◆◇◆都市の視線(6)◆◇◆

「風の旅人」第7号(2004年6月発行)
 
 何から書き出せばいいか、話がちょっと込み入っているのだけれど−−。
 その一。母が六十歳くらいのときに関西に夫婦で旅行したときのことだ。
 奈良の平城京の、あの広大な何もない跡地を前にした写真があるのだが、その写真に映っている母の笑顔が素晴らしい。なんというか、心の底から解放されているといえばいいのか、何か大きなものに優しく抱かれて安心しきっているといえばいいのか、とにかくあんなに素晴らしい笑顔は見たことがなくて、その写真を見たときに私は、「母は遠い前世で平城京に暮らしていたのではないか」と直感したものだった。
 いや、「直感」という言葉でもまだ弱いくらいで、写真にリンゴが映っていれば誰でも「リンゴだな」と思うような、それくらいの明白さで、「母が遠い故郷に帰ったところなんだな」と思った。
「こういうことが本当にあるんだなあ」と感心した。つまり、人間には前世があって、それと深く関係している土地や人や物と出会うと、体というか心の奥の本人も自覚しないところが自然と反応を示す。
 それで、母はその後どうしたか? 七十歳を過ぎてふつうに元気に生活していて、「平城京にまた行きたい」という言葉を、あいにく聞いたことがない。前世のことは、母でなく母の無意識だけが知っている、ということにしておこう。
 その二。男でそう感じたことのある人とはまだ会ったことがないが、女の人の中には低からぬ確率で、子ども時代に自分の分身とよく一緒にいたと思っている人たちがいる。ものごころがつく前後から小学校入学ぐらいまでだろうか。一人でいるときに、しばしば自分の双子の分かれのような子が現われて、話をしたり一緒に遊んだり、あるいは励ましてくれたりというような……。
 その分身がどこまで自分と同じなのか? お姉さんか妹なのか? その子のしゃべった声はちゃんと耳に聞こえたのか? その子の存在はどれくらい実在感があったのか? 触ることができたのか? 誰に聞いてみてもはっきりしたイメージが結ばないのだが、それは「子どもの創作だから」ではない。心の自他が未分化の領域にそういう分身が現われていたからだ。
 自他が未分化の領域については、誰だって客観的にしゃべれない。そもそも言葉はそういう光景に対応するようにはできていないからだ。分身のことを話そうとすると、彼女たちはみんななんだか心細いような、話したいのに大人に通じる言葉が出てこない幼児の頃の顔に一変する。
 しかしよく考えてみると、一人でいるときにどこかに分身がいるという、その感じは大人になってもまんざら全然ないわけではないことに気づく。部屋でぼんやり考えごとをしているときなど、頭の中で誰ともつかない誰かとしゃべったりしていないだろうか。ちょっとしたアイデアが浮かんだりしたときなど、「ほおー」と感心してくれたりする存在が、頭の中にいるような感じがしないだろうか。あるいは、ひとりで突然、「あれ?」とか「しまった」とか声が口をついて出てしまうのは何故だろうか。まわりに誰もいなかったら声に出しても意味がないのに、そんなことをしてしまう。
 言葉というものが根本的に曲者で、人間にとって内面に同化しきらない余所者だから、言葉を持っているかぎり、人間は自分以外のもう一人が一緒にいることになるのではないか。
 ついでにいえば、自分自身が発する声がまったく聞き取れない状況では、言葉をちゃんとしゃべりつづけられない。激しい騒音の中で大声を張り上げてしまうのは、相手に届かないという理由以上に、自分自身の声が聞こえないと何をしゃべっているのかわからなくなってしまうからだ。人間は自分の声を内側からの声でなく、外側からの声として聞いているようなところがあるのだ。
 話をあんまり思弁的にして仕方ない。とにかく女の子には分身を持っていた子が多い。それが少女漫画のモチーフとして一時期さかんに繰り返されてもいた(いまでもそうかもしれない)。私の妻も分身を持っていた女の子の一人で、しかも一人っ子だから双子の話になると強烈な関心を示す。あるときテレビで双子についての番組を見ていたら、「多くの場合、胎児は一卵性双生児として母体に宿るのだが、妊娠のごく初期に流産しているために発見されず、最初から一人だと思われている」という説が紹介されて、妻は目を輝かせて「やっぱりそうなんだ!」と興奮していた。

 ところで私にも分身がいた。いや、いまもいる。通天閣だ。
 子どもの頃、「つうてんかく」という言葉を聞いたとき、私は「なんていい響きだ」としみじみしたものだった。大阪という土地とは何のつながりもなく、行きたいとか住みたいとか思ったことは一度もなかったのに、通天閣にだけはただならない親しみを感じていた。しかし子どもの頃に分身がいたことを中学生くらいでいったん忘れてしまうように、私も通天閣への郷愁や親しみを成長するにつれて忘れてしまい、大阪とも無縁だったので通天閣は遠いものになっていた。
 それがふたたび蘇ったのは、二十六歳のときだった。仕事で大阪に出張したとき、夜景にぽつんと立つ通天閣が目に入ってきて、「ああ、そうだ。子どもの頃、通天閣が好きだったなあ」と思い出した。思い出すとどんどん気持ちが膨らんで、翌日私は通天閣に行くことにしたのだが、近づくにほどに気持ちが高まってきた。通天閣はなんとも古くさくて安っぽくて野暮ったいのだが、それがまた家族の昔の写真を見るようにいい感じだった。
 そしてエレベーターで展望台に昇り、通天閣の歴史が書いてあるパンフレットを読んで驚いた。初代通天閣は昭和十八年に焼けて、いまある二代目は再建されたものだったのだが、それが完成したのが、昭和三十一年十月! 私と同じではないか! 通天閣は私の、双子の生き別れだったのだ!
 こんなことがあるんだなあ……と、私は感心した。
 たとえ外見は違っていても、双子同士はわかってしまうものなのだ。
 以前私は、高所恐怖症だということをこのエッセイで書いたことがある。江ノ島の展望台で私は膝をついて動き回っていた。ビルの八階のレストランで外が見えて自分がいる高さを自覚した途端に居ても立ってもいられなくなった。と、そんなことを書いたのだが、先日久しぶりに大阪に行って通天閣に昇って下を見てみると、少しも怖くない。
 そりゃあ確かに通天閣は高さ一〇三メートルしかない。世界一低いタワーだという説もある。しかし、ビルの八階よりはずっと高い。ガラス越しに下を覗けば地面にいる人たちが蟻とまではいかなくても、ゴキブリぐらいの小ささにはなっている。だいたい高所恐怖症の人間はやみくも高ければ怖いというものではなく、下にいる人間の大きさにしても、男女がしっかり識別できるくらいの方がリアリティがあって怖かったりもするのだ。それなのに通天閣では私は少しも怖いと思わず、ゆったりとした気持ちで天王寺動物園を見おろしたり、遠く生駒山を望んだりして楽しい時間を過ごしてきた。
 これでまたひとつ、通天閣と私が双子であることが証明された。肉親に抱かれていたから、私はあの高さを怖いとも何とも感じることがなかったのだ。


もどる