つづきです

◆◇◆ことばの外側へ◆◇◆
「文学界」2001年1月号

保坂和志VS野矢茂樹(哲学者)


■=保坂和志   ●=野矢茂樹


▼論理と情緒

■言語哲学では、人間の思考を記述可能なものから進めていくところがあるという感じがするので、人工知能に対して、野矢さんがどう思っておられるのか聞きたいんです。人工知能とかコンピュータが、人間と同等かそれ以上のものになっていくと思われますか?ぼくは、なると思っていますが。
●別に人間と同等のものが工場でできても不思議はないと思いますけど。
■ぼくは今、そのことにかなりこだわっているんです。確かに人間と同等のものができるとは思うんだけど、素朴な感情として、本当はできてほしくない。もしできるんだったら、ちゃんとしたものを作って欲しいんですが、今の様子をみていると、そんなにちゃんとしたものにならないような気がするんです。
●部分的には、いまでも人間と同等ぐらいのものはできているでしょう。自動ドアだって、ドアの開閉という役割だけに関して言えば、人間と同じくらいのことはやっていると思う。
■だから、不便さを感じないようになると、自動ドアで十分という気持ちになってしまいますよね。人工知能は、人間の精神が主に計算力と記憶力からなるものとして開発されていると思うんですが、自動ドアと同じように、この二つがある程度できるようになったら、これで十分ということになってしまうと思うんです。でもぼくは、それがすごく嫌で、もっと記憶力と計算力以外の部分を取り込んでほしいんだけれど、ただ、ほかに何があるかときかれたら、いまは答えられない。
●感情の回路なんかは駄目ですか。
■たとえば「ひらめき」なんていうものは、単に記憶違いや計算違いの産物としか思っていないんですが、感情というものはよく分からなくて、だからさっき言った花の鮮やかさのようなものに頼るしかないんですが、それでは全然足りないと思います。余談ですけど、将棋の棋士は、自分の手を作り出すのは計算力だと思っていて、ふつうは計算が成り立った手を指します。それで、羽生善治のどこがすごいかというと、これ以上は複雑になり過ぎて計算できないという手を指すところなんです。計算の破綻するところを着目した点が、羽生とほかの棋士の違いなんですね。コンピュータでも、チェスのソフトは計算力だけだし、将棋のソフトもいまのところはそうです。
●何で人間と同等のものができたら嫌だなと思ってるんです?きちんとした理由を聞かないと、コンピュータには情緒が欠けているからそれも取り込んでくれないと嫌だなという、安っぽい話になりかねないところがありますから。
■それとはだいぶ違うんですけど。
●だからそれとの違いをもう少し。あと、人間と同じものが工場で作られても不思議はないとさっきでまかせを言ったけれども、ちょっと訂正。人間と同じになりうるものを工場で作ることができる、と言うべきでしょう。つまり、人間と同じようなロボットができ上がるとしたら、当然学習機能があるはずで、学習機能そのものはテクノロジーによって実現できても、ロボットに学習させるのはやっぱり人間でしょう。で、何が嫌なんですって?
■ぼくが嫌だなと思っているのは、人工知能が、情緒があるのと同等の判断を、論理だけによってほぼ完全にできるようになってしまうことです。そうなった場合、実は情緒がないのに、論理だけで親身な身の上相談ができるようになってしまったら、それで良しとするような了解ができあがってしまうんじゃないでしょうか。いまでも、情緒的に生きている人は、たいてい論理的に生きている人に言い負かされていますが−−
●そんなことないですよ。情緒的な人のほうが圧倒的に論理的な人を言い負かします。うちの夫婦のあり方をみれば分かる。
■でも、言い負かされないほど強固な論理性があれば、勝てるわけでしょう。
●分かりました。私が未熟だったんですね(笑)。
■とにかく、最終的に身の上相談も政治の判断も、全部人工知能に任せようという時代が、ぼくは来るんじゃないかと思ってるんですよね。で、ぼくは、いまの時代の人間だから、それを嫌だと思うんだけど、その時代の人間は、それを嫌だとは思わなくなってしまうんじゃないかということを危惧しているわけです。
●ぼくも全然嫌だと思わないですけどね。


