◆◇◆蓄音器と猫の置物◆◇◆

「季刊 つくる陶磁郎」25号(2003年12月発行・双葉社刊)

「焼き物についてのエッセイをお願いしたいんですが」
「そんなの、全然僕はわからないですよ」
「いえ、みなさん最初はそうおっしゃるんですが、ふだん使っていらっしゃる食器も陶磁器ですし、ちょっと汚い話ですけど、トイレの便器だって陶器なんです。ですから、まわりを見ていただいたら、必ず焼き物との関わりが見つかるはずなので……」
「そう言われてもねえ……」
 と、返事に困りかけているあいだに、たちまち“猫の置物”が思い浮かんだ。なんだ、やっぱり関わってるじゃないか。
 自分で買い集めたわけでもないのに、私の家には猫の置物がたくさんある。木彫りもあるがほとんどは陶器か磁器だ。しかしあいにく私には陶器と磁器の区別もよくつかないが、とにかくいろんな人が旅行のお土産で買ってきてくれたりした猫の置物がいっぱいあって、それを並べておくためにわざわざアンティークの家具まで買ったのだった。
 いやあらためて見てみれば、自分でもけっこう買っている。生後二、三か月の子猫とちょうど同じくらいの大きさの猫の置物は、下北沢のアンティークショップの入口から道にいくつもポコンポコンと並べられていて、その可愛さにつられて店の中に入ってしまったのだけれど、そこはじつは蓄音器が主たる商品で、一台四百万もする蓄音器をかけてもらって、その音の良さに惚れ惚れして一時間以上聴かせてもらって、聴いただけでは申し訳ないので「ひとつください」と言って買ってきた置物だったのだが、作家物で、ひとつひとつ仕種も表情も違っている。
 家に帰って眺めていてもやっぱりすごく可愛いから、蓄音器を聴かせてもらいに行くたびにひとつずつ買おうかな、なんて考えていたら、あっという間に売れてしまった。イギリスからの輸入で、その後追加(新作?)がなかなか入ってこない理由が、為替のレートのせいだったか、作家の生産が追いつかないせいだったか、忘れてしまったが、とにかくその店の店主は客に蓄音器を聴かせるのが趣味で、何も買わなくてもいくらでも聴かせてくれて、コーヒーまで出してくれる。蓄音器じゃなくて陶磁器の話だった……。
 それで編集部から言われたとおり「まわりを見て」みたら、うちのティーカップは、ウェッジウッドとジノリだった。友達だったら、「保坂が、ウェッジウッド? ジノリ?」と言うかもしれないが、うちの近所には輸入食器をデパートの六割ぐらいの値段で売っている店が二軒もあったのだ。
 長引く不況のせいで(たぶん)二軒とも閉店してしまったが、片方の店にはマイセンの人形やキャンドル・スタンドも置いてあった。キャンドル・スタンドは天井から吊すのではなくて、テーブルとかに置いておくタイプだったと思うが、三百万円ぐらいするのがふたつ(たしか)置いてあって、妻は「猫さえいなければ、こういうの飾りたいよねえ」なんて、しみじみ眺めていたものだったが、我が家には猫がいるのが絶対の前提なんだから、マイセンのキャンドル・スタンドがうちに来ることはありえなかった、たとえそれを買うだけの財力があったとしても。
 私は骨董の趣味はないし、総じて物に対する偏愛はないから、食器なんかもなんでもかまわないと思っていたのだが、あんまり安っぽいカップでコーヒーが出てきたりすると、「なんだかなあ」と思うように最近はなってしまっている……。そういう細かいことが気になるのは一種の老化なのかもしれないが、黄昏れはじめた人間には少しいい物の方がなんだかしっくりくる気がする。ヨーロッパはそういう時間をもう二世紀ぐらい生きているんじゃないか。日本人はいつになっても黄昏れる方法を見つけられないで百円ショップなんで成長神話にすがっているけれど、考えを変えて黄昏を楽しんだ方がいいんじゃないか。文化はそこにしかないんだから。

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