◆◇◆時への視線(3)◆◇◆
回想のなかに生きる人

「風の旅人」第12号(2005年2月発行)     
http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/index.html



 私は〈観光地・鎌倉〉で育ったので、子どもの頃、遊んでいるところを観光客からいっぱい写真に撮られている。
 特に多かったのは、長谷観音の正面の山門を入ってすぐ左の空き地で遊んでいたところだ。今ではその〈空き地〉も長谷観音の境内の一部として立派にそれらしくなっているけれど、一九六〇年代半ばの、日本中がまだあんまり商売っ気がなかった時代には、子どもたちが集まって遊ぶためのスペースとしてお寺が開放してくれていた、というか放置していた。
 そこで、暖かい時期は「ポコペン」という、「缶蹴り」を変形させた隠れん坊をしたり、泥棒と警官を意味する「ドロケン」という、グループに分かれてやる鬼ごっこをして、観光客を掻き分けたりぶつかったりしながら、境内のそこらじゅうを走り回り、寒い時期にはコマを回して遊んでいた。
 どうしてそういう季節による区別が生まれたのか知らないが、子どもたちのあいだでは伝統的(?)にそうなっていた。晩秋から春先にやることになっていたコマ回しは、大山ゴマという直径一〇センチから二五センチぐらいの大きさの木のコマをぶつけ合って、誰が最後まで回っているかを競う遊びで、体力や手のサイズに合わせて選んだ木のコマを目一杯振りかぶって、相手のコマに叩きつけていると、冬でもすぐに体が暖まった。一勝負が終わると、コマが止まった順番を確認しながら、麻縄をコマに、きつくきつく巻きつけていく。だいたい一メートル五〇センチくらいの長さがあったから巻くだけでも時間がかかって、案外、一勝負一勝負が長く、進行が遅い。
 自然に止まったコマより、ぶつけられて吹っ飛ばされたコマの方が先に回さなければならないとか、最後に回せる「天下」から落ちたら一気に一番最初に格下げになるとか、確かルールはいろいろ複雑だったが、ルールはともかくとして、それだけの大きさのコマを振りかぶって投げつけるのだから、けっこう危なくて、二十メートル四方くらいのスペースを子どもが取り囲むように点在して立っているところが、いま思うとダイナミックで、それやこれやが珍しいから観光客は写真に撮りたがる。コマが回っているところだけでなく、たいてい、コマを投げつける瞬間も撮りたいと言ってくるから、こっちも馴れたもので、観光客が山門を抜けて入ってくると、コマをいつでも回せるように縄を巻いて準備したりしていた。
 六〇年代半ばといったら、長谷観音にやってくるのは大型の観光バスに乗った団体客が多く、日本からだけでなく、外人もかなりいた。「外人」といったらアメリカ人しか意味しなかった時代だったが、一ドル三六〇円の固定相場の時代に、日本に来ていた外人といったらやっぱり本当にアメリカ人しかいなかったのではないだろうか。そのアメリカ人たちに子どもだった私はたくさん写真を撮られた。
 だからもし、私が村上春樹のようにアメリカでたくさんの読者を持つことができたら、その読者は、お父さん・お母さんかお祖父さん・お祖母さんの昔のアルバムの中に、自分の好きな作家が子ども時代に溌剌と遊んでいる勇姿を発見する可能性がある! というわけだが、あいにく私の小説はまだ英訳されていない。

