◆◇◆<怪物>を消尽する−−底が抜けた言葉の文学◆◇◆
「ユリイカ」1996年2月号
特集:ベケット

 保坂和志VS宇野邦一   


■=保坂和志   ●=宇野邦一


▼時間の不在

■宇野さんと会うようになった頃、僕はベケットのことばっかりしゃべっていたんです。
●そんなときがありましたね。その後ですね、僕が翻訳したのは。
■そうですね。
●だからベケットについて話すように言われたら保坂さんの顔が浮かんでね。
■八〇年から九〇年ぐらいかな、ベケットのことばっかり考えていたのは。でもそんなにいろいろ読んでいるわけじゃないんです。
●僕が訳したやつも読むのにしばらくかかった。
■何しろ一冊読みだして、何度も途中で挫折して、その都度大体最初から読むんですけれど、何度目かに最後まで読めるときがきて、しかもそれを読み終わるのにも何ヶ月もかかるんです。
●僕も自分でなかなか読めないから訳してみたというところもあるからね。
■でも今回はじつはものすごい速さで読めた。僕が最初に読んだのは『モロイ』なんですけれど、僕は『ゴドーを待ちながら』抜きでベケットに入っているから、完全に小説のベケットにしか興味がなくてきているんですけれど、『モロイ』を最初に読んだのが、大学の五年目のときで、1979年のことなんですけれど、そのときも『モロイ』をはじめて読んでから、読み通すまでに一年ぐらいかかっているんです。でもその頃二回ぐらい読んでいる形跡があるんです。
 何がいいのかというと、すぐに順列組み合わせがはじまってしまうところで、「犬を連れている老婦人の犬がモロイの見ている前で死んで、犬を埋めた瞬間に彼女が笑いだした。なぜだろう。彼女は悲しいときに笑うのだろうか、それともあれが彼女の泣き方だったのだろうか。いずれにしろ、私は悲しみにも笑いにも通じていない」っていうような、ああいうあたりがずっと好きだったんです。
 僕は娯楽で本を読んだり映画を観たりすることというのはほとんどなくて、娯楽だったら競馬やっていればいいという感じがあって、いわゆる娯楽性は本とか映画に求めていないんです。ベケットなんかは、読むのにある種の苦痛もないわけではないけれど、突然襲ってくる快楽が苦痛よりずっと大きい。それで僕はあの頃から、ベケットが何でああいうふうに書くのかということをずっと考えていたんです。
●それはベケットだけが特殊だっていうこと?
■僕にとってはそうでしたね。完全にベケットだけが特殊です。ほかの人のについては、何を考えてあんなことを書くかというふうには、そんなに考えないですね。だいたい作家を離れて書いたものだけを読んで理解できるような気がするんだけど、ベケットの場合は考えていることと、形になったものの間にかなり差があるような気がして、ベケットは書いたものからベケット本人にたどりつく必要があって、しかもその距離が複雑で長いような気がするんです。
●その頃の読み方と、今の読み方では違うんですか。
■今回はがらっと違いました。僕は猫ばかり書いているんですけど、その理由が、人間の言語圏に閉じこめられることになった動物という意味が一つあるということに気がついたんです。ラカンみたいに言えば、言語につかみ取られている存在ということになるんですが、それが人間よりも極端にあらわれているのが、人間に飼われている動物としての猫という、一つにはそういう関心があったから僕は猫を書いていたんだと、気がついたんです。それが十月ぐらいのことで、今までラカンなんか読んでも曖昧だった言語についてのことが、突然自分の中ではかなりはっきりしちゃった。人に言うほどのことでもないんですけれど(笑)。
●それは猫が気づかせてくれたということですか。
■それはまた別で、猿なんですけど(笑)。もう一年くらい前のことなんですけど、冬のどんより曇った日に裏路地で人間に手をひかれて猿が立ってて、人間と二人で曇った空を見上げていたんですけど、その猿の姿があまりに人間そのものだった。あれ以来、その猿のことをずっと考えてて、十月ごろに、僕はその猿が完全に人間の言語圏の中で生き、相当言語に習熟するだろうけど、最後まで言語の法則は理解できないまま死んでいく、そういう言語というものが突然わかっちゃったんです(笑)。
 その言語の感じで、『伴侶』を読んだらスラスラ読めて、『名づけえぬもの』は、じつは今まで通して読めたためしがなかったんだけど、今度はスラスラ読めまして。それで、今回読んだのが『伴侶』と、『見ちがい言いちがい』、『名づけえぬもの』という順番で、もう一度『伴侶』、『見ちがい言いちがい』というふうに戻って、『モロイ』は途中までだったんですけれど、それでまた『伴侶』『見ちがい言いちがい』を読んで、『マーフィ』と『マロウンは死ぬ』は今回読まなかった。それで今回は『伴侶』が一番よく読めたような気がするんです。特に、ちょうど終わりの解説にも宇野さんが引用している「すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの」という、この言葉が言葉同士の向き合う力とか運動によって、かろうじて言葉がそこに、まるで電磁石で宙に浮いているように浮いていて、言葉はその運動が終わってしまうとストンと落ちちゃう。言葉は何にも支えられていない。言葉は言葉だけの運動で言葉としてあるというふうな言葉という感じがすごくしたんです。なんで猿の話がこういう言葉の理解になっちゃうのか、説明できませんけど(笑)。そういうふうに読むと、その部分がすごくよく読める気がするんですけれど、今度はほかの部分がわからなくなる。回想シーンとか。
 それとまたちょっと話は変わるんですけど、ベケットの小説のストーリーのなさ、時間のなさというのは、特に晩年の『伴侶』と『見ちがい言いちがい』の二つの作品では、中で時間が流れていると仮定する必要がない。書くことと読むことというのは、どうしても線的な流れになりますから、まったく完全な無時間性の中にあるということには矛盾があるんですよね、線的に流れているはずの、書かれているものに対して。時間が流れていない、時間が不在のものを読むのに時間を必要とするというのは「矛盾だなあ」と思いはじめてしまうと、全部をまるまる記憶しなければいけないということを強要されているような感じになってくるんです。
●逆にね。
■ええ。だから言葉、言語というので一方がわかったつもりになると、もう一方の回想の方がわからなくなる。それで回想の方にちょっと焦点を当てて、何となくわかったような気がすると、今度は言葉の方がおろそかになるというようなことで、読む側もまずこれを、書いているときのベケットと同じようにまるまる記憶しないことには、ベケットの考えていることはわからないんじゃないかなというような感じがするんです。