▼科学の二つの面

■じゃあ、そのときに人間は何をしていますか。
●人間も身の上相談をしていたっていいじゃないですか。コンピュータがやるから人間はやらなくていいというんじゃなくて、一緒にやろうということにはなりませんかね。それに、まだぼくはその話を安く見積もって、「人間の精神が全部計算されてしまったら嫌だな」って言われてる気がしちゃう。
■いや、たとえば、二十世紀後半の人間は科学的にものを考えていて、狐憑きとかヒトダマといったものについては、きちんと科学的に説明するか、否定するかのどちらかですよね。そして、狐憑きやヒトダマが実在すると思う人は、前時代の人とか無知な人とか言われる。同じことが、人工知能の時代になったときに起こると思うんです。情緒のように、いまぼくたちがふつうだと思ってる幾つかのことが無いものとされて、人間の精神が記憶力や計算力のようにコンピュータに入力可能なものだけからなると思われるようになる。ぼくは、人間の精神とはどういうものなのか決着をつけずに、次の時代が来るということが嫌なんです。
●いま科学のことを言われたけれども、科学には少なくとも二つの側面があって、一つは、あくまでも有用性の面から見積もられるような科学で、コンピュータができて便利になったというようなっこと。他方では、科学には世界の在り方を説明する機能というのがある。それで、有用性と説明の機能とは微妙なラインにあって、何を聞けば説明された気になるのかというのは、なかなか難しい問題なんです。
■どういうことですか。
●たとえば手に物を持っていて、何で手を放せばそれが下に向かって落ちるのかという質問に対して、いまの科学はうまく答えていない。「重力があるからだ」というのは、理由を説明しているのではなくて、物が落ちるという現象に対してこういう記述のしかたを与えると、たとえば月が回っていることとか、非常に多くの統一的な記述の形式が得られるということにすぎない。つまり、「重力があるから」というのはたんに「物は手を放せば落ちる」ということをある仕方で言い換えただけでしかない。最初の「手を放すとなぜ落ちるのか」という素朴な問いに対しては説明になってないんです。それに対してアリストテレスは、もともと物は下にあったものだから、里心がついて下に落ちるんだ、というようなことを言っていて、そのほうが説明の機能を持っていると思いますが、さすがにいまの時代では、その説明では腑に落ちない。だから科学の与える説明がちゃんと説明になっているかどうかは、科学の内部だけで決まる話ではなくて、われわれの暮し方が関わってくるし、暮し方にリンクしていかないと、ただ空を切るだけになっちゃう。
■ここ二、三十年は、むしろ科学が記述できないものが明らかにされるようになった時代でしょう。三十年ほど前は、もっと科学が横暴な時代だったと思うんですよね。昔は科学がけっこう貧弱だったから、逆に科学の外にあるものが全くこの世に存在しないかのように振る舞うことができた。いまはもう少し科学が豊かになってきたから、なぜオスとメスがいるのかとか、生きているものは必ず死ぬのはなぜかというような、昔だったら科学者に向かってするのは恥ずかしかった問題についても、考える姿勢が出てきたわけです。それで、科学の横暴時代を思い出してみると、やがて人工知能が相当なものになったときに、人工知能では捉えられないものにたいして、多くの人が横暴に振る舞う時代がくるんだろうなと思って、それがぼくは嫌なんです。一つはそういうことなんですけど。
●気持ちは分かりますが、あまり発言の値段が上がったような気はしないな。
■野矢さんに気持ちが通じたら上出来です。


