、文章のなかでその世界と折り合いをつけていく。ただ、折り合いをつけていくと言っても馴れ合うのではなくて、対峙しながらそこに納得していく方法というのは、小説というものの可能性とか何かを信じているという意味では春樹さんと等価なんだろうけれども、その現れ方がまったく違う。
■人間が生きていることとか、世界にいることとかを理屈で分析していっても、知的に解剖できないところがいっぱい残っている。つまり人間の科学とか哲学ではレベルが全然低いと思っているんですね。だから、僕も言語化できないし、科学者も言語化できていない。そういう言語化できない部分で人間が何か腑に落ちたように思ってしまうメカニズムがずうっと気になっているから、結局そういう小説しか書けていないという感じなんです。だからほんとに納得以外の何物でもないのかもしれない。
●でもその納得の仕方というのは、さっきから僕は倫理という言葉を使っているけれど、意味を求めるのではなくて、哲学方面の話になると話がズレてしまうけれども、あるものを納得していくことに、ヴィトゲンシュタイン的な手続きのようなものが読み取れる。だから保坂さんの文章の成り立ちというの、クニャクニャしているようで非常に論理的ですね。
 文章のスタイルをつくり出すということに関しては、かなり意識的に練り出すのだろうと思うんですが、やはり試行錯誤みたいなものはされたんですか。
■やっぱり文、センテンスという道具がないとモノを考えられませんけど、二十歳ぐらいでは、まだ自前の道具というのは持っていないんですよ。それで大学に入ったころに、大江健三郎風に書いてみたり、村上春樹が出てきたら村上春樹風に書いてみたり……。村上春樹が出てきてみんながすごく喜んだのは、村上春樹風に書くと結構書けるんですね。ただ村上春樹風に書くと、露骨に村上春樹の語り口になってしまうので、みんなそこでやめるんだけれども、あの書き方にはもっと大きな問題があって、一つ一つのセンテンスで問題にされていることがかなりきれいにキチッキチッと片づけられていってしまうんです。
 僕は、もっとすごくグズグズしているし、普段の生活もダラダラしているので、自分の頭のなかにあるようにと言うか、なにしろ普段の語り口でもワンセンテンスが異常に長いので、そういうふうに書くようにやってみてたら、ある日から突然できるようになった。それが『プレーンソング』だったんです。
●今度の「季節の記憶」という作品のなかでも「原因」という言葉が出てきますけれども、意味をつけるんではなくて、この世界はそうなっているということを引き受けていくと言うのかな、そのことが文章のタスクの一つであると。あともう一つ、例えば猫とか草原というのは一種のイメージなのかもしれないけれども、イメージに投射しないですよね、保坂さんの文章というのは。
■メタファーではないですからね。
●メタファー的でなくてもカフカ的にもでも何でも、日本の近代作家というのは何らかの形でイメージに形象化していくという手続きをずっとやってきたと思うんですけれども、保坂さんは、イメージを避けると言うか、つくらないようにしていく。これもかなり特徴だと思うんですが、やはり意識的なわけでしょう。
■『プレーンソング』はまず前半だけ書いて、一年後に後半が仕上がったんだけれども、実はその間に何人かの人に見せたんです。以前からの友達とかプロの編集者とか。それでプロのある編集者から「あそこに出てくる猫に意味を持たせるともっといい」と言われたんですけれども……。
●常套的なアドバイスですね。
■でも僕は、意味を持たせるということが全然わからなかったんです。何しろ小説というのを、ほんとに、そりゃあ一般の人よりは読んでいるけれども、小説家のなかではものすごく読んでいないほうだと思うんです。だから普通の文学的な、ある種、今やテクニックとなっている物の考え方というのを僕は持っていなかったんですね。猫と言ったらもう猫しかない。きっと僕にも、もっと一般に流通しやすいトカゲだとかヘビだとかというイメージもあるんでしょうけれども、そういうことを書くような欲求は出てこない。よく知っているけど、まだ全然よく知らないもの、それだけが興味の対象となっているんですね。それに僕の場合、それが何かイメージを持つとか、それ自体が文学的に変形していくというような訓練を最初からしていないんですよ。
