保坂和志の小説世界と、その背景が見えてくる・・・・。


8月10日、とっても暑い日、
鎌倉稲村が崎、がぶんさん宅にて、
保坂和志氏のインタビューを行いました。
2時間近くいろいろいろいろ
盛りだくさんに話を聞かせていただきました。
聞き手・けいと

        インタビュー         
その1 【登場人物】
その2 【素(ス)】
その3 【俳優と作家】

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

8月16日配信・Mail Magazine Doin' 掲載エッセイ

小説家・保坂和志の閾(いき)に触れて・・・・文/春野景都

 はじめて保坂和志さんの本を読んだのは、5年前の夏。
どこの本屋で買ったのか、どんな場所で読んだのかを、なぜだか、私ははっきり記憶している。「この人の閾(いき)」、私はその本屋で、最初の数ページを立ち読みした時の感覚さえも覚えている。突然ポーンとある映像の一場面に放り込まれた感じとでもいうのだろうか。その映像はきわめて日常的で、何の変哲もないようなものなので、入りこんだ自分自身に違和感を感じさせなくて、とっても居心地がよかった。しかし、家に帰って読み進むうちに、居心地のよさと同時に、ある種、別の居心地の悪さを感じ出したのだ。日常的な事がずっと続いていってなにも起こらないという小説は、ちょっと妙な気分になってくる。しかし、そのうちに気が付いた。その妙な気分は、言い換えれば、新鮮なのだということに。

人がいて、生活があり、場所があり、時間がある。ただそのことを、そのまま見つめただけで、浮かび上がってくるものがある。しかも、彼が使う言葉そのものは、ほとんど飾りっ気がない。そのために、読む側は、日常からはなれた所に追いやられることなく、言葉の持つイメージに惑わされることなく、ここに生きている自分が生のまんま、自分自身が知っている(あるいは、知らない)こと、もの、世界について、いつのまにか、感じさせられ、考えさせられているのだ。

そう、あまりにむずかしくて、よくわからない「アウトブリード」の何章かもふくめて、彼の書くものは、たいてい何か考えさせられる。その反面、読んでいて、突然「プッ!」と、ふきだすように笑ってしまうことがある。たぶん、その部分だけをぬきだしてみてもそのおかしさは伝わらない。それは、これでもかこれでもかと、あるいは、ああでもない、こうでもないと理屈を重ね尽くすような感じのあとに、ふっと、出てくる何気ない一行であったりする。

こういった何気ない一行や、読点が少なく、日常そのものが綿々と続くように思われる彼の文体の印象は、いかにも穏やかだが、その一方で、文学への本質的な問いかけや、世界を引き出すためになされる観察の巧さ、ひとつのセンテンスに込められた情報量の多さなど、どこか力強く、男性的なイメージを合わせ持つ。特に、エッセイなどに見られる入り組んだ迷路みたいな文章は、私にとっては、生理的に難解で、ゲームに真剣になったり車や野球に夢中になる男の子を、みつめているような気分になる。

それでも私は、常々、保坂作品は女性に人気があるのではないだろうかと思っていた。女性に男性にと分ける基準がどこにあるのかわからないけれど、もちろん自分は女性なのだから、男性にどう読まれるかなどは本当のところ、理解などできないけれど、「ヒサの旋律の鳴りわたる」を読んで、思い至った。彼は、女性の内側に土足ではいるような無礼で無遠慮なことをしない作家だということ。
「ヒサの旋律の鳴りわたる」は未発表だけれど、今まで公表された彼の作品には、セックスそのものの描写がほとんどないと言っていい(全くではない)。それなのに、ここでは、保坂作品になじみの人にとっては、想像を絶するほどのむき出しのナマのセックス描写がその全編を占める。私は、男性の手によるセックス描写でここまで誠実に、いきいきとせつなくて、細やかな男の気配と息遣いが感じられるものを読んだことがない。そして、そのことだけでも充分に女性への尊厳にみちていると思うのだけれど、彼は、男性としての思い込みで一般化しがちな、セックスの相手としての「ヒサ」の内面を描かない。あくまでも、「ぼく」だけがそこにいて、快感も思い入れも混沌も内面的ななにもかもを、ひとりでひきうける。その徹底ぶりが、私にはたまらなくいじらしい。この小説が事実で、私がヒサだったなら、読後、まちがいなく泣いてしまうだろう。

そうして、私は、保坂作品に随分触れたのち、保坂さん御自身にお会いした。保坂さんは、よれよれの白いTシャツとベージュのチノパンの上に、リバティプリントのようなかわいらしいブルーの小花模様のシャツをはおっていて、近づくと、ちょっといい匂いがした。かねてから、お会いしたいと思っていただけに、私は、少しドキドキしていたし、いったいどんな人があんな作品を書くのだろうかと思っていたから、興味津々で、だけど、むずかしい話ばっかりするかもしれないと、ちょっと怖かった。しかし、実際の保坂さんは、すごくおもしろい人だった。というより、おもしろい事を話す変わった人だった。よく、保坂さん自身や作品について書かれたものに、のんびりと、とか、だらだらとなどの形容が使われていて、もちろんその感を否定する訳ではないけれど、彼の話し方はとても明快で、はっきりとして、言葉をにごすということはせず、それがとっても、感じよくて、いつまでも話していたいと思わせる人だった。

保坂さんとお会いする以前に、作品を読んでいた期間が長かったため、その間につくりあげたイメージのせいか、実は、「季節の記憶」や「猫に時間の流れる」を書いた人と保坂さん御自身が、今でも結びつかず、とても妙な感じがするのだけれど、先頃出された「生きる歓び」はわたしがお会いした保坂さんに一番近いように思われる。一番近いというのは、作品の中で強いて選ぶならということであって、やっぱりナマの保坂さんは、私にとっては、全く違うナゾの人だ。

先日、保坂さんに電話をした。わたしが敬愛してやまない大島弓子さんが「猫に時間の流れる」の帯の言葉を書いているということで(わたしが持っている単行本にはついてなかった)、その内容について尋ねたところ、電話口で原文そのままを読んで下さった。漢字の部分は「この文字は漢字」、一文字あける時は「点ではなくて一文字あけ」、改行も「改行」と丁寧に正確に二度読んで下さって、二度目も一度目と変わらず、手を抜かず説明も同じだった。丁寧で、几帳面で、正確で、という言葉はどれもなんだか実際の保坂さんにはそぐわないような気がするけれど、でも、やっぱり、電話口の保坂さんは丁寧で、几帳面で、正確だったと、私は思う。