▼ロジカルなものと闘う

■ぼくのお祖母ちゃんという人は『<私>という演算』にも少し書きましたけど、本当に直に経験している前近代というか、科学の外みたいな人間でした。ぼくの心のなかで、お祖母ちゃんの占めているものはすごく大きくて、お祖母ちゃんをイメージしながらものを考えてるようなところがあります。
●保坂さんは、「科学」という言葉で独特の使い方をしているでしょう。科学が持っている経験科学としての側面を低く見積もって、すごく抽象的な思考として科学を捉えようとする。見ているものを、ただ見ているように記述したりするのは、科学なんかじゃないと思ってませんか。
■そんなことはないですけど。
●ぼくは保坂さんの書いたものを読んでいてそういう印象を持ったんです。たとえば身近なもので実験をしてみせる、ファラデーの『ロウソクの科学』のようなものは、科学のイメージとは違うと思っているでしょう。
■あっ、ああいうものは嫌い。経験知に訴えかけるようなものは科学じゃないと思ってますね。
●でしょ。で、僕は経験的なものを科学じゃないとは思わないけど、保坂さんの言うことにも少し共感するんです。実は、数学みたいなものが、一番性に合ってるんです。人を分類するのに、文系理系という分け方はうまいやり方ではないと思うし、数学は文系だなんて見方もあるわけですが、ある種の分け方でいうと、ぼくは、保坂さんがさっきから否定しようとしているロジカルなタイプだと思います。ロジカルなタイプというのは、別に文系でも理系でもない。
■ぼくは、ロジカルなものを否定しようとしているんじゃなくて、闘っているんですよ。ぼくのなかに、もし父親的なもの、愛憎相半ばしているというか、これと闘わなければいけないと思わせるものがあるとしたら、それはロジックというものです。
●父親的なものとお祖母ちゃん的なものがある(笑)。ところがぼくにとって、ものを考えるというのは、計算できるところはとことん計算して、ロジカルな帰結を導くということなんですね。そうじゃないと、歩き方が分からない。保坂さんのように目と耳を使って知識を増やすのではなく、抽象的なところで妄想していくような思考スタイル、ぼくもそうなんですが、そういうスタイルだと、自分がコミットした言葉が一体どれだけのものを帰結として含むのかということをロジカルに引き出していかないとなかなか進めなくなるし、ほとんど雰囲気だけで話が連想的に進んでしまう。ぼくは、言葉の論理にかまわず、言葉が持っている親和性、あるいは連想によって主張が繋がっていくスタイルが嫌いで。
■ぼくも、言葉の親和性とかイメージで横に流れていっちゃうような議論は大嫌いなんですよね。何について喋っているのかというのを、踏み外してほしくない。ところがそのぼくが、何かについて話すとき、「何について」というのを、もうちょっとこだわると、ぼくの使う言葉は非常に曖昧で、論理的に組み立てようとはしないんです。
●それは、どういう仕掛けになってるのかなあと思いました。ぼくは、つい仕掛けを気にしますねえ。
■ハハハハ。
●論理的に組み立てないのと、連想で漂ってゆくのとは、どこが違います?
■実際に、ぼくの話はそんなにぽんぽん進まないし、横に流れていかない。だから、きっと違うんです。
●はあ。
■ぼくが不思議に思っているのは、たとえば8+5=13という計算をする能力を、大抵の人は身につけていますよね。でもそれは、後天的な教育の産物で、しかもかなり抽象的な操作です。それが、反射ほどではないけれども、かなり自然なこととして身についてしまうのはどうしてなんでしょう。
●それは、自分が自然に日本語を喋ってることについても感じる違和感なんですか。
■違和感とは違う。違和感が何もないところが不思議なんです。九九だと、計算というよりもフレーズで暗記してしまっているから、ちょっと違いますけど。
●たとえば、足し算でも掛け算でも、漢数字でやってみると、全然頭が動かないですね。
■ええ。そういう抽象的なものが、まるで身体反応の一部であるかのように身につくところが不思議で、ぼくはわりとそういうことを足がかりにして考えるんですね。
●ぼくは、保坂さんが抽象的だということを、それほど抽象的だとは思っていなくって、いまの掛け算や足し算の例で言うと、口で言うなら「ニサンガロク」というときの音、紙の上に式を書くならば鉛筆の跡やインクの跡という、物理的なものを操作していると考えますけどね。
■物を動かすみたいにっていうことですよね。
●そう。積み木と同じようなこと。だから概念といっても、抽象的な何かを、抽象的なレベルで操作しているとは思わない。