●それは訓練の問題かもしれないけれども、何かを表象しないとか、一つに収斂させたりしないというのは、自覚的にやっているかどうかは別として、多分あの文章の持っている時間的なふくらみみたいなものとつながっていると思うんです。表象しないことと、意味を持たさないことの持っている逆の論理性みたいなものがあいまって、エントロピーが高くなっている。


▼小説と現実との距離感

●せっかくなので、新作の「季節の記憶」(「群像」五月号掲載)の話に移りたいんですが、保坂さんの作品のなかではじめて明確に一種の他者というのかな、「ぶれ」という言葉が出てきますけれども、その日常性をゆるがすような存在が出てくる。普通そういうのが出てくると何か事件が起こるんだけれども、事件を起こさないでしのいでいる。だけど一応起こったことは起こったと思うんです。それは事件ではなくて、そこで作品の倫理みたいなものがかなり鮮明になってしまった。それは主人公の「中野」という人と息子の「クイちゃん」との関係に出ていると思うんですね。
 保坂さんはお子さんはいらっしゃるんですか。
■いや、いないです。
●僕がおもしろいと思ったのは、あのなかで「蝦乃木」という登場人物が、子供に「文字をなるべく教えないようにするようなことというのはしようと思ってもできるものではない」と言うところがあるでしょう。ああいう、子供が社会のルールを身につけていくのをなるべく遅らそうということ、結局子供に対して社会に反する環境をつくっていくというのかな、これはかなり自信があるというとおかしいけれども、一つの社会なり、世界に対するあり方を主体的に選んでいると言うか、保坂的な主体の、エゴの強靱さみたいなものがはっきり出てきた作品だなという気がしているんです。
■かもしれないですね(笑)。
●あれはやっぱり「ぶれ」みたいなものを書こうというふうに考えられたんですか。
■いや、僕は何を書く、何をどうするというのをほとんど考えずに書いてるもんで、「ナッちゃん」については途中でこういう人を出そうかなとたまたま思うんですね。僕は書きながら途中で何度も十枚とか二十枚さかのぼってまた書き出すんで、その間のは捨てることになるんです。だから「ナッちゃん」は何とかあの作品のなかで存在し続けられたんだけれども、ほかに、書いてみたけれど存在できなかった人もいるんです。でも何で「ナッちゃん」が存在できて、ほかの人が存在できなかったというのは自分でわからない。理屈でいい悪いではなくて、何となく全体的な感じで「ナッちゃん」なら何とか入れられたけれどもほかの人は入れられないという感じです。
 僕も書きながら、途中で盗聴にひっかけて事件が起こることを一瞬期待はしたんだけれども、これはなかなかめずらしく事件らしいことが起きるかもしれないと(笑)、ところがやっぱり起こしても意味ないなと言うか、起こしてもたかがしれているなということになって、なんかその周りの解釈の問題になっていっちゃったんだけれども。
 どう選んだかというのは、事前にはろくな理屈はないんです。あれを書く前に考えていたのは、今回は猫を出さない!(笑)、そのためにどうすればいいかというと、海と山を歩いてそれを見るプロセスをたくさん書くことが今までの猫のかわりになるかもしれない。それが一番の期待だったんです。人物では最初にあったのは、もともとの能力は高いんだけれども何も身につかないで便利屋さんになってしまうような「松井さん」という人だけで、それに絡めるには……と、書き出す前にそれだけは考えていました。それで父と息子の離婚家庭がいいなと。その三者がそろったところで、海と山の風景を頼りに書き出しただけなんです。それ以上はなにもなかった。
