◆◇◆記憶のメカニズムと「個」◆◇◆
場所・時間・物が頼り――「世界」あっての自分、周囲に注意こらそう
読売新聞2001年3月28日夕刊


 記憶は本当に頭の中にしかないのだろうか? なんて言ったら笑われてしまうかもしれないけれど、私は最近これを本気で疑っている。
 たとえば、幼児期の何年かを過ごした場所に大人になって行ってみたら、いままで一度も思い出したことのない記憶が鮮明に戻ってきた、というような話をよく聞く。それなら、もしその人がそこを一度も訪ねなかったら、そこで蘇ってきた記憶も一生思い出されなかったということになる。そういう記憶を本当に、「自分が持っている」「自分の中にある」と言えるんだろうか。
 コンピュータだったら、記憶は呼び出したいときにいつでも、同じ状態で呼び出すことができる。しかし人間は、自分が経験したはずのことをいつでも呼び出せるわけではなくて、ある条件がなければ呼び出せない記憶をいっぱい抱えている。犬や猫だとそれがもっと顕著で、犬や猫は危険な目に遭ったことをしばらくすればほぼ完全に忘れているかのように見えるけれど、その場所に近づいた途端に、同じ危険がいまでもそこにあるかのように怯え出す。
 人間は言葉を使えるために、過去の経験を自分の頭の中に保管していると考えているけれど、そのときの恐怖や喜びまでは、よく似たシチュエーションが与えられないかぎり呼び出すことができない。もうじきセ・リーグも開幕するけれど、横浜ベイスターズのファンである私は、横浜球場のスタンドにいるときと同じ興奮を心の中で再現することなんてできない。
 ホームランの打球が大きく弧を描いてスタンドに飛んでくる数秒間の興奮は、興奮したのが間違いなくこの私であるにもかかわらず、同じ興奮を自分の記憶だけでは呼び出すことはできない。だから早く横浜球場に行きたくてうずうずしているのだけれど、それはともかく、こういう記憶の蘇りのメカニズムを実感すると、人間の脳の基本設計も犬や猫の設計と同じだなとつくづく思う。複雑に進化していろいろオプションはついたけれど、核は変わっていないのだ。
 記憶のメカニズムとはそういうものだから、人は戦場に慰霊碑を建て、死亡事故のあった場所に花を供える。記憶が頭の中だけで完結していないで、場所にも預けられているから、そこを見て思い出すために標を置く。「場所」だけではない。人の記憶は「時間」にも預けられているから、原爆が投下された時刻に黙祷を捧げ、キリストが生まれた前の夜にミサを捧げる。「物」にも預けているから、形見の品が大事に手元に残され、場合によってはオークションで莫大な価格になる。コンピュータの記憶は内部で完結しているから、設置場所や時刻にかかわなく同じ情報を呼び出せるけれど、人間はそういう風にできていない。
 近代社会は「個」が重視されたけれど、必要なのは「個」の確立などではなくて、自分を取り巻く世界にもっと注意をこらすことなのではないだろうか。「人間がいるからこそ〈世界〉という概念が生まれた」と言う人がいるけれど、人間より先に世界があったのだ。人間は世界から生まれてきた。「個」にこだわっていたら、世界のダイナミズムを知ることができない。

※見出しはすべて新聞社によるもの・新聞の場合私はいつもタイトルや 見出しは新聞社まかせ。 
 

【長いバージョン】
 記憶は本当に頭の中にしかないのだろうか? なんて言ったら笑われてしまうかもしれないけれど、私は最近これを本気で疑っている。
 たとえば、幼児期の何年かを過ごした場所に大人になって行ってみたら、いままで一度も思い出したことのない記憶が鮮明に戻ってきた、というような話をよく聞く。それなら、もしその人がそこを一度も訪ねなかったら、そこで蘇ってきた記憶も一生思い出されなかったということになる。そういう記憶を本当に、「自分が持っている」「自分の中にある」と言えるんだろうか。
 コンピュータだったら、記憶は呼び出したいときにいつでも、同じ状態で呼び出すことができる。しかし人間は、自分が経験したはずのことをいつでも呼び出せるわけではなくて、ある条件がなければ呼び出せない記憶をいっぱい抱えている。犬や猫だとそれがもっと顕著で、犬や猫は危険な目に遭ったことをしばらくすればほぼ完全に忘れているかのように見えるけれど、その場所に近づいた途端に、同じ危険がいまでもそこにあるかのように怯え出す。
 人間は言葉を使えるために、過去の経験を自分の頭の中に保管していると考えているけれど、そのときの恐怖や喜びまでは、よく似たシチュエーションが与えられないかぎり呼び出すことができない。もうじきプロ野球が開幕するけれど、横浜ベイスターズのファンである私は、横浜球場のスタンドにいるときと同じ興奮を心の中で再現することなんてできない。
 ホームランの打球が大きく弧を描いてスタンドに飛んでくる数秒間の興奮は、興奮したのが間違いなくこの私であるにもかかわらず、同じ興奮を自分の記憶だけでは呼び出すことはできない。だから早く横浜球場に行きたくてうずうずしているのだけれど、それはともかく、こういう記憶の蘇りのメカニズムを実感すると、人間の脳の基本設計も犬や猫の設計と同じだなとつくづく思う。複雑に進化していろいろオプションはついたけれど、核は変わっていないのだ。
 記憶のメカニズムとはそういうものだから、人は戦場に慰霊碑を建て、死亡事故のあった場所に花を供える。記憶が頭の中だけで完結していないで、場所にも預けられているから、そこを見て思い出すために標を置く。「場所」だけではない。人の記憶は「時間」にも預けられているから、原爆が投下された時刻に黙祷を捧げ、キリストが生まれた前の夜にミサを捧げる。「物」にも預けているから、形見の品が大事に手元に残され、場合によってはオークションで莫大な価格になる。コンピュータの記憶は内部で完結しているから、設置場所や時刻にかかわなく同じ情報を呼び出せるけれど、人間はそういう風にできていない。
 近代社会は「個」が重視されたけれど、それが間違っていたんじゃないだろうか。人間は「個」として完結しているわけではなくて、いろいろなことを場所・時間・物に預けて、それらの力を借りて呼び出すようにできているのだ。神秘主義者はそういうことを「霊力」と名づけたけれど、そんな名前をつけるほど特別なことではなくて、人間の意識全般のメカニズムとしてきわめてあたりまえのことだと思う。
 人間に必要なのは「個」の確立などではなくて、自分を取り巻く世界にもっと注意をこらすことなのではないだろうか。「人間がいるからこそ〈世界〉という概念が生まれた」と言う人がいるけれど、人間より先に世界があった。これはあたりまえの事実だ。人間は世界から生まれてきたのだ。「個」にこだわっていたら、世界のダイナミズムを知ることができない。
「個」にとって「死」は絶対と見える。しかし、それもひとつの俗説で、人間観自体を変えることができれば、「死」は必ずしも絶対ではなくなるのではないか――と、記憶や意識の問題の延長として、最近考えている。

(予定されていた枚数より400字くらい縮めなければならなくなったので、最初に書き上げたのがこの少し長いバージョンです)


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