▼最小要素へ向かう厳密な闘い

●いつの間にか対談がはじまってるみたいだけど。『名づけえぬもの』の中にベケットの金科玉条みたいなものが突然出てくるところがあるんだよね、「はじめと終わりの観念を退けること」というのもその一つ(笑)。ベケットの作品というのは一見かなりルーズなでたらめな印象を与えるけれど、やっぱり非常に厳密な側面を持っているでしょう。
 これはちょっと話が飛ぶけれど、ベケットは自分の芝居の演出には相当厳しかった人で、細かいところも絶対変えさせなかったんですけれども、『ゴドーを待ちながら』の中で、主人公に犬みたいに扱われるラッキーという男がいるでしょう。全然しゃべらないのが、突然わけのわからない長広舌を発作みたいにしゃべって、それはベケットの劇の極めつけの台詞の一つだけど。ラッキーはそのときズボンをずらしてパンツだけになる。ズボンを脱ぎたがらない役者がいると、ベケットは「絶対にズボンを脱がねばならぬ」と言ったということです(笑)。そういう厳密さとね。とにかく、さっきの順列組み合わせの厳密さということもあるし、ベケットの独自の厳密さというのは恐るべきもので、それは一貫してそうだと考えた方がいいかなと思います。
■テレビのシナリオで、二秒止まって四秒向こうを見てとか、本当にそういう細かい単位でやるでしょう。普通、現場で演出していないとわからないはずですよね。あれはその通りやったのかという疑問があったんですけれど、どうもその通りですね、そうすると。
●『しあわせな日々』と訳したっけ。ベケットのもう一つの、『ゴドー』についで何とか芝居らしい芝居。これ以降ベケットの作品は芝居と言っても、もうギリギリの身振りと言葉しかないものになってくるんですが、『しあわせな日々』で女優が穴の中に入って傘をさして、ひとこと言ってはそのたびにいろいろな表情とか動きとかをするんだけど、それ自体は何でもない動きでも、わずかなせりふの間がびっしりト書きで埋まっている。それを覚えるのはそうとう大変なことだと思うんです。役者にとっては冗談はよしてくれというところでしょうが、そういう厳密さも含めて、ベケットの厳密さというのがいったい何かというのは大きなテーマだと思うんです。
 それからさっき時間という問題を保坂さんが言ったわけだけど、ベケットのプルースト論というのがまたじつに奇妙奇天烈なものなんですが、よく読んでみるとちゃんとプルーストの読むべきところを読んでいて、驚くところがあるんです。『失われた時を求めて』の一番最後の文章から引用しているんだけど、その中でゲルマント公爵が年を取って、その年を取るということは、過去の生きた時間の上に竹馬のようにのっかって、その竹馬がどんどんのびて、人間もどんどん上って行って、教会の塔よりも高いところに行って、突然そこから墜落するようなことなんだという言い方をしている。『失われた時』の有名な最後で、時間があればこの作品を仕上げたいという締めくくりで終わっているんだけど、時間があればということの中に、人間というのは過去を全部背負って生きていて、その時間を生きた人間は、過去に生きたありとあらゆる時間と場所の中にまたがって生きている。これを時間の災厄というような言葉で表現していて、もうこれは気違いじみたことであって、時間の中を生きて、長い過去をもつ人間というのは、それだけで怪物なんだということを言っていて、プルーストの作品はそれで終わっているんです。
 今さらながらまた驚くんだけど、これが『失われた時』の最後の一ページに書いてあることで、ベケットはこれに注目していて、時間というのがいかにわれわれを閉じこめるか、いかにわれわれにとって重いものであるか、怪物的なものか指摘しています。時間の中にある存在というのはいかに怪物であるかという、そういう時間の観念をプルーストは小説ではっきり示していて、もちろんベケットの作品がこれで全部説明できるわけではないけれど、こういうプルースト的時間のオブセッションとまったく逆行するような形でベケットは作品を書く。だからやはりベケットの中に、大きな問いとして時間というものがあって、その時間の中で生きる怪物としての人間にどう対処するかという形で、時間から逃れるという別のオブセッションをもつ怪物になっていったベケットという存在があるのではないかなと思います。