 英訳の話は今は置いておくことにして、あの頃のことを思い出していると、たいてい一緒になって出てくる話がもうひとつある。
 長谷観音でなく、そこから歩いて五分ほどのところにある、だいぶマイナーな甘縄神社という神社でのことだ。子ども時代の遊びは、コマ回しを思い出したらコマ回しばっかり、ポコペンを思い出したらポコペンばっかりやっていたような気についなってしまうのだが、小学校は六年間で、春夏秋冬があるのだから、いろいろなことをいろいろな場所でやっていた。メンコもやったし、ゴムまりでやるハンドテニスもやったし(鎌倉では「ピンポン」と言っていたが)、無茶ぶつけもやったし、野球もやった。
 ただ、野球といっても、軟球とグローブを使うちゃんとした野球はせいぜい月に二度くらいで、他の日は四、五人で集まって、ゴムまりをちょっと小さめのバットで打つ程度の「野球もどき」で遊んでいて、それをやる場所が甘縄神社だった。
 そこにある日、外人の青年が二人でやってきた。二〇代前半だったろうか。子どもの印象だからアテにならないが、それでもやっぱり二〇代後半ということはない。そんな年齢だったら子どもには「おじさん」に見えただろう。二人はどこらか見ても「お兄さん」だった。
 それはともかく、私たちが「あ、けっこう若い外人だ」ぐらいに思って、野球をつづけていると、近づいてきたその二人組が、身振りで、自分たちにも打たせてくれと言ってきた。
 外人に馴れている私たちは当然「オッケー」とか何とか言って、小さなバットを差し出し、背が低くて二人のあいだでは弟格になるらしい方が、背が高くて兄貴格らしい方に(といっても、二人ともすごく背が高かったのだが)目で確認をとって、先にバットを受け取った。日本の子どもだって、ちゃんとした野球をやるときにはこんなバットは使わないと言いたかったけど、もちろん英語なんかしゃべれない。しかし、二人からは小さなバットを小馬鹿にしている気配は微塵も感じられず、思いがけないところでバットを振れる喜びが表情にあらわれていて、私たちも小さなバットの恥ずかしさなんかすぐに忘れて、生まれてはじめて本場のアメリカ人と野球ができることにウキウキした。
 ピッチャーに立てたのは一番いい球を投げるタッちゃんで、タッちゃんがちょっと気負いつつも半分は儀礼的に真ん中に投げると、一球目を弟格の彼はものの見事にとらえ、打球は(といってもゴムまりだけど)隣接する公会堂の二階建ての屋根で大きく弾んで、木が生い茂る山に飛び込んでいった。
 硬式の野球に換算したら、飛距離一六〇メートルといっても過言ではない。あんなに飛ばしたのはかつて誰もいなかった。というか、そんな距離、考えたこともなかった。
「スッゲーッ!」
 私たちは小学四年生にして、メジャーと日本野球の力の差を目のあたりにして、炸裂した外人パワーに感動したのだが、いつまでも感動に浸っているわけにはいかない。だって、ゴムまりを見つけてこなければ、続きができないのだから。
 身が軽いタッちゃんと私が山の斜面を登ってゆき、鈍いイズミとミッチーは公会堂の裏に回ってみたりしはじめたのだけれど、山の斜面は、「こんなところに飛び込んだら絶対に見つけられっこない」という場所で、すぐに諦めて降りてくると、外人の二人組は、小さなバットを手に持ったまま、ピッチャー・マウンドのあたりに立って、子どもたちの様子を気にしていた。
 ピッチャーをしたタッちゃんが先頭に立って、四人で外人を見上げながら、
「ノー、ノー」
「ダメ、ダメ」
 と、手を振ったり、首を横に振ったりして見せると、背の高い兄貴格の外人が、ポケットからじゃらじゃらと小銭を出して、タッちゃんに渡した。
「これじゃあ、多すぎるよ」
 私たちはゴムまり一つ買うのに必要な小銭だけ取って、残りを返そうとした。しかし、彼は手のひらをこっちに向けて“Stop”とか“No”とかの仕種をして受け取ろうとせず、指を二本立てて、
“Two Balls.”
 と言う。
「ツー・ボール? ノー、ノー、スリー・ボール」
 私たちは指を三本立てて見せた。
“Ok.Then three balls.”
 彼も指を三本立てて見せて、小銭を載せて困っているタッちゃんの手のひらを上から自分の手で包んで、閉じさせた。
「サンキュー」
“Thank you.Bye!”
 彼ら二人は手を振って、本宮に通じる石段を目指して歩いていき、私たちも「バイ、バイ!」と言って、ゴムまりを買いに行った。

 あの二人はカメラを持っていなかった。だから私たちは写真には撮られなかったけれど、アメリカの何かのメディアで、「一九六六年に日本の鎌倉で、子どもとこんなことをしたのを憶えている人」と呼びかけたら、応えてくれるアメリカ人が二人いるということになる。当時一〇歳だった子どもが四八歳になっているのだから、青年だった二人は六〇歳ぐらいだろうか……。
 私たちと二人のあいだに起こったやりとりはたったそれだけなのに、〈忘れられない人〉になっている。いや、たったそれだけのやりとりしかなかったからこそ、セピア色の回想の中の人物として〈忘れられない人〉という,無害な存在になっているわけなのたが……、などと考えていたら、彼ら二人が横須賀に入港していた兵隊だったことに、先日突然気がついた。
 いままで何度も思い出しているのに、彼らが横須賀に入港していたことに一度も思い当たらなかったのだから、私は確かに「平和ボケ」だ。二〇代前半という若さで、鎌倉のマイナーな神社にカメラも持たずにふらりと立ち寄るアメリカ人なんて、兵隊ぐらいしか考えられないではないか。彼らは横須賀に入港して、休日の過ごし方を持て余して、ガイドブックも持たずに人から言われるままKAMAKURAに来てみたのだ。
 一九六六年。彼らはその後、横須賀を出てベトナムに行ったのではなかったか。無事に生きて帰ったのなら彼らは六〇歳ということだけれど、その確率がいきなり低くなった……。
 私の中で、彼ら二人の意味がずいぶん変わった。
 それは確かなのだが、それでもやっぱり一連のあの光景は、回想の中で、無害なままおとなしく生きつづけている。なぜなら私は、彼ら二人を思い出すときに、タッちゃん、イズミ、ミッチーのその後の人生を重ね合わせることを、決してしないようにしているからだ。タッちゃん、イズミ、ミッチーの三人もまた、その後の人生が、あの日を回想して懐かしんでいればそれで済む程度に、穏やかで幸福であったかのように、私はあの光景の中に、三人を都合よく住まわせてしまっている……。

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