◆◇◆全篇を貫いている暗い力◆◇◆
(長崎俊一『闇打つ心臓』のパンフレットに掲載)

 この『闇打つ心臓』を見て、長崎俊一が自主映画時代に撮ってきた一連の8ミリと16ミリを思い出した。彼の映画のザラザラした感じは突出していた。画面 から受ける感じだけでなく、それ以上に作中の人物が誰も彼も余裕がなく、気持ちがささくれだっていて、犯罪か狂気とすれすれのところを生きている。彼ら彼 女らにとっては愛することと裏切ることに境界がなく、自分の言葉は人を傷つけるようにしかこの世界で聞こえないと、本能のようなものによって理解してい る。優しい言葉なんか誰もしゃべらず、男と女はいつも突然セックスし、男は理由もなく拳銃やナイフを持っている。それらが作られた70年代後半にすでに、 設定も人物も唐突だったはずだけれど、彼の映画の強度の中ではすべてが「これしかない」ような緊密さを持っていて、だから見た人たちはみんな胸の中が波 立った。
 長崎俊一はあの頃、卓抜なストーリーテラーと言われていた。作中人物はみんな夢を持っている。「見果てぬ夢」などというが、そんな甘いものではない、 「持つことが許されない夢」であって、そこから必然的に裏切りや破滅が引き起こされる。その展開はきわめてエモーショナルだったけれど、今回の『闇打つ心 臓』を見て私は、彼が自分の奥底にある「暗い欲望」とでも呼ぶしかない力を隠すために(本人もそうと気づかないまま)、あれらストーリーを便宜的に作って いたのではないかと思った。彼の映画を観て胸の中が波立ったのは、ストーリーや映像の力ではなく、彼の奥底にある「暗い欲望」に触れたからだったのだ。
 ふつう映画というのは、ストーリーや映像の力によって、観客に作家の奥底にあるものを感じさせるものだと思われているが、長崎俊一の映画の場合はきっと 逆なのだ。何よりもまず、作家の奥底の暗い欲望が最初にあって、その力によって、ストーリーや映像が必然性を持っているかのように観客に錯覚させる。しか し長崎俊一の映画を観たことのない人にその魅力を伝えようとしたことのある人なら憶えがあるだろうが、彼の映画から離れた場所で言葉だけで語ってしまった ら、ストーリー自体は荒唐無稽でむしろ子どもっぽいくらいだったのだ。そんなことを何も感じさせなかったのは、テクニックでなく、彼の中で闇打っていた暗 い欲望の力だった――そういうことに、今回の『闇打つ心臓』を観てはじめて気がついた。
 今回長崎俊一は、「卓抜な」と思われていたストーリーテリングを投げ捨てて、暗い欲望だけを撮った。若い二人は子どもを殺したという設定になっている が、本当はそんなこと関係ない時間を生きているのではないか。フロイトが、
「多数の犯罪者は、特に若年の犯罪者では、強力な罪責感が証明される。これは犯行の前に存在していたもので、犯行の結果ではなく、その動機なのである。」
 と書いているが、長崎俊一と映画の関係はまさにこれであって、今回彼は自分にとって最もリアルな構造を剥き出しのまま映画に持ち込んだ。だから、子ども を殺したという過去も二人が抱え込んでいる〈何か〉の前では、些細なアリバイ工作みたいなものでしかなく、二人は子どもを殺す以前からこうであり、子ども を殺しても殺さなくてもこうであり、生涯こうでありつづけるしかない。フロイトは「罪責感」と書いているが、これはそんな簡単な言葉では済まされない〈何 か〉であり、私が便宜的に書いた「暗い欲望」というのもやはり弱い。『闇打つ心臓』全篇を貫いている暗い力は、名づけようがなく、名付けようがないからこ そ、この映画が作られた。
 この映画の若い二人は、事件や出来事によっては説明することができない内面を持っている。事件によっても出来事によっても説明できない内面なんて、映画 にとっておよそ相応しくない主題であり、そんなものがどうして観客にわかるのか? しかし私たちはこの映画を観る前からそれを知っていることを、この映画 によって知らされる。しかし知ったあとも、私たちはそれを言葉にすることができず、「あの映画を見てくれ」としか言えない。すべて映画とは、映画によって あることが明らかになるかのような装いで観客に訴えかけることになっているけれど、それで明らかになるものは観る前から明らかなものでしかない。それに対 してここにある暗い力は、それを知らされても暗いままで言葉にできず、それがあることをただ知ることしかできない。
 だからこの映画は、異様な緊迫感によって観客を引きつけるにもかかわらず、私たち観客はそれに共感したり反感を持ったりという、普通に映画を観ながら抱 く気持ちのプロセスを辿っていないことに気づく。共感とか反感とかは、対象を自分の側に引き寄せて測る、言語化された――ということは「人間化された」 ――心の動きであって、この映画にあるのは動物と分化したり、自然から引き剥がされたりした、人間が人間となった瞬間に向かう眼差しであって、それゆえ私 たちは普段だったら映画を観るときに映画の外の安全な場所に置いておく、「自分」や「精神」や「人間」というものについて、映画を観ることと一緒に考える ことを強いられる。それを考えるのは頭でなく、体の奥にあって言語化されていない遠い記憶だ。
 この映画は強引な力業によって映画というものが存立する基盤を推し広げた。「近年の収穫」などという月並みな評価をこえて、この映画によってこれから映 画がはじまる、そういう映画だと思う。

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