 それがやっぱり彼の小説がまったく違ったものにならざるを得なかった一つの大きな理由だと思います。時間から逃れるということ、時間という怪物に敵対することというか、ベケットの作品というのは、晩年の作品は一見ずいぶん穏やかな、ほとんど無の境地と言っていいような面が見られるけれど、一生そういう意味では時間との闘いを続け、時間と闘うために書いたと言ってもいいなと思っているんです。そのため、彼の小説の手法がまったく異様なものとして出てきたというふうに。
■『伴侶』の中に時間についてのすごく好きなくだりがあったんです。えーと、どこだったっけ(ページをめくる)。見つからないから(笑)、つづけて下さい。
●もう一つは、晩年の『伴侶』という作品が、大変重要な意味を持っているのは、小説における人称の問題が非常にはっきりと扱われているんです。この人称の問題は、あるいは語りの問題と言ってもいいけれど、三部作では特に『名づけえぬもの』で、それ以前の作品とはまったく違った「わたし」という語り手がどうもいるらしいんだけれど、その「わたし」がかつて書いた作品に出てきたいろいろな固有名詞が勢ぞろいするわけですね。モロイとかマーフィとかマロウンとか。それでこういう人物に仮託して自分を語るのはもうたくさんだと言っているんだけど、一向に「わたし」の話がはじまるのではなくて、いくら「わたし」が語っても、この「わたし」を語っているのは他人であり、しかしその他人であるのは「わたし」であり、というふうに往復しているうちに、いつの間にか人称はもうほとんど幽霊的次元というものに到達する、そういうふうに小説における人称の安定性を、とにかくこなごなにしたのが『名づけえぬもの』という作品なんだと思います。
 そういうことをじつに徹底的に彼はやって、本当にとめどもないおしゃべりという形で三〇〇ページ近く続くんだけれど、そのあと出てきた作品として、特に『伴侶』という作品は、最初「お前は闇の中に横たわっている」と、これは二人称の語りかけではじまっているわけです。しかしこの二人称というのは、やがて「彼」という三人称の語りと交替しながら、またこの三人称の「彼」というのと、その「お前」というのはどういう関係かということがいつも問われる。小説の流れの中では結局これは同一人物だと一応は考えられるわけです。しかしそれがはたして同一人物であるのかないのか、常に不安な形で続くし、それは同一人物であるけれども同一人物ではないというふうに、そういう変なリアリティがつくられる。
 そして『名づけえぬもの』よりも、『伴侶』の中では、ほとんど代数というか関数のような形で二人称と三人称と、ときどき非常に不安定な形で現れる一人称、そういういくつかの人称を提出し、交替させ、問題にしているわけですね。人称の構造を解剖しながら、その中で語る声がたしかにあって、その語る声がもたらす意味、あるいはイメージというものがあって、その声というのとイメージというものが、あらかじめ分離している。誰かが語り、誰かが見ている。このことも分離しているわけです。こうしたばらばらの要素が一致するのはほとんど偶然の一致でしかない。人称の分離ということと、声と意味あるいはイメージの分離ということについて、もう徹底的にぎりぎりに最小要素にきりつめ、それらを分離されたものとして考え、それらをとっかえひっかえする。そこに子供時代の回想がまじり、今はたぶん年取った男でほとんど身体が不自由で、ろくに這って歩くこともできない、その這って歩くときの仕草の一つ一つが順列組み合わせ的に解剖されていくんだけど、そういうふうにぎりぎりの最小要素が決して一つになるのではなく、次々に組み合わされ、交替していく形で話が進んでいきます。
 以前ブライアン・イーノのインタビューが『現代思想』の「Contemporary Music」特集(八五年五月号)にのっていて、僕はひところ「ミュージック・フォー・エアポート」という反復音楽のすごくよくできたのを、何年かずっと毎朝のように聴いていたことがあるんだけど、そのブライアン・イーノがこの『伴侶』というのを理想の作品としてあげているんです。最初にいくつかの要素が一、二ページで全部出て、それの組み合わせが無限にくりかえされる。複雑な作品空間が、しかしじつに明晰に構成要素を提示して、その組み合わせだけで作品が進行していくという言い方をしていて、僕が『伴侶』を訳したのは、そのあとのことだけど、そいうことがちょっと励ましにもなったんです。