▼「愛」と「犬」は同じか

●曖昧な言葉をなるべく使うようにしていると言われたけれども、曖昧な言葉を使うと、どういういいことがあるんですか。
■一言で言うと、自分で笑っちゃうんだけど、それが本当だからです。
●それが本当だから?
■ぼくの心の中はそうなってるから。
●「心の中」ときたか。実はぼくはそいつと闘っているんだ。で、曖昧というのは、語彙のレベルで言ってるのか、それとも別の方向を向いた主張を並列させることによって、主張をちゃんと整序させないということか。どっちです?
■やはり語彙のほうでしょうね。ぶれの多い使い方をする。たとえば、「愛」とか「家柄」とか「血」とか……。
●ぼくにとって曖昧な言葉は、「砂山」とか「富士山」というふうなものだけどな(笑)。まあ、「愛」は確かに曖昧な言葉ですけどね。
■「愛」だけじゃなくて、「好き」とか「憎らしい」とか「楽しい」というような言葉は、みんな非常に曖昧なところで使っていますね。そういえば、ぼくのお祖母ちゃんは、テレビドラマを見て泣いてたりすると「嘘じゃないか」と言うような、何にも感情移入しないタイプの人間で、きっと「愛」なんていうものは分かっていなかったと思います。
●でもぼくは、計算と同じように、「愛」なら「愛」というインキのシミ、あるいは音を、具体的なものとして操作していると考えます。「愛」が何か抽象的な実体を表しているとは思わない。
■「愛」という言葉をすごく厄介だと思うのは、みんなが勝手に実体があると思いがちなものなのに、一人一人の思い描いていることが違うからなんです。たとえばカート・ヴォネガットは、小説のなかで、犬とじゃれ合っているときに「お父さんはぼくのことを愛しているの?」と息子に訊かれたから、息子とじゃれ合ったと書いています。その場合ヴォネガットは、じゃれ合うことを「愛」と定義したわけですね。冗談だけど。ただぼくは、一人一人で違うものをみんなが同じものとして了解してしまうのが嫌なんじゃない。言葉とはそういうものだから、厳密に使おうとするとかえって実体と違ってしまうという気がするということです。
●「愛」という言葉と「犬」という言葉には、程度の差しかないような気がする。「犬」という言葉の意味も、一人一人で違うでしょう。言葉は、子供のときに大人から習ったものがベースになっているから、ある程度の共通性はあるけれども、成長とともに個人レベルで意味の発散が生じて、一枚岩の日本語という共通言語はないというふうに、最近は思うようになってます。「厳密に」考えれば、尻尾が無くても、ワンと吠えなくても犬は犬だから、「犬」という言葉の本質を規定することは不可能だけれど、定義できないから「犬」という言葉が曖昧だとも考えたくない。「犬」という言葉の意味は、標準的な犬の姿や標準的な暮しを示されることで学ぶんです。だから、子供が変な犬をふつうの犬だと思っていたら、その子供の「犬」という言葉の概念習得はまだ成功していないといえるわけで、どういう犬を見たかという経験が、「犬」という言葉の意味の理解に関わってくる。言葉の意味がアプリオリに決まっていて、そのもとで経験が成立するという形じゃなくて、体験の度合いと意味の理解とがリンクして変わってゆくということが生じるんです。まあ、犬はかなり安定した概念だから、「あれは変な犬だね」と言えば「確かにあれは変な犬だ」と大体一致するんだけれども、原理的には一人一人でふつうの犬の暮しぶりについての了解が違う。その意味で「犬」という言葉の意味は、個々人で発散している。
