◆◇◆隣の本が気になって◆◇◆

「古本共和国 第20号」(第20回 早稲田青空古本祭記念目録)
   青空古本祭は、2005年10月1日〜6日


 はじめて早稲田の古本屋街を一所懸命になって歩いたのは大学一年生の秋だった。まわりでけっこうみんなが「吉本隆明」「吉本隆明」と言っていたので、 「自分も読まなくちゃ……」と思ったのだが、当時(一九七五年)、吉本隆明は勁草書房などのハードカバーしか出ていなくて高かったから、古本屋を回って十 円でも安い本を買おうと思ったのだけれど、古本屋で見てみると吉本隆明があるわ、あるわ……、どの店にも五冊から十冊ぐらいずつあって、一軒ずつ隈なく 回っていたら、あっという間に時間が経っていて……。
 「だいたいどこも似たような値段なのに、三時間も四時間もまわってバカみたいだなあ」と思ったけれど、その三時間・四時間を古本屋まわりに使っていなけ れば、何か他の生産的なことをしていたか? と言ったらそんなことは全然ないわけで、結局その日を境に、私は急いでいないときには高田馬場と大学のあいだ を歩くときに何軒も古本屋を覗いてまわるようになっていた。
 古本屋というのは一種の教育機関だ。普通の新刊書の店にもその機能はかつてあったけれど、いまでは絶版本が多すぎるし、文庫は一律にあいうえお順なので (かつて文庫はあいうえお順ではなかったのだ!)、作家同士の近接関係がわからない。埴谷雄高の隣に大岡昇平や中村真一郎があるのは彼らが「第一次戦後 派」だからで、後藤明生と古井由吉が隣同士なのは「内向の世代」だからだ。古本屋ではほぼ必ずそういう配列になっているから、棚をただ眺めているだけで文 学史が染みついていた。
 あるいは、本というのは〈物〉でもあって、『アンリ・ミショー全集』とか『ネルヴァル全集』みたいに気合いが入った造本がされているのを見ると、その作 家がいまは忘れられつつあるとしても、重要か特異な位置づけにあることが目からわかる。
 私も最近では怠けてインターネットで古本を検索してしまうことがほとんどだけれど、ネット検索では現物が見られないし、隣に並んでいる本がついでに目に 入ってくるわけでもないからつまらない。古本屋まわりの時間は、効率最優先の人から見たら時間の浪費でしかないだろうが、古本屋の棚を見て歩いたあの時間 が、確実にいまの自分の何分の一かをつくったのだと思う。

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