▼中上健治の『伴侶』観−−呪文としての言葉の運動

■現象学みたいに言うと、人間というのか主体というのか、それがまず最初にいて、それで空間の距離と方向を測って、空間を主体中心に構築していくというような感じがあるんですけれど、ベケットのだと自分がいるという意識と、自分を見ているという意識が、同時にあるんですよね。自分が何かやっているというのは、じつは意識の中では見ていますからね。だからその一人称と二人称と、三人称がいろいろ出てくるというのは、割合普通にやっているときを解析していくと、じつはそっちの方が自然なんじゃないかという感じがあって、それは普通の正常な人間はうまいことこなしていくというか、三人称とか二人称を使いながら一つの自分の像をつくっているんだと、読んでいて思いました。
 「ベケットの『名づけえぬもの』は胎児の意識である」というふうに読んだ人がいるらしいんです。それと同じように離人症の意識であると言ってみたり、分裂症者の意識であると言ってみたり、そういう言い方はいくらでもできるんだけど、そういうふうに先にあるものでベケットを読むのではなく、逆にベケットのような考えがあるから胎児はこう考えるんじゃないかという想像が可能になり、分裂症者の理解も可能になるかもしれないという……人間と世界の関係をはかるとき、ベケットの書いているものの方が尺度になり得るんじゃないかと……。
●ベケットの一種の哲学性という面ですが、これはもちろんドゥルーズのような人はそれを実に的確に読みとったと思います。ドゥルーズが晩年ベケット論を書いたということは、今思えばじつにあるべくしてあった組み合わせだし、両者相照らす点でも重要な出会いだと思うんだけど、ベケットは初期から独特の哲学的資質を示していますね。初期にはもう観念的な自己をそのまま書いている。ものすごいブッキッシュな人で、初期の作品は、もうとにかく博識な引用や書物の名前や固有名詞が飛び交うわけだけど、やがてそれも必要最小限のところで抑えられていくわけです。
 初期には、スピノザの思考とか、ライプニッツのモナドロジーとか、その影がいたるところにみえるし、それから僕はデカルトの『省察』の文章を思い起こすことがあるんだけれども、ベケットの散文というのは、徐々にこうした哲学者の哲学的概念から離れながらも、哲学的な問題を、特に思考の主体というものが存在するのかという問いを、ずっと一生しつこく問い続けた人だと思うし、これはもうほとんど保坂さんが言ったような意味では現象学的な思考の批判にさえなり得ているような思考だと思います。
 さっき胎児という言葉があったけれど、中上健治が『伴侶』の書評を書いたことがあるんですが、とてもいい書評だと思うんです。最初の「お前は闇に横たわっていて……」というはじまりからして、中上健治はこれを一種の呪文というふうに読んでいるんです。一つの呪文めいた言葉からさまざまに、最小要素から分岐していくベケットの世界を、僕の印象ではほとんど折口信夫の『死者の書』の冒頭のようなイメージとして読んでいます。死者が目覚めつつある、ああいう幻想的風景として読んでいるように思えたんです。つまり憑依とか、人から物へ、自分から他者へ、遠くから近くに自由自在に交感が起こる。むしろ世界全体が一つに溶けていく方向で、まさに憑依ということですね。そういう現象として彼は『伴侶』を読んでいて、ある意味で彼自身の小説の方向性をも示している。もちろん中上の作品にはいろいろな要素があるわけで、これは中上の一つの要素について言っているだけのことだけど、そういう憑依とか溶解という要素でこの作品を読んだんです。
 ところが僕は、特に『伴侶』という作品でベケットが極めたのは、「一」という人称はもうあり得ないということだと思うんです。「一」はすでに他であるという、それを絶対的認識として提出しているという、一つの観点や身体が世界に一致してしまうことはない。この厳しさというものが『伴侶』の全体を貫くテーマの一つでもあると思うし、その厳しさが生みだした独特の美しさというのもあると思うわけで、中上健治がそういうふうに読んだということを今思い返すと、とても面白いんです。
■言葉の起源みたいなものが、……起源というのがいいかどうかわからないんですけれど、たいして意味がないような言葉でも、というか、言葉はもともと意味なんかないんだろうけれど、呪文のように繰り返すうちに、意味のようなものを帯びてきて、絶えずそういう運動が言葉の裏に隠れているんだけど、普段の生活の場面では言葉が安定した意味を持っているようにみんなが使ってしゃべって聞いている。中上健治が呪文と言ったような、最初は意味がないけれど繰り返して、繰り返すうちに必ずどこかで引っかかって、その引っかかりも含めたものが意味のようなものになっていくというふうな、繰り返し入る力と出る力があって、言葉がギシギシ言いながら人間に入ってきて、うまく言えないけれど、その運動自体が言葉であるというふうなもの、『伴侶』は何か全編そんなような感じなんです。さっきから同じことばかり言っているみたいですけど(笑)。