●父と息子という設定があって、父親が一生懸命息子に自分の持っている時間に関する疑問とか説明したりとか、あと息子が直面する問題に対していろんな判断を示すときに、やっぱり自己言及的というとおかしいんだけれども、保坂さんが持っているポリシーというものが、出てきて。情緒的であることへの嫌悪とかいろいろありますよね。自分が子供のときに持っていたような特殊性ででき上がっている自意識みたいなものにこだわるのが情緒的なんだというような分析とか、あるいは「特別じゃないというときの不思議な悲しさ」という言い回しとか。「不思議な悲しさ」というのは、保坂さんの作品の一つのトーンじゃないかと思うんです。ここで作品の規定がわかりやすくなったと言えばわかりやすくなったし、ちょっとハードボイルド化したと言うか、「やさしくなければ生きている資格がない」という世界に突入したかなという気がしているんですけど。
■あれは一昨年の十月末に書き出して、第一稿は去年の三月ごろできて−−、じゃなくて、第一稿に行き詰まって第二稿にいって、いつもそうなんですけど、本来だったら五月ぐらいに仕上げたかったんだけれども、いろいろキャラクターをいじっているうちに六月になり七月になり、それで七月に芥川賞でドタバタして、作業が復旧したのが九月末ごろからで、十一月はかなり熱心にそれをやって十二月初めにでき上がったんです。だから途中の中断期間を除くと丸一年は使っていないけれども、中断の期間もあれのことはずっと考えていたから、書きながら完全に自分のやり方の手のうちがわかってしまうんですね。
 ただ最初から「一人称の語りはこれでやめよう」と思って書いていたんです。一人称の語り口から出てくる手口とかは、自分では結構同じことをやっているなと思うようなところもあるんで、そう思うということは、今までやっていたこともある意味で総括したかもしれないという、何かそういう、とにかく一人称を終わらせるためにいろいろ総括しちゃったという……。で、次に書くのは、一昨年「群像」に載った三人称の「コーリング」というのがあって、あんなふうにしないと世界が出てこないんではないかと。でも「季節の記憶」の後の具体的な作品というのは今書いていないですけれども、というような事情です。
●三人称になって世界観が出てくるにしても、どこかに行こうという気はあまり持ってないと。
■持っていないです(笑)。
●そこの部分はすご味と言えばすご味だし、そういう点「限定」ということになるんでしょうけれども。
■それが、まあ批判の対象になるところですね。
 僕は、仕上げるまで何度も読み直すんですが、仕上げてしまうと、自分では退屈で読み通せないんです。特に導入部分、大体いつも自分の小説の三十枚から五十枚ぐらい、こんなものだれが読むんだと思うほど退屈に感じるんですね。だから退屈と言われてもしょうがないとは思う。
●退屈を読ませる小説なんだから、それはそれでいいんでしょうけれどもね。
 ただ、時評なんかでは私小説的に、日常をそのまま書いているように思う人が多いんですよね。でも保坂さんの世界というのはものすごいフィクティブ、虚構ですよね。だから限定という言葉が出てくるんでしょうけれども、主体的に限定すると言うか、意志的なことで支えられている世界であって、こういうことを言うと右翼的と思われるんですけれども、何か古典的な、それこそ藤原定家の「紅旗征戒、我が事にあらず」みたいな……。
■何ですか、それ。
●藤原定家が『明月記』のなかで、平家と源氏が戦争をやっているけれども、そういう世の動乱変遷は私には関係がない、新古今の非常に人工的な歌の世界に閉じこもるという決意表明みたいな記述があるんですが、そういうところと通底すると感じるところがあって……。
■あれがいきなりずっこけちゃったのは、十月末に書き出して、十一、十二月と二ヵ月ちょっと書いていてある程度進んだときに阪神大震災が起こったんですよ。僕は阪神大震災が起こって給水車に列作ってるのを見て、何でだれも井戸を掘らないんだろうと思った。あの本では最初のやりとりで、「松井さん」が井戸の話をするところがあるんですが、当初、あの井戸を掘るという話がすごくたくさん続いていたんです。ボスニア・ヘルツェゴビナとか、ルワンダに行って井戸を掘るという話がすごく出てくる。ただ、それが阪神大震災があったんで、変に現実に密着してダメになっちゃった。書かないだけで、外に起こっていることを異常に気にしているんですよね(笑)。
