◆◇◆時への視線(4)◆◇◆
“想像力の危機”
「風の旅人」13号 2005年4月発行
http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/index.html



 先日の新聞に、このまま温暖化が進むと百年後の西日本は夏に雨の日が多くなって、八月の降水量が現在の一・六倍になる、という記事が載っていた。
 読んで最初の感想は「百年後か。それなら逃げ切れた」だった。私は子どもがいないけれど、姪と甥ならいる。しかし百年後だったら姪と甥ももう生きていないし、そのまた子どもたちだって七十歳以上になっているだろう。ついでに言うと、その記事によれば北海道から関東までの降水量はほぼ現在と変わらない。
 「まずはひと安心」と思いかけたところで、チェーホフの芝居『ワーニャ伯父さん』の台詞を思い出した。
「百年、二百年あとから、この世に生まれてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか。」
 これは医者のアーストロフの台詞だ。彼は近隣の貧しい村に治療に出掛けたりするかたわら、森に木を植えている。十九世紀後半のロシアの森林はつぎにつぎに伐採されていた。だからアーストロフは言う。
「ストーブなら泥炭を焚けばいいし、小屋なら石で造ればいいじゃないか。もっとも、必要とあらば、木を伐り出すのに反対はしないが、わざわざ森を根絶やしにする必要が、どこにある? 今やロシアの森は、斧の下でめりめり音を立てているよ。何十億という木が滅びつつあるし、鳥やけものの棲家は荒らされるし、河はしだいに浅くなって涸れてゆくし、すばらしい景色も、消えてまた返らずさ。」
 現代の環境破壊そのままだが、チェーホフの先見性のことは今は置いておくとして、新聞記事に戻ると、この記事の書き方はよくない。
 「百年後に一・六倍」と言われると、「百年後にならなれければ何もないんだな」とつい思ってしまわないだろうか。そんなことはないわけで、百年後がそうなら、その手前の九十年後だって五十年後だって、三十年後だって変化は起こっている。この記事が途中の変化に読者の注意を向けさせないように感じられるのは私だけなだろうか。
 「一・六倍」というのも曖昧でよくない。「一・六倍」というのが大きいのか、それほどでもないのか? しかし、この答えは私の中でははっきりしていて、「一・六倍というのはもの凄く大きい」。たとえば日本人男性の平均身長を一七〇センチとしたときに、一・六倍というのは二七二センチ! になる。身長一九〇センチの人を見ると「大きいなあ」と感心するが、一九〇センチは一七〇センチの一・一二倍でしかない。人間の感覚というのは差異に対してすごく敏感で、一〇パーセントの違いは歴然とした違いに感じる。長さだけでなく、広さも重さも速度も一〇パーセント違ったら「かなり違う」と感じるようにできている。
 百年後に降水量が一・六倍になるのだったら、三十年後にはすでに一・一倍から一・二倍にはなっているわけで、私たちはその変化をはっきりと体感することになる。だから、私たちは「死んでしまうから百年後の変化と無縁でいられる」などと考える場合ではない。だいたい三十年後なんかでなくても、異常気象はすでに始まっている。
 ……と、こういう風に「百年後に一・六倍」という記事を、自分の身に引き寄せてリアリティを作り出す方法はいくらでもあるけれど、チェーホフが医者のアーストロフに言わせたことはそういうことではない。やっぱり「百年」「二百年」という時間が大事なのだ。
 アーストロフは「百年後、二百年後の人たちが、百年前、二百年前に生きた私たちのことを想像してくれるだろうか。」と半ば絶望しつつ考えているわけだけれど、『ワーニャ伯父さん』の初演が一八九九年で、それから百年以上経った今でもチェーホフの芝居はバリバリの現役で上演されつづけている。ついでに言うと夏目漱石の『吾輩は猫である』が出版されたのが一九〇五年だから、今年はちょうど百年目にあたる。私たちは百年前と案外地続きの世界を生きている。
 しかしチェーホフが言っている「百年」を、そういう地続きの百年に還元してしまうのは、チェーホフの意図を曲げることにしかならない。
 「その時代の人がどんな家に住み、どんな服を着て、どんな物を食べているのか、そういうことが全然想像できないくらい遠く隔たった時代」というつもりで、「百年」「二百年」という言葉が使われているのだ。それはまさに、あの記事を読んで「百年後か。それなら逃げ切れた」と最初に私が感じた、その遠さに対応している。
 自分と無縁の時代や自分と無縁の土地に対して、私たちがどれだけ想像力を持つことができて、どれだけ責任を感じることができるのか? 「想像力を働かせろ」それがチェーホフが言いたかった「百年」の意味だ。
 私たちは百年前の映像をたくさん見ることができる。映像がなくても時代考証が精緻になって、それとCGを組み合わせることで千年前の町並みさえも見ることができる。同じように百年後の町並みや暮らしぶりもCG映像で見ることができる(千年後となるとわからないだろうけど)。だからチェーホフが生きた十九世紀後半よりも、私たちは遠く隔たった時代や土地を近くに引き寄せることができる。科学によってもたらされた技術が私たちの想像力の不足を補ってくれるというわけだ。
 しかしそういう「科学の時代」にあって、「想像力を働かせろ」というチェーホフの言葉は力を失うのではなく、さらに力強く「映像を超えた絶対的な想像力を持て」と言っているように私には感じられる。