▼ハイデガーの「存在」とベケットの「分裂」

●例えば保坂さんが小説を書いているときにも、人称の問題、語りの問題というのがあって、僕はそこにある一貫した方法、意識性があるようには思っているんですけれど、例えばベケットに照らすとどうなるのだろう。
■それはですね、現状からしゃべると、小説家としてデビューして以来、ベケットはほとんど読んでいないんです。宇野さんから送られてきても、きちんと読まなかった。当面具合が悪いんで、ベケットのようなものには触れないようにして書いているという感じですね。
●触れるとどうなるの?
■そうすると困りますね(笑)。なかなか作品として成り立たなくなってくるんで、書いているときの自分の位置とか、小説の中での一人称の位置とかは、極力安定させて書いています。そういうことは普段は考えていないようにして書いていますね。
●するとベケットを読む保坂さんと小説を書く保坂さんとは?
■かなり断層があると思う。
●排他的離接というやつかな(笑)。
■ベケットのようにやり出すと、考え自体を前に進められなくなっちゃう。その場所でずっと言葉が留まり続け出すから、言葉を極力透明な道具のようにしようというのが今の僕の考えですので、言葉の起源のようなものから気にし出すと、具合が悪い(笑)。一応、職業なんですよ。商品をつくっている。
●職業上、差し支えると。
■そうですね。『ゴドーを待ちながら』のような経済的基盤となってあまりある作品が一つあればいいんですけれど、絶えず今書いているもので生活していかなければいけないんで(笑)。
●ベケットを読むと生活できなくなる。
■なかなか商品がつくれなくなる。
 でもとにかく自分の考えの体質みたいなものに、はじめてすんなり合ったのはベケットだったと思うんです。宇野さんが『見ちがい言いちがい』の解説の中で書いていますが、外から見えるものが中の意味の反映になるというような考え方をベケットは否定して、人間の内面を表情とか仕草で表す、表情とか仕草で内面をはかれると思ってはいけないと言っている。ましてや現在の心理状態の隠喩として風景が扱われたりすることがないというのは、最初から僕の体質に合うんで、それでベケットがすごくすんなり読めちゃったわけだし、僕も風景や動物を隠喩としては使わないわけです。文学性の強い人にはベケットはやっぱりむちゃくちゃだから、読むに堪えない人もいるんじゃないかと思うんですけれども。
●ですから物語とか心理とかそういうものは、根こそぎになっているわけだし、それから隠喩とか象徴性ということはほとんどもう問題にならない。
■あ、さっき見つからなかったページが出てきました。時間についてのくだりです。「彼はなけなしの感情で、以前に比べて現在をどう感じているのか。なけなしの判断力で、彼が自分の状態が取り返しがつかないと判断したとき。同じように、彼がそのとき、それ以前に比べて、そのときのことをどう感じていたか問うこと。そのときにも、以前などというものがなかったように、今もそんなものはない」(『伴侶』三四ページ)……声に出して読んだら、全然わからなくなっちゃうんですけれど(笑)、黙読しても意味がうまく取れるわけじゃないんですけど、それでもこの状態が過去と現在と未来というものが意識に浮かび上がってくるときを、かなり明晰に示しているんじゃないかという感じがするんです。
●時間以前ですね。時間としてあらわれる以前の状況の中の真理というか。だからベケットの、さっき言った時間の問題で、今度は空間という問題を考えたときに、特に現象学系の思考というのはむしろ時間を斥けて、多分ベルクソンに対する反動かもしれないけれど、空間を思考することの方が、どちらかというと多いように思いますね。それで現象学系の精神病理学なんかも、分裂症者における空間構造はどういうふうになっているかというような形で、世界を空間的に定義して、背後とか上とか前方というふうに空間を分節している構造を問題にしますが、ベケットはそういう意味での空間というものをほとんどバラバラにしている。小説でもこの解体は徐々に進んで、特に『名づけえぬもの』なんかでは、もうバラバラになっている。
■歩いているときに、足の裏が地面に触れる感覚にとらわれて、そっちだけがだんだん意識の中で問題となってきちゃうというようなことが『モロイ』の中で出てきますよね。ハイデガーだったら、どこかに向かって歩いているときには、行き先というのが問題になるわけですけど、ベケットだとしまいには足の裏が地面に触れる感覚だけになっちゃう。現象学的な方向とか距離というのが一切なくなっちゃう。だから『存在と時間』を読んでいると、特に前半部分で何度も「あ、今モロイがページを横切った」と思ったところがあった(笑)。
●だからハイデガーは、いわゆる道具的存在者から脱出して存在に至るという問題を出すわけだけれども。そういう気遣いとか道具的存在の中にあるわれわれが、いかにそこから出るかといっても、ハイデガーもそれを全部否定するわけではなく、そこにとどまりつつ出ることはどうしたらできるのかと問わざるをえないわけです。ベルクソンのようにもっぱら持続の概念に時間をひきつけて、日常の時間感覚を否定することはまずいとも言っています。そういう今世紀的な存在問題を、ベケットは当然共有していると考えていいと思うんだけど。僕はどちらかというとベケットの存在論の方にはるかにひかれるわけです。
■ハイデガーにとっては、行き先が必要不可欠なものでしょう、普通の状態では。ただ、不安になったときには、そういうものが全部消えてしまって、生そのものと向き合わなければならなくなるというようなことを言っているから……、あっ、ベケットと同じなのか(笑)。
●ハイデガーの問題を語ろうとしたら、なかなか簡単な思想家ではないと思うし、僕はまだハイデガーはこれから勉強しようと思っているから……。存在問題という形で彼の提示したことは、やはりブランショにも通じていくし、フーコーやドゥルーズの中にも注いでいき、差異という問題をぎりぎりまで詰めたところで、すべての事項や概念以前にあるまったくニュートラルな差異というところまで思考が及んでいます。それを、二〇世紀の存在問題という思想的広がりとして考えれば、ベケットのような存在は当然そこに関わらせて考えることはできると思います。僕の知人の中にもハイデガー・ベケット・ブランショという論文をアメリカで書いている人がいますけれどね。
 ですからいかようにも結びつけることができると思うんですが、存在者を超えた存在を思考するとか、あるいは晩年のハイデガーが詩的なテクストにこだわって、言葉の中に存在の故郷があるとか、こういう傾向というのは、とにかくベケットにとってはあり得ないわけですね。このみじめな現在を越えた何かというものはベケットにはとにかくあり得ない。
 意識のもちようがまったくハイデガーと違うわけね。現存在にも気遣いにも道具的存在にもたどりつけないというところですべてが起こっているから。じゃあベケットはどういうところに時間の中の怪物である人間を還元していくのかということですが、一つはやはり言語から意味をぎりぎりに剥いでしまう。その削いだところにあらわれるものが一つの中心でしょう。ベケットの中にはたぶん精神というカテゴリーがあるんですね、絶対消えないものとして。