 「愛」についても全く同じことが言えて、「愛」という言葉を理解することは、恋人同士の愛とか、親子の愛とか、そういうふつうの愛に関する物語を知ることなんですね。ただ、「愛」の場合には、どういう愛の物語がふつうなのかという了解が、「犬」の場合よりも人によって発散しやすいというだけのことで。
■ぼくの考えは全然違います。やっぱり「犬」と「愛」を一緒にしちゃまずい。「愛」という概念は、その人の成長に関わっているし、成長で定義がだいぶ変わるものだから、妻や恋人を殴り続けることが「愛」だと思っている人がマジにいたりするわけですね。「えッ、自分がこれをふつうの犬と思うのはヘンなのか」というような気持ちと、「あなたのは『愛』じゃないんだよ」っていうのとは、違うものだと思う。
●いまの話だと、ぼくの話に共感してくれて、その具体例を出してくれたようにも聞こえるんですけどね。
■ぼくはうまく説明できないけれど、やっぱり全然違うんだよっていう感じです。「犬」という具体的なものに対する説明と、「愛」という具体性のないものに対する説明を相似形にすることはできない。
●「愛」に具体性がないというのは、どうしてかなあ。実際に「愛」という言葉を使うからには、具体性があるじゃないですか。「ぼくの親はぼくのことを愛していないんだ」というようなことは切実に具体的です。「犬」の場合でも、それぞれに具体的でしょう。
■いや、でも、それはやっぱり……、いまはうまく野矢さんに説明できないけれども、違うんです。
●うん。
■違うんです、としか言えない。そこでぼくが厳密に「愛」について説明し出すと、野矢さんのディスクールに嵌まってしまう。だからぼくは、「それは違うんです」って言うことが大事なことなんです。
●それに対して、ぼくは「ずるいですね」としか言いようがないじゃないですか(笑)。女性に対して「ぼくは、君を愛している」という科白と「ぼくは、君より年上だ」という科白は、どちらも同じように具体性があるって考えちゃ、どうしてだめかな。まあ、ぼくも半分くらい、「だめだろうな」って思ってるんですが。
■「ぼくは、あなたを愛している」と言ったときに、その「あなた」から、「あなたの愛は、愛ではないよ」って言われると、やっぱりギクッとするでしょう。その差があります。
●もちろん「年上」、「犬」、「愛」の順で、個人のもとで意味の発散の度合いが大きくなっていきますが、程度の問題じゃない?
■それは量的な問題じゃなくて、質的な問題だと思います。「犬」と「愛」では、起源が違うんです。すべての言葉は成長の過程で習得していくんだけど、成長の過程がなくても習得できるものが、歳の差の計算とか、「犬」とかで、成長の過程がないと習得できないものが、「愛」だと思う。
●「犬」も成長の過程が必要だとは思いますけどね。曖昧なものがあるなら、それを表すには曖昧な言葉が一番正確だということになるけれども、保坂さんは、そういう意味で曖昧な言葉を使っているわけではないでしょ。
■そこでぼくは、「愛」という言葉を持ち出すんです。一人一人は自分の「愛」という感情を曖昧と思っていないわけですが、みんなの「愛」をもし並べて見ることができたら、相当違うものでしょう。それに対して、「犬」はあまり違わないと思う。だから「愛」のように相当違うものは、公的に使う時には無理に厳密にしないで、個人差の範囲をある程度想定しながら、曖昧な言葉として使うほうがいい。公的な場合と個人的な場合で曖昧さが異なる概念とか言葉があるというのがぼくの考え方なんです。
 別の言い方をすると、「犬」の概念をめぐっては、面白い小説を書きにくい。「愛」の概念をめぐってだと、ちょっと人の気を引く小説にはできる。その差があるんですが、それはいま自分が説明できないことなので、説明しません。