●それはわかります。だから現実に対する距離感のとり方というのは、ある意味では私小説もフィクティブなんだろうけれども、私小説を書いている人たちは、外界に生活とか現実みたいなものがあって、その真実に近づこうとすることが、小説のモティーフになっている。だけど保坂さんの場合、そういう日常性みたいなものは自分の頭のなかで組み立てるものなんだと、割り切られていますね。
 だから、社会に対して日常性をどう確保し続けるかということを考えていくと、逆な意味で非常に「現実的」ですよね。それが今度の作品はオウムとか阪神大震災というのが背後に非常に色濃くあって、それに対して日常をつくっている。


▼保坂的日常

●会社をおやめになって何年ですか。
■九三年の十月ですから、二年ちょっとです。
 僕はサラリーマンをしていると、実は社内での処理能力は結構高いんですよ。終わりの何年間かは課長なんかもしていたんですが、言い方を強圧的にできないから、ほかの人は「決まったことだから守れ」と言うんだけれども、僕は「決まったことだから−−」じゃなく、それなりに相手に動機づけさせようとするからものすごく手間がかかってしまうんです。
 グループの中の複数の人間の中にいると、どうしてもそういう役回りに立ってしまう。本当はそれは好みじゃないんですね。だから一人になって今やっているのは、収入的な安定があるかどうかなんてことよりものすごくストレスがないんで、あっちのマイナスが大き過ぎるから、今一人でやっているのはとても性に合っていますね、というような感じです。
 小説は、一つ書き上げると、次のを書くかどうか、どういうことを書くかというのが全然わからない状況が続くから、自分にどこまで向いてるかわからないですね。むしろまがりなりにも十二年間勤められたという実績が自信となって、だめなら、いやだけれどもまたサラリーマンに戻ろうか、そんな感じです。
●一日何枚ぐらいお書きになっているんですか。
■平均三枚書けていると、一応機嫌がいいという……。
●月間百枚ぐらいですね。
■ですね。まともに行けば年間千二百枚ぐらい書けるからもう十分なんですね。ただ百枚の小説だと一カ月で書いて、二週間で仕上げて、残りの二週間が何もしないというふうな感じになるから、結局二カ月で百枚なんですね。そうするともう年間六百枚になっちゃう。でも六百枚なんか書いたことがない。今はせめて年間五百枚は書きたいと思っている。年に四、五百枚書いたら年に一冊ずつ出るから、一生の間に三十冊か四十冊出たらなかなか大したもんだなとか思う、そんなような感じです。でも実際には純文学作家は、みんなそんなに書いてないわけだから、きっとどこかでスランプが来るんだろうなと思いながらやっているんですけれどもね。
 西武をやめた直後ぐらいに、小説家として一生やれるかどうかもわからないから、まず自分が書けなくなるかもしれないというのがいつもあるので、科学ライター、いま科学が複雑すぎるから、それを文科系の人にわかりやすいイメージとして、いまの科学で重要なことを伝えるようなことはどうかなと、ある編集者に言ったら「バカ言ってんじゃない」と言われて、全然協力してくれなかったんですが(笑)、その気は今でもあるんです。
●あれだけの文章力があれば何でもできます。
■どうも(笑)。羽生善治が七冠王になって、「将棋世界」で羽生善治別冊特集号というのが出たんですが、それに羽生善治論を三十枚書いたりしているんですけれどもね。
●普段は家にいて仕事をしているんですか。
■そうです。毎日していないと不安なんです。松浦理英子みたいに、ずっと書かない期間を作れる人のほうが勇気があるなと思います。
●仕事するときは、しらふで真面目に書く?