▼言語と非言語の両方からせめる

●とにかく時間についても空間についても、ベケットはその常識的な構成というのを、全部バラバラにする。そして人称もバラバラにするということの中で、一番ミニマルな基本的な構造を透視するというか、そういう操作になっていると思うんだけど、それともう一つは、やはり意味の問題で、言語が同時に問われるわけですね。空間、時間、人称と言語がすべて問われる。ベケットはもちろんそれを無意味にするわけではない。ナンセンスの問題という、これもやはり一九世紀マラルメやフローベール以降ずっとこのナンセンスという問題が続いてベケットの作品にまで反映しているわけだけれども、ドゥルーズのベケット論はそれをはっきり概念化した仕事で、ナンセンスとはどんな過程かをとらえたものだと思います。この過程は可能性という次元を全部消尽するんだというわけです。可能性という次元を全部なくしてしまう。可能性というのは時間の中で過去と未来をかかえ、それを現在に集中し、未来に対する期待や過去に対する懐古やらに変形する一切の可能性のことでしょう。可能性を持った人間というのは、過去を背負った怪物的な存在、多分プルーストのいう怪物なんですよね。そのなかで空間というようなものを、はっきり方向を持ったものとして分節する怪物なんだ。人称なんてものを分節させて、はっきり意味を持つと見なされる言葉を使っている、こういう存在、つまり意味という可能性、人称性という可能性を持った人間は、みんな怪物なんだという。そしてその怪物でないまともな人間に戻るには、可能性を全部消尽しなければならない、消さなければならない。ドゥルーズの思考を、ぼくなりに翻案するとこんなことでしょうか。哲学者としてベケットの仕事をこういう形であまり鋭角的に抽出すると、そこから多分埋もれてしまうこと、ベケットが読んだら腹立たしく思うこともあるかもしれないけど、当然あるに違いないんだけれど。
 例のベケットのテレビ作品[クワッド]というのを僕はヴィデオで見ることができたんですが、じつに不思議なものですね。正方形の場所を、顔を隠し、わりと長い衣装を着た人が、地面を引きずって歩いているような感じで、決して軽快にすーっと歩くという感じじゃない。一応ダンサーがやっているんだけどね。最初一人が歩いて、とにかく四角形の対角線が交わる中心のところでさっとそれて、別の方向に行くの。最初は一人なんだけど、次に二人現れて、次に三人、四人現れて、四人とも中心に来たらぶつかってしまうわけなんだけれど、そのときにツッとずれる。その運動をずっと続けていて、また三人になり二人になり、一人が残り、そういうことを繰り返しているだけです。話だけ聞いていると、面白くもなさそうな作品なんだけど、見ていると結構いいわけ(笑)。ちょっと悪夢のような繰り返しなんだけど。弱い打楽器が歩みに合わせて鳴って、四人の人物に四つの色の違う光が当たる。これでかなり表情が出てきます。四人の人間を使って、じつに厳密に、正方形という場所での運動を最小化し、組み合わせを尽くしていくだけ。そういう突き詰め方をするわけです。どんな舞踏作品とも演劇ともちがうものです。やっぱり不思議な才能だと思います。
 ベケットの哲学は本質的にほとんど一七世紀の哲学でことたりていると思うんだけど、デカルト、ライプニッツ、スピノザ、もしかしたらバークリーとかもあると思うし、地理的にもドゥンス・スコトゥスなんか無縁でないと思うけれど、それがこの四角形のパフォーマンスに集約されて、形而上学的問題を、可能性を全部抹殺するという形に突き詰めているといえるかもしれません。これは証明なしの思いつきですけど。
■なるほどドゥルーズが『消尽したもの』の中で、何かが起こる可能性のあるところとしての空間というものを、全部否定するというようなことを言っていますけれども、まさに今の四人がそうですね。
●『名づけえぬもの』の中でも、そういう試みが見られるけれどね。それからジョイスについて書いた文章でも、ジョイスの宇宙では運動に一切方向がないと。世界に方向がないということは、空間を方向づけるものが何もないということ、そもそも空間があるのだろうかという問題になってくるはずです。『名づけえぬもの』の中でも、空間に方向があるというようなことはないと、はっきり述べています。だからこういった問題は、ドゥルーズが言う前に相当はっきりベケットの中で思考されていることは確かです。
 こういう問題というのは、ブランショがニュートラル(中性)という形で持ち出した主題にもつながっていくし、ドゥルーズは『意味の論理学』の中で、意味というものをまさに無意味として提示しているわけですけれども、ドゥルーズにとっての意味という問題と、ブランショの中性の問題と、ベケットのそういう可能性を抹殺する試みというように、それぞれ非常に近いことが書かれていると思います。
■意味というのは、言語の側にあるんでしょうか。
●と言わざるを得ないですね。
■『見ちがい言いちがい』を読んでいると、存在が極小化されていく瞬間のことをずっと書いているみたいで、意味は関係ないというぐらい、もう意味はないですよね。極小化された存在に意味から離れて極小化した言葉を持ってこないと、存在も意味も出てこないのではないかと。
●意味というものをどういうふうに哲学や批評の言葉で言うかは、それぞれの人たちの言葉の使い方でかなり錯綜しています。ラカンが構造主義によりながら提示したのは、構造主義の主張では意味には意味がないということだからね。意味には意味がなくて、意味というのは一つの言葉と言葉の関係で実体ではないことが極端まで突き詰められています。シニフィアンは意味とは何の関係もないということになります。
■ベケット風に言うと、「私は意味には慣れていない」という感じになる(笑)。
●そして言葉の中に意味がないわけですけれど、言葉の側にあるものとしての意味と、それから言葉の外部として、現実を指示し、現実の側にある意味というものと少なくとも両方あるわけだから、やはりベケットの場合は、その両方あるわけだから、やはりベケットの場合は、その両方に対して相当厳密に言語を意識して、とにかくその言語の最小値というのかな、言語存在というものの最小値に照準をあわせて、言語と非言語の両側からせめていく。そういう操作だというふうに言っておきましょうか。なぜそんなことをやるのかというと、やはり言語というものを持った人間というのは時間の怪物であるという思考があるんだと思うんです。なぜベケットはそう考えるのか、いったい何を求めたのか、それが問題になるわけだけど。ベケットという人は、そのまま受け取ったらものすごくネガティヴで、ペシミスティックで、『ゴドーを待ちながら』を見ても、生きる勇気がわいてくるとか別にそんなことはない、これはいったい何なんだ、この乏しさは、ほんとにベケットは『ゴドー』以外は大して意味がないと断言する演出家なんかもいます。
■これは個人的な話ですけれど、僕は最初の「プレーンソング」という小説を『群像』の編集者に渡していて、「あなたの書いた小説を『群像』に載せられるかもしれない」という連絡を受けたのが、ベケットが死んだ報らせが夕刊に載った翌日だったんです。思想家もみんな死んでいきますから、いずれは自分も明日死ぬんだけど、ベケットが死んだことだけはものすごいショックだったんです。ベケットが死んでしまうと、もう言葉が底抜けになってしまうと。言葉の最底辺を支えていたのがベケットで、ベケットがいなくなったらもう本当に世界にはただの道化の言葉だけが残ってしまう。みんなが誤解しているように、ベケットの芝居を道化として受け取るような気分というのは、僕は一度もなかったから。「底抜け脱線ゲーム」というのがありましたけど(笑)。底抜けというのはおかしいことだというのが普通ですけど、ベケットの場合、底抜けざるを得ないような言葉の向かい合い方をしているから。ベケットが死ぬと、ベケットが支えていた底が抜けてしまうと思ったんです。
●それで保坂さんも底が抜けちゃった?
■僕はベケットが支えていた底辺は見ないようにしてますから(笑)。