▼批評家へ一言

●曖昧な話から、ちょっと話をずらしましょうか。いま、面白い小説が書ける・書けないって言われたけれども、面白い小説って、どういう小説のことを考えているんですか。
■だからそれが本当に曖昧なことなんです。とりあえず「面白い」としか言わないけれども、ただ、ある特定のグループにとっての面白さってあるでしょう。歴史小説だけを面白いと思っている人もいるし、極端な話、書いた本人だけが面白いと思っている小説もある。「面白い」というのは、あるグループ内の共通の了解として考えていいんじゃないかと思うんです。というのは、ぼくの嫌いな評論家とか作家とかいるわけですね。その人は、ぼくの書くものを認めなかったり嫌いだったりする。
●だから嫌いだっていうんじゃないんでしょ。
■いや、そうじゃない(笑)。でも、ぼくはその人がいいという小説が嫌いなの。それってつじつまが合うでしょう。
●そうですか(笑)。
 ひとつ、「面白い」っていう言葉で引っかかることがあるんですよ。食事の後で、「ああ、おいしかった」というのはごくふつうですけど、「ああ、面白かった」と言ったら変ですよね。あるいは、ごくふつうのセックスが終わった後に、「ああ、面白かった」と言うと、なんか不真面目というか、不謹慎な感じがする。
 実はこれ、最初の「退屈」の話の裏返しなんです。それで、小説についても、「ああ、面白かった」というほうが感想としてはふつうだけれども、「ああ、おいしかった」というタイプの小説もあるんじゃないか。その二種類の小説は、なにか分けたくなるような感じがする。さらに「面白い」小説にも二通りあって、たとえばミステリーは、「面白い」小説になりますね。
■ええ。
●でも、ミステリーの面白さと、ぼくが保坂さんの小説に感じる面白さというのは全然違っている。ふつうのミステリーでは、手がかりを全部与えておいて、そして謎をかけて、最後にその謎を解いてみせる。読者にとっては、手持ちの言葉のなかで解ける。ところが、自分の手持ちの言葉のなかで解けてこないような謎が開かれてくるような小説もあって、ふつうのミステリーよりもそういうほうがもっと面白い。というか、面白さのタッチが違う。新しい文体を持った作家に出会うと喜ぶのも同じことで、そういうときは、新しい文体を自分の言葉に翻訳して済ますのではなくて、自分自身の言葉がその文体に触発されて変化していくことがある。保坂さんの小説も、すごく面白いんだけれども、その面白さが自分の言葉のなかでうまく収まらないんです。うまくつじつまが合っちゃうんなら、それはミステリーのような面白さなんですが、保坂さんの面白さは、自分の手持ちの言葉が変わっていくんじゃないかという予感を与えてくれるんですね。
■その話を半分受けつつ、半分受けてないんですけど、評論家というのは、本を評価するときに、ほとんど手持ちの言葉のなかで評価していっちゃう。ぼくは、そういうことに対しては断固闘うんです。
●闘ってるんですか?
■ええ。批評家が、たとえば手持ちの「攻撃性」という言葉をキーワードにして小説を読むと、「保坂という人間は、攻撃的ではない。なぜかというと、小説のなかで攻撃的な要素がない」ということになる。ところがぼくは、普段はわりと攻撃的で、将棋を指すときも攻めることしか考えていない。『プレーンソング』だって、攻撃性の産物なんです。小説のなかにはある程度攻撃性があるほうがいいとされてきたわけですから、一切攻撃性を感じさせないように書くというのは、攻撃性の産物にほかならないわけです。評論家も、小説のなかに潜んでる攻撃性などを適当に見つくろいながら批評を組み上げていくところがあるから、攻撃性が一切ないものというのは批評しにくかったんだろうけど。
●いまの話だけで判断すると、評論家はミステリーの探偵みたいな役どころを引き受けようとするわけか。
■そうですね。彼らは、作品を支配してないと気が済まないというか、不安なんだと思う。ぼくは、「分からないなら分からないと書けばいい」と思うんだけど(笑)。作品よりもへりくだってるような批評って、記憶にないし、一応全部読んで細部も了解しているかのように書く批評しかないと思っているんですよね。