■仕事時間が朝十時半から三時か四時ぐらいまでなんです。それを過ぎると猫が目を覚ましてあばれ回っているから仕事にならないんです。そういう事情ででき上がったタイムスケジュールなんで……。
 酒は三十歳ぐらいまで週に六日ぐらい飲んでいたから、酒を飲んだら何もできないじゃないかというのがあるから、それで酒を飲むのはほぼやめて、人とは飲むけれども、家では全然飲まなくなった。
●では私生活も極めてストイックで。
■わりとそうですね。電話で人と話すのが平均すると一日一本に満たない。
 サラリーマンをやっていると、どうしても毎日のストレスがたまったりするせいか、帰りに人と飲みにいくということになるんですね。意味ないというか、ばからしいんですよ。サラリーマンをやめて一人で仕事しているのに、編集者とでも、物書きの人とでもひんぱんに飲みに行ったらサラリーマンと一緒じゃないかと思うんでそれでやらないんです。
●そうか。僕はサラリーマンはいいなと思う。堅気の仕事はしたことないから。
■ただ、小説を書いている人でサラリーマンを経験していると経験していない人では、物事に対する感じ方が一々違うような気がするんですけれどもね。
●ちょっとでもやっていれば違うでしょうね。島田雅彦と田中康夫の違いというのは、田中康夫は三カ月ぐらいなのかな、それでもサラリーマンをやっていたことでしょう。
■やっていない人って、第一にサラリーマンであることを非常に屈辱ととらえているんじゃないかと思うんですね。自分がなくて、全部組織に振り回されるというイメージがあるんじゃないかと思うんだけれども、実際はサラリーマンをやってみると非常に楽ですけれどもね。福田さんは毎日家にいるんですか、非常勤以外は。
●あまり家にはいませんね。
■そうすると仕事は家の外ですか。
●短いものは家で書きますけれども、ある程度以上長いものはどっかに行って書きます。
■仕事部屋を特にというんじゃないですか。
●ないです。ホテルとか、出版社のカンヅメ部屋に行ってやります。
 好きで読む小説とかありますか。
■今はバージニア・ウルフとかジョイスとか、カズオ・イシグロは去年の秋から暮れぐらいに読んだけれども好きですね。
●何を読んだんですか。
■翻訳されている三つ、『女たちの遠い夏』と『浮世の画家』と『日の名残り』です。『日の名残り』は二年ぐらい前に読んでいて、ある程度おもしろかったけれども、まだピンと来なかった。その二年ぐらいの間に僕の物の感じ方が大分変わっているというか、はっきりしちゃったところがあって、それで『浮世の画家』とか『女たちの遠い夏』とか読んで、その二年間の間にバージニア・ウルフとか好きになっている。
 あまり、フランス文学的な熱情を書くというような感じがもう関心がなくなってしまってきたんですね。みんなが追憶の中に生きていて、仮のプライドだけを何とか保って、でも本当は端から見れば、どうということもないプライド、プライドとも言えないようなものにそれぞれの人がすがっているようなことを冷静にかいてくれる感じが一番好きですね。で、その感じというのが、日本で一番受けない部分でしょう。
●そうですね。ロレンスの読者は、いっぱいいるけれども、ウルフは忘れられた存在と言うか、一時は読まれたけれども、あれも手法的な部分で受けていて、小説として受けていたわけではないですから。『灯台へ』とか、いい小説ですけれどもね。
■これからもう日本は、不況になる一方でしょう。回復なんかしないで、二十世紀初頭のイギリスに非常に近くなってくるから、みんなウルフとか、ああいうのを読んで、日本の栄光と言われていた時代を回想してみたり、それを知らない子供たちも、もう今日本はそういう雰囲気なんだとしみじみ思いながら、ウルフでも読むのがいいと思うんだけれども。
●ウルフは思いつかなかったけれども、ハクスレーは、わりと似たところがありますね。『恋愛四重奏』とか。
■そうですか。僕はまだ読んでいないです。イギリスに入って間もないもんで。
●会話でもたせて、でも『魔の山』ほどには自信がなくて……。
 あともう一つお聞きしたかったんですが、平田オリザさんの芝居なんか見ますか。