▼二つの異言語−−カフカの象徴の彼方

●ベケットのユーモアというと、彼が何度もジョークで持ちだしたのは、仕立て屋にズボンを持って行ったら、一か月も二か月もかかった。それで客は仕立て屋に「なぜこんなに時間がかかるんだ、神はたった六日で世界を作ったじゃないか」と言う。するとその仕立て屋が「しかし、私のズボンと世界を比べてごらん」というわけです。これだけでは笑えない。つまり、私のつくったズボンはこんなに出来がいい。これに比べりゃこの世界のでたらめさ加減はどうだ?というわけです(笑)。これは何度も繰り返していますね。カフカだと例の『掟の門』で、男がその門に入ろうとして、ずっと待っていて、入っていいと言わない門番が構えているからずっと遠慮して待っていた。それで結局その門の前で死んでしまうわけでしょう。死にかけているときに、「この門はお前のためだけの門だった」と門番に言われるという大変悲惨な話がある。カフカのどんな小説もこの話を拡大したものと読むことができます。
■カフカのそういう情景というのは、いろいろなものに使えるんですよね。
●象徴的な価値も持っている。
■小説を書こうと思っている人間には共通の門はなくて、一人一人の門しかないんだというふうに、いろいろ使えるんだけど、ベケットのはそういう使えるものがないんですね。使いみちがないし、意味がない(笑)。
●ただカフカの場合、やっぱりある種の短編なんかは、「断食芸人」とか、あるいは例の歌を歌わない歌手とか。あと「巣穴」と訳されている、いりくんだ穴の中でどういうふうに身構え、敵を防ぐかということを延々と推理する作品ね。あくまで可能性をなし崩しにする試みと読めるけれど、到達すべき城や、無罪放免への期待は、どうしてもユダヤ教の救済の概念に結びつきます。
■ベケットは、書かれる以前にある何物かを前提として書いていないから、読んでもそれが象徴となって指すものがない。だから読んだらそのまま覚えなければいけなくなる。そのまんま覚えない限り、読んだことにはならないと。
●だからやっぱり『ゴドーを待ちながら』の解釈には、結局、現代的人間の絶望的状況とか、目的も価値も失ったという状況を示すといった、通俗的な意味での実存主義的な解読というものがあって、人生への絶望、そして人間はなんら本質をもたず無意味な実存でしかないといったそれ自体実に意味ありげな読み方があって、結構そういう形でベケットを物語化した研究がかなりあったように思います。『ゴドーを待ちながら』のゴドーは何か、あれは神であるとか、いろいろあるでしょう。ベケットの、特に散文に向きあえばほとんどそういうことは言えないはずなんですね。よくダンテのベラックワの話が出てきます。『神曲』の中で、ダンテの知り合いだったベラックワという楽器職人がいて、煉獄に行くまでずっとうなだれて待っている。その待っている状況というのは、死でもなく生でもない宙ぶらりんのところで両膝の間に頭を埋めて待っている。その姿勢にベケットはすごくこだわっているんです。人生論的な意味での絶望というような形で、象徴としてこれを持ち出したわけではないんです。でもそういうふうに読み間違うことはできるし、そういうふうに読みたい人がそう読んでもそれは基本的には解釈の自由です。
■ベラックワは待つ状態を苦にしていないというように僕は読んだんですけれど。ベラックワは怠け者だから、怠け者として生きたのと同じだけの時間待っていろと言われても苦にならないんだと。さっき近代で目的を失ったっておっしゃったけれど、目的なんかもともとなかったことが近代になってはっきりしてきたということですね。だからベケットの書いているものは逆にものすごく意味がある。
●たしかにカフカの作品にはベケットの隣に来てもいい短編があると同時に、たしかに一種の象徴性を帯びたカフカの側面というのがあって、これは何の隠喩かという形で、常に「城」でも「審判」でも読めるところがあって、その読み方もカフカ研究の一翼をなしているわけです。ベケットの場合は、やはり前にジョイスがいたということもあって、形式面でとにかくぎりぎりのところに行かざるを得なかったということが大きいと思います。
■ベケットにはキリスト教というか、キリスト本人というか、それがすごく出てきますよね。『見ちがい言いちがい』でも一二人の人が、老婦人のまわりにいる。ベケット自身は四月一三日の金曜日に生まれている。ベケットとキリストはどういうふうにつながるんでしょうか。
●キリストは、いろいろな形で出てくるようで、ゴルゴタの丘みたいな、磔の場面みたいなものが少し『見ちがい言いちがい』の最後あたりにも出てくるわけだけど、僕はよくわからない。神の問題に関しては、『名づけえぬもの』の中に、マロウンもマーフィもモロイもみんな神で、今は人間は俺しかいないとか、そんなふうに書いているところがあるでしょう。彼は全体としてキリスト教的神学的なものを斥けようとしたとしか思えないのですが、やっぱりアイルランドという歴史的な土壌があるし、そこでの宗教対立の問題と、それからずっとさかのぼればアイルランドの中世神学とか、そういうようなところまでさかのぼって行って、ベケットが考えていたことがあるかもしれません。よくわかりませんけれど、ベケットの研究者でそういうことをちゃんと書いた人がいるか、いつか教わることにしましょう。
■生い立ちにからめて作家と作品を解釈するような部分もありますけれど、ベケットの場合には、生い立ちをからめてわかったような気になることもいけない、というふうに僕はベケットに思わせられていまして。残した作品と、その作品を書いたベケット本人の生い立ちとかはあくまでも関係なく考えていろと。僕はベケットを信仰しているんですね。ベケットの言ったことは、いかなる矛盾があっても丸飲みしようとしているし、そういう命令だと思ってもいるらしい。