▼「本当っぽい」とは

●本人に訊くようなことじゃないんですけども、保坂さんというのは、うまい小説家なんですか。うまいという基準がはっきりしないというなら、技巧的と言い換えてもいいですけど。
■うまい下手で言ったら、自分ではうまいと思ってはいないです。文章も、ふつうに書くと変になってしまうから、意識して意味が通じるように書かなきゃいけないくらいで、ぼくは、うまいんじゃなくて、仕事が丁寧なんです(笑)。
●ほう、仕事が丁寧。
■つまり、細部をきちんと書くということですね。喩えて言うと、心理テストで、「あなたは道を歩いています。その道は真っすぐですか。曲がってますか」とか、「木が生えています。どんな形の木ですか」とか、「木の枝に動物がいます。それは何ですか」というものがありますが、その一つ一つの項目を埋めていくようなものなんです。だから、埋め方はなおざりではいけないし、完璧に自分の気持ちにフィットするようなものを埋めていかなければいけない。それができれば、自分自身の無意識のレベルとつじつまが合いだすんじゃないかと思うんです。だから、ぼくが情景を書くときには、もうそれしかないんです。「夕方ちょっと薄暗くなるようなとき」と書いたら、もうその場面に合うのは、その時間しかないものとして書いている。
●例えば、「ダフ屋が腰のところで女子高生みたいに手を振った」という描写があったけど、ああいう描写は現実にそういうことがあったものをそこに嵌め込んでいるんですか。それとも書いてるときに、頭ででっち上げるんですか。
■後者です。
●とてもでっち上げたとは思えないようなリアリティがありますよね。じゃあ、前者のスタイルで書く、つまり借り物競走みたいなことをしていくことと、頭の中ででっち上げていくことは、どっちのほうが多いですか。
■女子高生のように手を振った、というのは、実際にそう手を振った女子高生がいるわけですね、ぼくの記憶のなかに。
●なるほど。半分借り物で。
■ええ。それをぴったり合った場面に嵌めていくんですよ。
●情景を書くときには、もうこれしかないっていう感じだと言われましたが、読んでいても、何を言いたいのか分からないような文章が続いていくなかで、なんかこう、うーん、リアリティという言葉はここではあまり使いたくないんだけれどもなあ……。つじつまが合わないリアリティじゃなくて、つじつまが合ってるリアリティだから……。
■本当っぽい(笑)。
●本当っぽいんですよね。だからぼくみたいな無邪気な読者は、記憶の再構成で小説が出来上がっているんじゃないかという印象を強く持つわけだけど、そうでもなかったんだ。
■『季節の記憶』のなかに、夕方帰ってくると松井さんが炬燵のなかで寝ていたっていうシーンがありますよね。あれは、誰かが炬燵に寝ているシーンをどこかで見ていて、さらに松井さんのモデルに使った人というのは三人ぐらいいるんですけど、そのなかの一人が炬燵で寝ているのがいかにも似つかわしいと思った瞬間が過去にある。そういうのが自然とくっついて出てくるんです。
●ところで、疲れましたね。疲れませんか?ぼく、少し疲れました。対談って初めてなんですが、こんなもんで大丈夫なんですか?なんか、保坂さんの小説の話とぼくの哲学もどきが別々になっていませんかね。つじつまが合わなすぎてリアリティがないっていうか。……ま、いいか、そんなこと考えなくたって。
■別々な話っていうのは、一つの枠のなかに入ると、読む人が関係づけるようにできてるんですよ。エッセーにも書いたことがあるんですけど、サッカーでサイドに走っていった選手が、ゴールの前に向かってセンタリングを上げて、真ん中の人がそれに向かって走っていってシュートを打つ。観客は、それを一連の動作だと思いがちなんですが、実はセンタリングを上げる人は闇雲に上げているだけだし、ゴール前に走り込んで行く人も、闇雲に走り込んでいくだけで、二人の動作はその場で関係づけられているわけではないんです。やっている本人たちも一連の動作だと思ってしまうんだけど、実際は無駄に上げてたり無駄に走ってることも多いし、ゴールが決まった場面のほうが印象に残るから、関連しているように思うだけなんですね。それが人間の認識の仕掛けになっていて、だから二つのものが本来は関係なくても、一つの場にあれば、必ず人間は関係づけるものなんです。
●じゃあ、こっちが話をまとめようとか小賢しいことは考えなくていいわけね。
■そういうことです。    <了>


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