■よくその関連を言われるんですよ。去年もさんざん言われました。芝居は見ていないです。一つだけ『東京人』に載っていたインタビューを読んで、似ていると言われることはすごくよくわかって、でも最終的には嫌いでけんかするタイプだろうなという感じでした。
●平田氏の場合は「外部」がないと芝居がもたないんですね。彼もフィクティブな「日常」や「退屈」を舞台でつくりながら、必ずその外側のボスニア的な状況みたいなものを補助線として持ってくる。そこが違うと言えば違う。ただ似ているのは、平田さんのところは芝居の訓練がすごいんですね。しかも日常的にふるまう演技を徹底した訓練でやっている。その辺が、保坂さんの文体と似ていると言えば似ているかなという気がしますけれどもね。
■あの人は育ちがすごくいいと言うか、親父さんが大学教授かなんかで、お母さんも似たような人で、そういう環境で、成長期に読む本は親父さんの本棚に全部あるし、徹底して親父さんに知的な訓練を受けた。育つ過程で彼は参入すべき理想の人格があるんですよ。最終的にはそれ自体に全然疑いを持っていない感じがする。そこが僕とまったく違うところです。でも、だれと一緒に論じられても構わないんです、全部宣伝だから(笑)。
●あれだけの訓練ができる人というのは、さっき動機づけと、決まったことという話があったけれども、他者に対して、決まったことで押し切れる人なんでしょうね、タイプとしては。


▼文壇的世俗との距離感

■最近考えていることなんですが、例えばオイディプス王とか、今になっても何度でも読み直して、読者が素朴に感動するだけじゃなくて、精神分析でもっと精密に読み解く必要がありと思われたり、それから、具体例が出てこないけれども、実は科学でも脳なんかやっていくと同じことを言っていたなというような作品とかが文学に昔あったのは、科学がまだ幼稚だったわけですね。哲学も科学であって、分析していくものだから、その手法が本当に進歩してしまうと、素朴に人間が考えるストーリーとか、事件とか、情景というのが、科学や哲学が今まで分析したことよりも上回るということは、もうあり得なくなってくると思うんです。
 つまるところ文学の停滞というのはそこだと思う。今さらオイディプス王を書きたいとか、あんなような作品を書きたいということ自体がちょっとあり得ないだろうというのは、科学なんかが進んできてしまったからしょうがないんですよ。
 実は今、脳のことが好きでよく読んでいるんですが、何でニューロンに電気が走るだけで意識が生まれるかということは、結局未だに何にも説明がついていない。「聴覚の場所はここ」「記憶の入口はここ」って、そういうことがわかっても、脳のなかのエネルギーとこうして複雑なことまで考えられる意識とか精神とかの根本の関係はまったく説明できていない。それとか何で無機物から有機物が出てきたかとか、一番根本の「何で」というのは、人間が存在している間の科学では説明がつかないんじゃないかと思うんですよ。
 小説というものは漠然としているけど何だかやけに強い心の働きにこだわっていて、そのことが、一見科学がすべてを説明するような風潮にも逆らうと言うか、そこに踏みとどまるような作用なのではないかと。
●要するに、ほとんどの人は開き直っちゃっていると思うんです。もう全部解明されていなくたって構わないし、それに科学以外のことをしなくても構わないと思っているのではないか。だけど保坂さんの場合には、そのできないところをとにかく見つけて、そこに立とうとしている。それをやろうとしたら、こういうふうになっちゃったというのが、逆におもしろいんです。
■科学はまだまだ周辺的なことしか説明できていないわけで、科学者が僕のものを読んでも何かヒントになったとかいうことでありたいなとか思うんです。
●そういう意味で言えば、やっぱりアプローチとしては哲学的なんでしょうね。実験心理では説明できないことをやるみたいな、そういう話なんだろうな。
 僕も石原慎太郎さんとの対談で『この人の閾』でいろいろ申し上げましたけれども、保坂さんは気になったりするのですか。
