◆◇◆時への視線(6)〈死〉を語るということ◆◇◆
「風の旅人」15号 2005年8月発行
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 私は小説家だけれど、物語を作るのは得意じゃないし好きでもない。物語を作る人は小説家ではなくて「物語作家」だ。で は、言葉を操るのが得意か? というとそれも得意ではない。何故なら、小説家というのは言葉を操る人ではなくて、言葉に対して疑問を持つことのできる人、 言葉に対して違和感を感じることのできる人のことだからだ。
 小説家というのは小説を使って思考する人のことで、論文みたいな形式だけが思考なわけではない。数学者は数式を使って思考し、サル学の研究者はサルを観 察している時間が「思考している時間」ということになる。みんなたぶん、観察している時間は「ただの観察」で、そのあとで考えをまとめているときが「思考 している時間」だと思っているんじゃないかと思うけれど、そういう作業は思考の抜け殻であって、観察している時間それ自体の中に最もいきいきした思考が息 づいている。
 だからたとえば小説で、部屋の中が描写されていたり、街の風景が描写されていたりしたら、それが小説の思考であって、小説の中でことさら思弁的なことが 語られたりしている部分だけが思考なのではない。というか、小説にとって思弁的なものは具体的な描写や出来事や行動に付随した二義的なものでしかない。そ れは野球選手にとっての思考がグラウンドの上で展開されているのと同じことで、長嶋茂雄は「ビュン!と来たら、バシン!と打って」ぐらいのことしか言わな いけれど、バットが球をとらえる瞬間を素人にもわかるように論理的に言えたからといって、いいバッターになれるわけではない。プロ同士の戦いは言語化でき ない全身の感覚でなされているのだから。
 思考というものは、ただ言葉を論理的に使うことだけではない。その人が経験によって獲得してきた体と言葉の両方を使って、世界の姿を考えたり再現した り、世界と自分との関係のあり方を考えたりそれを実践したり、自分が関わる物が世界のどこに位置すればいいのかを考えてそれを実践したり……などなどが 「思考する」ということだ。
 抽象絵画の場合が一番わかりやすいかもしれない。その絵に「戦争反対」とか「故郷への郷愁」とかのメッセージがこめられているかどうかで「思考」のあ る・なしが決まるわけではない。抽象絵画というのは、いわゆる「わけのわからない」「何を描いているのかわらない」模様みたいな絵のことだが、そういう絵 を描きながら、画家は「手がどういう動きをするのか」「絵筆がキャンバスとどういう触れ方をするのか」「絵の具がキャンバスにどういう乗り方をするの か」……という、まず「描く」という動作そのものが思考されて、それから次に、だんだんと、「色と色との関係」「色と形の関係」「形と形の関係」「それら とキャンバスのサイズとの関係」「それらのキャンバスの中での配置」……という「絵としての視覚(見え方)」が思考されてゆくことになる。その全体が絵を 描くという行為にとっての「思考」ということで、その絵にメッセージがこめられているかどうかは全然関係ない。メッセージなんていうのは“言葉”であっ て、“絵”による思考ではない。

 私のこの考え方は、ふつうに了解されている「思考」ということとだいぶ違っているけれど、「思考」をこういう全体の連関の中に位置づけるようにしない と、思考が現実から乖離して、「思考する人」と「思考なくてもいい人」――あるいは、「思考する場面」と「思考しなくていい場面」――の二極分化が起こり かねない。「思考」はあらゆる場面のあらゆる行為において必要不可欠であって、言葉を使って考えることだけが「思考」なのではない。だから建築でいえば、 設計士だけが思考しているわけではなくて、職人全員がそれぞれの関わりにおいて思考している。人間が動いて何かと関わりを持っているとき、そこには必ず 「思考」がある。
 これは「記憶」の広がりと同じことだ。記憶にはまず、「本というのは××である」「コップというのは××である」という辞書的な記憶がある。次に、「昨 日、山本さんと食事をした」「小学校二年のときの運動会でリレーの選手になって三人抜きをした」というエピソードの記憶がある。これら二つは“宣言的記 憶”といって、言葉によって保存されている記憶だけれど、もうひとつ、「自転車の乗り方」とか「ネクタイの結び方」というような体が憶えている記憶があっ て、これを“非宣言的記憶”という。
 たとえばパソコン(ワープロ)で文章を書くとき、小学校以来憶えてきた漢字の記憶(宣言的記憶)を使っているだけではなく、キーボードをある程度ブライ ンドタッチで打てるという非宣言的記憶も使っていて、それがなかったらいつまでたってもはじめてパソコンのキーを打ったときのように時間がかかってしょう がない。パソコンの脇にカップに入れたコーヒーを置いておくのが習慣の人なら、そのコーヒーの置き場所もまた体の記憶によって決められていて、つまり私た ちは特定の行為のときだけでなく生活のすべての場面において記憶がなければ何もできない。
 もう一度、小説の話に戻ると、小説というのは言葉を、論理的な意味として使ったり、メッセージを伝えるために使ったりするものではない。そうではなく て、小説では言葉を絵のように使ったり、音のように使ったりする。歩くように使ったりもする。つまり、風景が書かれているときには読んでいる人の目(視覚 の記憶)が働き、音が書かれているときには耳(聴覚の記憶)が働き、歩いたり走ったりしているところが書かれているときには体が動いているような気がしな ければ小説ではない――ということだ。