▼愚かしさに向き合って−−ジュネ、セリーヌ、ドゥルーズ

●ベケットの伝記映画みたいなものを観たことがあるんだけど、たしかBBCでつくったものでしたが、『伴侶』をまさに伝記として読んで、だから『伴侶』の中のベケットの子供時代とおぼしい部分なんかを朗読するわけ。それで子供時代の家の映像が出てきたりするんだけど、かなり違和感を覚えます。そういう伝記をつくろうと思えば、資料で使えるようなものは、『伴侶』なんかが唯一そういうものであって、ベケットの作品ではほとんどないでしょう、まともに伝記に役立つものなんて。
■作品の中で書く風景はアイルランドの風景ですね、特に回想として出てくるのは。『伴侶』なんかでも、かなりいい風景に見えるんですけれどもね、牧歌的で。
●その伝記映画に出てきたのは、結構きれいな風景でしたよ。観光の対象になりそうな。
■一生そこから出ないで済めば幸せだったかもしれないような風景で書くんですね。でもベケットがそういう風景を肯定しているはずもないんで。
●晩年に、荒野の一軒屋みたいなところをろくに動かない身体で毎日散歩して、歩数を数えたりなんかしている場面があるでしょう。あれが不思議なんだよね。ベケットはカルチェラタンやルクサンブール公園に近いパリの街中に住んでいたんだからね。そんなことも、ベケットの研究者は細かく調べているかもしれませんけど。
■毎日行っているカフェがあって、近所の人もベケットが毎日来ることを知っているんだけど、誰も一切マスコミには言わなかったという話を、港千尋さんから聞いたことがあります。
●『注視者の日記』(みすず書房)に書いてあったね。
 ベケットと関連ある作家ということになると、カフカもいますが、やはりアルトーと比べると面白いと思うんだけど、アルトーは身体を絶対的存在として要求するという形で、存在問題を身体問題にすごくラディカルな形で解消していくというのかな、それに対比すると、ベケットには絶対になくならない精神という領域があると思います。ここでも一七世紀の哲学者がベケットの中にどう生きているかという問題があります。
 精神といっても、あらゆる形而上学からも意味からも宗教性からも離れた精神がある。それから身体の問題というのは、どんなにぎりぎりのところまで還元されても、ほとんど不具になり老いた身体という形であっても、その身体が極小化されたところでわずかな身振りとして、乏しい光の中でなおかつ絶対的に存在しているというおもむきがあります。こういうシチュエイションが晩年の作品では何回もしつこく描かれているわけです。これはベケットが一七世紀の哲学にこだわったことと無縁ではありません。ライプニッツの中にはモナドという概念、魂という領域と身体という領域をどう構成するかという問いがあって、身体という混沌とした領域があり、それを照らし出す神の光があり、神がもつ最も明晰な表象という一つの基準があって、それが混沌とした世界を照らし出すという。こんな世界観を彷彿させる面がベケットにはあります。どこかでベケットは一七世紀の哲学を手放したことはなくて、彼はそういう意味では、どうも一九世紀にも二〇世紀にもそんなに興味がなかったように思うんです。彼の思考と提出した問いとスタイルはすぐれて二〇世紀だけれども、ほとんど一七世紀的なところに彼の精神・肉体の意識と、それからもう一つはやっぱり思弁があって、さらに時間と空間の独特の還元の仕方というのがあるんじゃないかなと。そんなことを思います。これはいま話しながら思いついたことだけど。
■ベケットの人物は、食べなくてもしゃべってさえいれば生きていけるんですよね。
●でもその場合、口っていうことはあるよね。これは口なんだと。それはしゃべらない口でもある。だからこれはドゥルーズの問題でもあるけれど、やはり愚かしさというテーマをめぐる哲学がなくてはならない。哲学はいつも理性を問題にし、明敏な卓越した知性をめざして、愚かさの方を問題にしない。むしろ文学の方が愚かしさということ自体を問題にしてきた。人間という標準の外にこぼれる事態として、愚かしさということと向き合って、愚かしさについて思考する、愚かしさを一つの基準とする立場、愚かしさに照準をあわせるような哲学というのがあり得るか、これがドゥルーズの設けた問題だったし、フーコーもこれを共有していたと思います。これはドゥルーズがとりあげてからよく知られるようになったのですが、フーコーに「破廉恥な人々の生」というテクストがあって、絶対王政の時代に何が犯罪とみなされ、どういうふうに告訴されたか、という一連の研究の序説として書かれたものです。もちろん狂気が持つ固有の理性という形で、フーコーは始めから愚かしさという問題と向き合っています。この二人は、本当に愚かしさの哲学といったようなものをやりとげたという点でこそ、ユニークで偉大なのかもしれない。文学の方は明らかに愚かしさがないと成り立たないわけですね。どんな人間もとことんまで賢くはあり得ないというところで話が成立する。
 ベケットは他に例のないまったくユニークな作家だと言えると同時に、僕にとってはやっぱり同時代で言えばセリーヌ、特に晩年のセリーヌに並ぶんです。『リゴドン』のような作品は、点々で区切った短いつぶやきのような文の連続で、内容は重いのに、言葉はどんどん軽くなって、実にデリケートに調律されています。スタイルの試みとしても特筆すべきもので、ベケットの方もやっぱり一人のスタイリストとしてすごいものがあると思うからね。無意味にする、言葉の贅肉を全部はぎとるといっても、そこには文体上のあらゆる問題、句読点の問題さえも残っています。ベケットは若いときベートーヴェンについて書きながら「裂開の句読点」などということを言っています。これはドゥルーズが『消尽したもの』に書いているわけですが、言葉に穴を開け、意味と訣別するなんてことは、言葉自体にはできない、音楽でしかできないと言っています。つまり意味が裂けてしまっても、なおかつ句読点がある。そんな次元で言葉のさまざまな変形や創造がありうることは、何人かの異様な作家たちが証明している通りです。そこにまだ一つのアートが成り立ちうる。その点でベケットは、卓越したアーティストでスタイリストだったと思うし、最小の要素で厳密な作品を仕上げるということをやり通した人です。セリーヌ晩年のトロワ・ポワン(三つの点)のエクリチュールとか、それから初期のジュネは幻想性の強い作品も書いているけれど、ジュネの晩年のエクリチュール(『恋する虜』)も含めて、僕なりに一つの系譜をつくっています。この人たちはみんな時間についての問いにそれぞれ答えを出しているし、限りなく残酷な重たい世界に直面しながら、限りなく軽やかな慎ましいエクリチュールをつくりだしたという点も似ています。この世界に対して一切希望を持たないというその徹底性という点でも、この三人は似ていると思うんです。幸か不幸か、こういう作家たちを読んでいると、それだけで何十年とかすぐにすぎてしまいます。しかしそれでもいいと思わせるんですからどうしようもない。<了>


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