■まあ、気にはならないんですけど、何と言うかな、石原慎太郎さんが、僕が文学で食べていくときのわかりやすい仮想敵であることは、ああいうのを読むとすごくはっきりする。
●逆に言うと、保坂さんはかなり意識的にやっているけれども、ちょっと間違えると、一九三〇年代のインテリ小説と言うか、トーマス・マンの『魔の山』とか、ハクスレーとかというようなにおいはありますよね。多分、その辺に慎太郎さんは敏感に反応しているんじゃないかな。
■僕の場合は、昔の大きい小説に対する憧れに応えるような気持ちでは小説を書いていないので、そういう気持ちで小説を読みたい人には、意味のあることを本当に何も書いてないわけです。例えば石原さんがあそこで「私はロマン・ロランを好きで読んだような人間だから、小さい話はつまらない」と言ったけれども、何の説明にもなっていない。私は好きではない、ということの説明に、私は昔からそういうのが好きだったというのを出すだけでは何の説明にもならないわけです。
●多分日本の作家って、おれは嫌いだとか、好きだとかということを言っていればよかったし、それを求められていたと思うんです。分析的ではなくてね。保坂的な緻密さで発想してしゃべる人っていなかった。そういう意味では例えば大江さんだって同じですよね。なんかあのなかに「蝦乃木さん」でしたっけ、世界中のすべての人を幸せにする宗教が出てきたので、これは大江をやるのか、と思っていたら、結局、期待どおりやってくれなかったけれども(笑)。世界に意味をもたらすとか、神の世界みたいなものを小説の中でつくるというときには、分析してしまうと書けないのではないかと思うんですよ。
■それは自分の二十代の反省なんですね。あのときにあの女の子からもっと話を聞いておけばよかった、話を聞かずに行動だけ起こしていた(笑)という、それが非常に悔いとして残っていて、行動を起こさない小説を書いてしまう。
●でも、やっぱり根強い読者は結構いるんでしょう。
■おかげさんでと言うか、日本中で千人か二千人ぐらいいるかもしれないなという感じですね。
●意識的に百人なら百人に売らなくてもよくて、いつも買ってくれる人が十人とか八人とかいればいいやというような割り切りはしているんですか。まあ保坂版『ノルウェーの森』みたいなものが出るかもしれないから、一概に言えないかも知れないけれど。
■たまに、これはみんなに受けるかもしれないと思う話も考えつくんですが、書くとなると時間がかかりますから、それを時間かけて書く意欲がないんですよ。いざ書き出すと、結局、書き上がった部分を読み返すうちに自分が納得するようにしか書きたくなくなっちゃうんです。その納得するような自分、そのときの自分というのは、昔からのつき合いのあるごく少数の何人かに支えられている自分でしかないんです。そこからは当分出ないと思います。
●そこは非常に微妙なところがあるんだけれども、僕は俗というものを信じていて、そこに浸らなければならないと思っているんです。しかしその俗のほうで書いてくれる人というのは今あまりいなくて、田中康夫とか、ああいう人しかいない。逆に俗を信じていないから老荘的と言うと怒られちゃうけれども、本当にそういうところの倫理を持っている人はいるかと言うと、それもいないんです。保坂さんとか、ちょっとアプローチが違うけれども、古井さんとかになってしまうと思うんです。それはそれでいいし、わかるんですけれども、僕は保坂的に強い自我とか倫理を信じられないから、世間にやらせてみなければ仕方ないというところはあるんですが、本当に今度の作品は、さっきハードボイルドとか申し上げたけれども、保坂的倫理がわりと前面に出ていて、あれは「ソフィー」的に受けるんじゃないかという気はしましたね。
■書き上がると、出すからには百万部売れてほしいとか思うんです。百万は全然うそだけれども、十万……、五万ぐらい売れるとうれしいなと思うんです。だから売れる、売れないは、流通する過程ではものすごく関心があるんです。
●作家としての自覚というのは、結局商売上のこともあるわけだから、書き続けて普通に生活していくということが一方にある。それに、あまり雑文とかはお書きにならないですね。
■ええ、依頼がないんです(笑)。
