◆◇◆都市の視線(5)◆◇◆

「風の旅人」第7号(2004年4月発行)

 春といえば桜だ。私は年々、桜が好きになって、桜が咲くのが待ち遠しくなっているのだが、桜を見て自然を感じた記憶がない。
 私が見る桜は、たぶん彼岸桜か八重桜か染井吉野で、みんなが花見にドドッと繰り出すときの桜はもちろん染井吉野だが、染井吉野は江戸時代に人の手によって品種改良された桜だったはずで、しかも上野の山でも千鳥ガ淵でも染井吉野は並木になっていて、並木になっているということはそれが人によって計画的に植えられたものであることを示している。
 田舎にも桜はいっぱいあるだろうが、並木になっていればそれはすべて人工的に造られた景観ということで、満開のときには地元の人たちだけでなく遠方の人たちも見にやってくるだろうから、その時その場所は小規模とはいえ都市になっているのだと思う。
 しかし私が桜−−なかでも染井吉野−−を見て自然を感じないのは、そういう外的な理由によるのでは、たぶんない。染井吉野の花そのものが、作り物めいた美しさをしているからなのではないか。空からの光に薄い花びらが透ける……。五枚の花びらでひとつの単位になった花のまとまりが、精巧な細工による毬のように見える……。
 桜の枝はほうっておくとゆったりとお辞儀をするように下に向かって曲がってゆくらしいのだが、人の息がかかるとそれが止められ、人の息のかかるかかからないかの高さにとどまり、その曲がり具合もまた作り物めいている。満開の桜に春の強い風が吹き、花びらが舞いしきっている中を運よく歩いたりすると、ほとんど陶然としてしまって、こんなことは現実ではなくて、映画の一シーンに紛れ込んでしまったのではないかという思いにとらわれる。
 忘れられないのは、満開のときに前夜から朝まで雨が降ったことがあって、午後に桜を見に行ったときのことだ。水を含んだ花びらが、ひらひら……といういつもの散り方よりずっと速い直線的な落ち方で、しかし石粒が落ちるような速さでもなく、一枚一枚の落下の過程がちゃんと目に見える速さで、あっちで一枚、こっちで一枚、ぽとり、ぽとり、ぽとり、ぽとり、ぽとり、ぽとり、ぽとり、ぽとり……と、落ちていて、そのとき時間そのものを目撃しているような錯覚にとらわれたものだった。
 そのようにいくつもの様相を人間に向かって見せるものは、まさしく自然しかなくて、人間の仕業によるものがそれほど多様な姿をあらわすことはありにえない。たとえば最近年末になるとあちこちで飾られる、ヨーロッパ風(?)にデザインしたアーチに電球をいっぱい取り付けたデコレーションがある。私の知るかぎり、二〇〇〇年に東京駅の丸の内側の大通りで飾られた「ミレナリオ」という名称のデコレーションが最初で、他で飾られるのも同じく「ミレナリオ」というのかどうか知らないが、あれなんか遠くから見ている分には豪奢だが、実際にそのアーチの下を歩いてみると、すかすかでがっかりしてすぐに飽きてしまう(ついでにいうと、こんな物のためにデザイナーにがっぽり金が支払われるのかと思うと、腹まで立ってくる)。
 それに対して、桜は遠くから見ていてもきれいだし、近くに寄ってしみじみ見てもきれいだ。「ミレナリオ」は電球が最小単位になっていて、その電球の組み合わせでしかないけれど、いくつもの花がまとまって毬のようにこんもりした花から、五枚の花びらによるひとつひとつの花へ、それがさらに一枚一枚の花びらへ、そしてその花びら一枚も手にとって見ていて飽きない……、というように何層もの構造(?)になっている。そういう複層性が自然というもので、だから、いくつもの様相を見せてくれるのだが、それでもやっぱり私は桜に自然を感じることができない。
 しかし本来、〈美〉というのもは自然なのだろうか。〈美〉が自然の中にあるのだとしても−−もっと言ってしまえば「自然の中にしかないのだとしても」−−それを〈美〉だと知るのは人間がいるからだ。
 桜の花は毎年同じように咲くけれど、私が桜の花を美しいと感じるようになったのは二十歳を過ぎてからだった(ところで、以前千鳥ガ淵で会ったおばあさんは、「桜の花も年々色が薄くなっている」と言っていた。その人のお兄さんは近衛兵で、戦争の末期にお兄さんまでが前線に送られることになって、「近衛兵まで戦場に駆り出されるようじゃあ、この国もおしまいだ」と思ったそうだ。おばあさんは靖国神社のすぐ近くまで来ても、毎年きっと千鳥ガ淵の桜を見るのだ)。〈美〉はずうっとそこにあったのに−−あのおばあさんの言葉を信じるなら、「もっと鮮やかな〈美〉がかつてはあったのに」−−、私はそれを知らなかった。
 しかし人間がいなければ〈美〉がないのだとしたら、〈美〉は人間の側が決めるものになってしまう。それはおかしい。〈美〉は観念でなく、実体なのだ(きっと)。鳥が蜜を吸いに花に集まるメカニズムが進化の過程で失われずに綿々と人間にまで保存されていて、鳥が花を見つけるように花に目をやったのが人間と花の関わりの最初で、それが何万年という時間を経て、いわば人間的に洗練されて〈美〉という名前がつけられた。〈美〉をどれだけ勝手に人間の側に引き寄せようとしても、自然から切り離すことは不可能で、せいぜい「人間と自然が接する地点にある」という言い方しかできないだろう。しかしその人間も、内側で鳥たちと同じ進化の系が息づいているのだから、「人間自身の中にある自然が発動するときに、人間は〈美〉を知る」と言う方がいいのかもしれない。
 そこまで言ってみてもやっぱり私は桜に自然を感じることができない。都会の桜しか知らないからだろうか。白金台の都ホテルのロビーから見える中庭(?)には大きな木がいっぱい生えていて、あれなんかは人工的に演出されたものなのだろうが、「思いがけないところに自然があった」と、嬉しくなってしまう。それなのに山に一本だけ生えている桜が咲いているのを見ても自然を感じない……。自然とか人工という区別をこえて、桜は桜だからだろうか。山に生えている木は言うに及ばず、街中に生えている欅や銀杏もどこか無造作な感じがあるけれど、桜はどんな形をしていても桜としてじゅうぶんに整っているように見えるからだろうか。
 翻って、まだ桜をきれいと感じていなかった頃、「きれいねえ」「きれいだねえ」と言う大人たちの横で私が何を物足りないと思っていたかと考えてみると、花の小ささと色の薄さがいけなかったのだと思う。それが何をきっかけで一転して大好きになったかは思い出せないが、桜を大好きになった頃には私はじゅうぶんに人生の時間を溜めていた。それ以前からきれいだと思っていたバラやパンジーは鮮やかな色がすぐにぱっと目に飛び込んでくるけれど、桜はそうではなくて少しの距離みたいなものがある。その距離がかえって見るときに過去の経験をも呼び寄せて、いま目の前にある桜を見ているのに、それだけでない、いままで見たいくつもの桜を思い出させる、ということがあるのではないか。
 そんなことを考えてみても、私が桜を自然だと感じない理由の説明には全然なっていないが、とにかく桜は美しい。一度は吉野の山の桜を間近に見てみたいと思う。


もどる