 私の“思考観”がだいぶ偏向しているように、私のこの“小説観”もきついことを要求している。私は、思考とか小説とかいったものが、ただ「言葉の営み」 という狭いものになってしまうことに異を唱えつづけているのだ。そうしないと、言葉がただの記号になってしまう。
 「言葉が記号になる」ということは、身体との連絡を失うということだ。人間は自分が持っているこの身体によって世界と関係を持つ(逆にいえば、この身体 がなければ世界と関係を持てない)。言葉が記号になって身体との連絡を失うということは、言葉が世界と関係できなくなるということで、そんな言葉を使って いる人間が世界と関係が持てなくなるのは、三段論法を使うまでもなく明らかだ。
 しかし事態はそういう方向に進んでいる。特にパソコンの浸透によって、その速度は激しく加速している。一九九〇年代前半、まだパソコンが普及する以前に パソコンがどういうものと想像されていたか、記憶している人がどれだけいるかわからないが、みんな漠然と、すべてが映像化されて、すべてがアイコンをク リックして進んでいくようなものを想像していなかっただろうか? まさかこんなにみんなが、ブログで文章を書くような浸透の仕方を想像できた人はほとんど いなかったのではないか。パソコンはビジュアルの世界を変えたのではなくて、“文字”の世界を変えたのだ。みんながそれ以前よりずっと文字を書くようにな り、十代・二十代前半の小説家がどどっと生まれてきた。
 彼ら・彼女らは、世界の中で経験するより前に小説を書き始める。パソコンというのがもともとそういうもので、世界と直接に経験する時間を人間から奪って パソコンの前に座らせつづける。しかし、機械やシステムが作られたからといって、それを受け入れる土壌がないところで普及するわけがない。パソコンが普及 する前にすでに人間はじゅうぶんに記号化されてしまった言葉を使って、身体との連絡も、世界との関係も稀薄になっていた、――つまり機はじゅうぶんに熟し ていたのだ。
 そういう時代にあって、私の“思考観”“小説観”がたくさんの人に支持されるとはとても思えないけれど、私は頑固にこれを主張しつづける。この“思考 観”“小説観”によるものだけが、本来的な思考であり、小説なのだ。