●またそっちのほうの倫理もあるかと思ったんだけれども。そうしたら、コンスタントに単行本を売らなければならないということになりますね。そういう意味では、逆にかたいお客を持っているからいいんでしょうけれども。
■でもかたくても、千から二千ではちょっとね。
●部数自体はもっといっているでしょう。
■芥川賞以前は、四千か五千からしか始まりませんから、いっても八千部ぐらいでした。「以後」はまだ未経験だから。
 ただ僕の場合、幸いなことに、支持してくれる勢力を批判勢力が上回る状況をまだ経験していないというのが大きいのかもしれない。それで批判にもある程度無関心でもいられるんです。
 まぁ、それは抜きにしても、高校からの同級生に樫村晴香というのがいて、彼が『プレーンソング』でデビューする前から読んでいて評価していてくれていたから、極端なことを言っちゃえば樫村だけ、その一人でいいか、という感じなんです。
 今はフランスに住んでいるので、二年ぐらい前から読まれない状態がずっと続いていたんだけど、「文學界」で二人で芥川賞の後に話をするということになって、彼が最近の僕の書いたのを含めて全部読み返してくれたんです。それで『猫に時間の流れる』は今までの中で一番よかったと、彼に言われて「やっぱりそうか」と、こっちも確信が戻る。
 何か選択しているときに、こんなほうを選んじゃったら樫村にバカにされるよなとか、バカにされるというか、もっと強い師弟関係があって、キリストに帰依している使徒みたいな感じで、だから樫村からそっぽを向かれたら私はやっていけないというような……(笑)。今のところ僕のなかに住む架空の樫村が僕を見捨てないような小説のやり方を選んでいる、と思っているから何とかなっている。
●悪評については、僕はする方もされる方も専門家ですが、ただ悪評が流れて、それで書く場がなくなるとか何とかということだったら困るけれども、さしあたってノートリアスになることは全然問題ではないから、先ほど何でも宣伝だとおっしゃったけれども、何も言われないよりは言われたほうが何倍もいい。
■『プレーンソング』が出たときから新聞の文芸時評とかにいろいろ取り上げられて、それは当たり前だと思っていたところが僕にはある。でも、二年ぐらいやって考えてみたら、取り上げられない小説というのはすごくたくさんあるんですよね(笑)。
●僕の印象では、一万部は絶対にいっているという感じがしますけれど。だから、あとは読まれる機会さえつくれば伸びると思う。僕は大学で非常勤講師をやっていて、保坂さんのものをプリントをつくって配ったんですけれども、保坂さんは学生に結構反応がいいんです。十何回授業でそれこそ大江さんからずっとやって、期末テストで好きなやつを選んでそれを論じろみたいなことをやると、かなり打率が高い。
 というのは、ドラマで説明できないから、口コミで広がるというものではないけれど学校か何かで無理やり読まされると、きっと入ると言うか、これはいいという感じになるんでしょうけれども(笑)。
■とにかく現状が文芸誌しか小説を載せていいと言われていないし、いきなり書き下ろしで出して一万部以下だと、全然厳しいんです。掲載の原稿料のほうがよほど高いわけで、印税の倍ぐらい入るから。それがクリアになったらどうしようというふうには考えないんですね。今こうだからこうというだけで、それに対してこうなりたいとか、こうしたいというふうに考えないんですね。だからわからない。発表してうっとうしいことを言う人も必ず何人かいるけれども、バカだからしょうがねえな、という感じではある。
●大体の人は、文壇的にどういう位置に見られるかということばっかり考えているんです。あまり福田と仲良くすると柄谷とまずくなるとか、そういうことばっかり考えているけれども、保坂さんはそういうことは本当にどうでもいいのでしょう。
■それは全部人事的なことですよね。ほかのことにどこまで頭使っているかはわかりませんけど、人事的なことはサラリーマン時代に飽きちゃったので。  

<了>

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