 話はとんでもなくズレるように見えるかもしれないが、一部の職場の中で異常な管理体制が始まっているらしい。勤務時間中ずうっと一人の社員の仕事ぶりを撮影して、その人が、パソコンに何時間何分向かい、紙の資料に何時間何分費やし、他の社員との会話を何分して……というのを逐一分析して、「あなたは紙の資料の処理に時間を使い過ぎだ」とか「雑談が多過ぎる」とか指摘する。さらにパソコンはすべてがLANでつながっているから、どの画面を何分間見ていたかということまでわかり、「あそこでの時間の使い方は無駄だ」という指摘もなされる。

 想像力のない人の考えることは途方もなく馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しさが底知れなく怖い。
 想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。いや冗談や言葉遊びを言っているわけではなくて、2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世界に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。
 しかしそこに、相手への敬意をいっさい持たなくて想像力がない人が現われたらどうなるか。物思いに耽っているZ氏の傍らで、Z氏の想像力に対する敬意を持っているA氏に向かって、敬意を持たないB氏は言う。
B「あなたはZさんに自分以上の想像力があると言うけれど、いまZさんが何を想像しているか、具体的に説明してくれよ。」
A「……(返答に窮する)……。」
B「な、彼が何かを想像しているなんて、Aさん、あなたの錯覚なんだよ。彼にあなた以上の想像力があるんだったら、それはあなたにも僕にもわからなければおかしいじゃないか。」
A「でも、アインシュタインだって、きっと考えごとをしているときにはあんな風だったんじゃないか……、と思いますけど……。」
B「アインシュタインは、ちゃんと具体的に相対性理論を考えたじゃないか。」
A「はあ……、でも、Zさんだって、いままでに“×××プログラム”とか“△△△シート”とか開発しましたけど……。」
B「ほら、具体的に言えたじゃないか。頭の中で想像していることだって具体的に言えるに決まってるんだよ。」
A「はあ、でも、それは形になった状態のことで……、今はまだ……。」
B「つまり何も想像していないってことだ。」
A「でも、新しいアイデアの何割かは……。」
B「じゃあ、Zさんの考えがどこまで進んでるのか、具体的なところを彼に訊いてみよう。」
 Z氏が何と答えたかは読者の想像にお任せします。
 異常な勤務管理をはじめた会社は、想像力や創造性を必要としない業種なのかもしれない。しかし過度の数値化によって個人の内面の休閑地を根こそぎにする思考法は、他者に対する敬意の全体を殺すことになる。
 文化とか教養というのははっきりした形のないもので脆い。こんな勤務管理によって業績が上がったりしたら、後追いをする会社が次々に出てきかねない。こういう一面的な論理の前では文化とか教養はどうしようもない。
 しかし、確かに文化とか教養は一面では形がなくて脆いのだが、それらは本当は実体があり、表面的に考えるほど脆くもない。数字によってしか価値や効果を測定できない思考法に向かってそのことを証明するのは難しいけれど、その強さは例えば社会が危機に陥ったときに証明される。文化や教養がしっかりと定着している社会は復元力があるけれど、それをないがしろにしてきた社会はぼろぼろと崩れていく。
 ないがしろにしてきた社会では、まず回復するための選択肢が出てこない。それから、個人が守られているという意識がないから、一人一人が疲弊していて回復させるためのエネルギーが湧いてこない。そういう復元力こそを実体と呼ばずに何と呼ぶのか。数字は現象のごく一部を撫でているにすぎない。
 なんだか結局、二つバラバラの話が書かれているようにしか見えないかもしれないが、チェーホフが「百年」という言葉で言いたかったことは、何よりも、想像することに対する絶対的な敬意だったのではないかと思うのだ。「百年前」も「百年後」も技術の力によって映像化されてしまう時代の中で、想像することの必要性が薄れ、想像するということが危機に曝されている。しかし、想像力がなければ世界に対する信頼は生まれてこないのだ。

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