 じつはここまでが今回の前置きというか地ならしだ。地ならしというには余計なことをいろいろ書いてしまったけれど、とにかく、多数の人が了解しているの と違う立場で何かを言うためには地ならしがなければ話が通じない。
 私たちは〈死〉という言葉を記号としてしか使えていない。
 「私は死を怖れない」「死は万人にやってくる」「死に直面したことのない人にはわからない」……等々、私たちは〈死〉をまるで手元にあるコップや本のよ うに、よく知っている言葉みたいに使っているけれど、〈死〉はそんなに簡単に扱えるようにものでは全然ない。
 人間でも動物でも、それが死んでゆく過程を見たことのある人ならわかっているはずだが、ものすごい苦痛が少しずつだが確実に生きている人や動物の体を浸 食してゆく。人間ならまだしも「これが死ぬということだ」という認識があるから、その認識によって事態が客観化されて、ほんの少しの救いがあるように私に は見えるけれど、犬や猫はただひたすらその苦痛に浸食されてゆく。逃げようのない苦痛が自分自身の中から自分に掴みかかる。
 もし子どもを亡くした人がいたら、そのときの情景を思い出すだけで痛みで胸が裂けるようになるだろう。私の場合は猫だったけれど、比喩でなくこの肉体の ここにある胸の肉と皮膚が裂けなければ泣き声が出ないんじゃないかと思った。映画の『エイリアン』で、エイリアンの子ども(幼虫?)が人間の胸を突き破っ て出てくるシーンがあったが、あんな感じなのだ。悲しみを説明するのに全然ふさわしくない譬えなのはわかっているが、他の生易しい映像ではこの感じは伝わ らない。泣き声と悲しみが完全に物体と化して胸の中にあって、肉が裂けないと出てこないと感じられるのだ。
 そんな大きな悲しみをこちらにもたらし、死んでゆく本人を苦痛で浸食していくようなものが、ただ〈死〉という言葉で片付けられるような記号であるはずが ない。というか、それを記号にしては絶対にいけない。
 たとえば、私たちは「昼に食べた焼き肉の筋が歯のあいだに挟まってて気持ち悪い」なんてことを言う。「魚の骨が咽の奥にひっかかってて気になってしょう がない」なんてことも言う。二つとも誰にでも経験があるはずの身体の違和感だが、どういうわけか人間が何千年も生きているのにいまだに名前がついていなく て、これ以上に簡単な言い方を誰も知らない。しかしそれゆえに、この二つの言い方には聞き手が共有できるリアルな感触がある。
 それに対して〈死〉はどうか。〈死〉は、肉の筋が歯のあいだに挟まっている状態や魚の骨が咽の奥にひっかかっている状態より、ずっとずっと激しくて複雑 なはずなのに、あまりにも短い〈死〉という言葉しかない。「ずっとずっと激しくて複雑」だから死は〈死〉という一語になった? その理屈はもっともらしい が、結局、言葉の記号性を守ることにしかならない。
 死につつある人が〈死〉に浸食されていく状態にあっては、口の中のすべての歯と歯のあいだには肉の筋が挟まっているような気持ち悪さになるだろう。これ だけでもじゅうぶんに嫌だが、死ぬ前はたぶんそんなものでは済まない。疲労が限界に達すると、歯が歯茎から浮き上がったみたいになって物が噛めないほど痛 く、ただじっとしていても歯の根がギシギシ痛むような状態になるのだから、死ぬ前にはそれぐらいの状態は覚悟しなければならないだろう(……今回、私はど うも変な譬えばかりしてしまう)。
 しかしそれはただ口の中のことで、それ以上の苦痛が全身で起こり、そのうちに口の中の痛みなんかはたいしたことではなくなるだろう。ものすごく疲れて布 団に横になったときに、体がだるくてだるくて仕方なくて、なんとかだるさから解放されようと、右に左に体を捩じってみたりしてもどうしようもないことがあ るが、死ぬ前には体がもっとずっと極限のだるさになっているだろう。しかももう体を捩じることはかなわない……。だるくてどうしようもないのに体を動かせ ない苦しさとはどういうものか……。
 いや、これらはまだすべて〈死〉ではなくて、死につつある状態つまり生きている状態なのだが、こういうことを通らないと生き物は死なないのだから――だ から「死を怖れない」という言葉のなんと不遜で空虚なことか!――、これは〈死〉の一部、〈死〉の入り口、とも言えるわけで、入り口だけでもまだまだ書か なければならないことがいっぱいある。

 キリスト教において、神は〈永遠〉である。〈永遠〉もまた〈死〉と同じように、生きている人間が実際に体験することができず、想像(思考)を積み上げて いって、それでもなお、その片鱗をかすかでも感じることができたら凄いことだと思えるような概念だ。だからふだん人間は〈永遠〉という言葉をただの記号と してしか使うことができない。キリスト教の歴史に燦然と輝く神学者のアウグスティヌスもトマス・アクィナスも、本の中で〈永遠〉について、それがどういう ものであるか、わずかでも言葉の記号性から逃れるために延々と書く。
 〈死〉とか〈永遠〉とか、あるいは〈無限〉とか〈無〉とか、それらの言葉を知っているかのように使ってしまったら、私が最初に書いた意味での「思考」を 放棄したことになる。
 「語りえないものについては沈黙せよ。」と言ったのはヴィトゲンシュタインだが、語りえないものこそ語りたくなるのが人間なのだし、語れるものしか語ら なかったら言葉はどんどん空疎になって、スケジュール表や目録に書く言葉のようになってしまうだろう。だから私たちは〈死〉を、いくら言葉を費やしても語 りえないものとして語らなければならない。つねに、まったく知らないもの・理解の届かないものとして語らなければならない。
 しかし、「まったく知らないもの」「理解の届かないもの」とは、じつは私たちの身体それ自身のことなのではないか。言葉は〈死〉を語る(思考する)こと ができないだけではなくて、生きている状態も私たち自身の身体も語る(思考する)ことができない。なぜなら、そのどれもが言葉の記号性におさまるようなも のではないのだから。
 しかし、身体それ自身は思考している。思考を「言葉による思考」と限定して考えなければ、身体それ自身はあらゆる場面のあらゆる行為において思考してい る。こんなことを言葉だけを連ねて書いていると紛らわしくなってしょうがないけれど、現実の場面でそのように考え方を変えてみれば、身体それ自身が思考し ているということを実感するのは難しいことではない。
 身体それ自身が思考する――そういう時間を積み重ねることによって、〈死〉は生きているこの時間と案外ふつうにつながっていると感じられるのではない か……。

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